根本仏教講義

3.祈り・感謝 3

祈りより感謝

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今日は「感謝」について考えてみたいと思います。まず感謝する対象とは誰なのでしょうか。たとえばあなたがお母さんのお金を使って車を買ったとします。そのとき、あなたがまったくの他人に向かって「私は新車を買いました。本当にありがとうございました」と言っても何の意味もありませんよね。自分のお母さんのお金を使ったのであればお母さんに感謝すべきである、というのが仏教の考え方です。基本はとても単純なことです。恩を受けたその相手に対して感謝の気持を持つということで、誰だか知らない人に感謝しても仕方がありません。

親に感謝する、教えてくれる先生に感謝する、目上の人に感謝する、知識人に感謝する、自分より道徳的に高い人に感謝する。仏教で祈る対象というのは、要は恩を受けた「他の人たち」です。

お釈迦様は、自分を少しでも助けてくれる人があったら一生その人の恩は忘れるな、恩を忘れるのは人間らしくないとまでおっしゃっています。

仏法僧に礼をするのも真実を教えてくれた先生だからであって、やみくもにただ感謝せよというのではありません。私がときどきおかしく思うのは、正しい生き方や人の心を清らかにする方法を教えてくれたお釈迦様に手を合わせるのを恥ずかしがる人が、コマ犬や獅子などに手を合わせる姿を見かけることなのです。師としてのお釈迦様に手を合わせることは、恥ずかしい「盲信」でもなんでもありません。ごくあたりまえの人間としての道徳だと思われませんか。その程度の文化的な心がなければ到底悟りなど開けません。

日本では仏教嫌いな人が多いようですが、無意識的な行動の中にその嫌っているはずの仏教の精神がたくさん入っています。たとえば「おかげ様で」と言いますね。自分が入院して退院してきたとき、見舞いに来てくれたわけでもないのに隣の人が「いかがですか」と聞く、そこで「はい、おかげ様でしっかり治りました」と答えますよね。自分の調子を聞いてくれただけでも、多少なりとも心配をしてくれたわけですから、そこに感謝するんですね。そこには仏教の精神があります。日本の日常の礼儀の中には仏教の精神がちゃんとあるんです。ないのは神社やお寺に行ったときですね。特別な得体の知れない、自分の知らない人に感謝するわけですからね。

テーラワーダ仏教で仏法僧の3つに感謝するのは、仏法僧でなければこの教えをもらえないからに他なりません。得体の知れない他人に感謝しているのではなく、教えをもらった師に対しての礼なのです。その師は我々からいえば乗り越えられないほど偉い、大きなものなのです。自分の両親への恩というのは、いくらがんばっても返せないものなのだそうです。両親が自分にしてくれたこと、育ててくれたことにたいしてはいくらお金を払っても払いきれない、ですから感謝しなくてはいけないといいます。同じく仏法僧から教わる、心清らかにする教えというのは両親にも教えることができないものなのです。だから礼をするのであって、依存しているのでも盲信しているのでもありません。

重い心持ちでやることでもありません。気持ちよく、先生おはようございます!という感じで楽しくやることです。仏法僧に帰依するということは、先生といつも一緒にいるということなんですね。自分の面倒をよく見てくれる、自分の過ちをよく正してくれる、偉大なる先生といつも一緒にいるということが、三宝に帰依して活動することなのです。

なぜ、慈悲の瞑想をするのだと思われますか? あの「天にまします我々の神様、ありがとうございます」というあいまいとした概念、正月だけ神社や寺に行って知らない神や仏に感謝するような意味のない思考、それを正すためなんです。なぜかというと、我々はすべての生命のお蔭で生きているからです。たとえば、私の着ている衣ひとつとってみてもどれほどの人の手を経てできたものかわかりません。糸、色、織り、またその機械を作った人やシステム開発した人など、何十人、何百人もの人間の協力でできあがったものです。何げなく手にするこの衣の裏に、どれほどの人が介在しているのでしょう。紅茶はもともとは東洋のものだけれど、缶を作るシステムや畑で量産する現代のシステムはヨーロッパ人が考えたものもあり、今口にする紅茶には東も西も全部入っていますよね。ですからその紅茶を飲むときには日本風に「いただきます」「ありがとうございます」と飲むことは正しいと思います。紅茶一杯飲めることも、ひとつの幸福です。それができたのはすべて多くの「人」のお蔭です。皆のおかげでできあがったわけですから誰かわからない相手に感謝するのではなくてやっぱり「生きとし生けるものが幸福でありますように」ではないでしょうか。

一杯の紅茶を飲んで幸福だと感じるならその幸福をくれた相手、つまり「生きとし生けるもの」の幸福をお祈りする義務がついてくるのです。それをしなければそれは借りになります。おいしい紅茶を飲んで「神様ありがとうございました」と言ったところで借りは返せないんです。お釈迦様ははっきりとおっしゃってます。生きとし生けるものは幸せでありますようにと心から祈ることで、自分の借りは全部消えるのだと。

お坊さんたちにも厳しく戒めておられます。毎日、瞬間でもいいからやりなさい。そうでなければあなたたちは借金だらけなんですよと。食べること、着ること、電気も建物も、何でもかんでも人のおかげでいただいているものであって、何ひとつも自分ひとりの力だけで得たものはないのだからと。

ですから仏教では、誰かに向かってお祈りするというような唯一の相手はないのです。生きとし生けるものに対して慈しみの心を作ってください。そうすることであなたが得た幸福の借りを返したことになります。生きとし生けるものとは人間だけじゃないんですよ。人間は、他の生命もなければ存在しません。動物もみんな対象になります。さらに目に見える生命ばかりではなくて目に見えない生命もいっぱいある。その生命も、たとえ我々にわからなくても我々の生存と何か関係があるはずなのです。そんなすべての、限りない生命に対して慈悲の心を作ることです。

とは言え人は弱いものですから、どうしても誰かを仰ぎたいと思うとすれば、その相手は仏法僧しかありません。なぜなら仏法僧は偉大なる師だからです。輪廻解脱する方法を教えることのできる師は他にないからです。つまり「先生」としてということです。仏法僧の立場から見ると、ありがとうと感謝されたいと思っているのではないのですが、おはようございます、というような明るい気持ちで感謝の礼をすればよいと思います。毎朝お釈迦様の仏像の前で感謝の礼をすることは、人間としての立派な行為といえるのではないでしょうか。

そんなことが、「宗教じみてる」とか「盲信」だとか言う人にはあえて説明しようと思いませんが、そういう人は自由にすればいいと思うし、また個人的な信仰を持っているならそれもなさっていいのです。すべては個人の自由だからです。誰がどう考えようと私たちの答えはひとつです。すべての生命に慈悲の心を作ること…。そうすることではじめて、いただいている恩恵に感謝したことになるということです。神というひとつのエネルギーに支えられて生きているわけではなくて、我々みんなひとり一人が力を出し合って相互に依存しあってやっと、社会は成り立つのだということです。ただそれだけのことです。

そして我々は誰ひとり偉くはないのです。みんな同じです。

話を戻しますが、神様のような存在を作りそれに向かってお祈りしたがる人はカルマ論を否定している人です。カルマというのは、我々は自分の行動によって幸福にもなり不幸にもなる、心の持ち方次第で人生は決まるという考え方です。そうではなく神様のおかげで人間の運命が決められるのだとしたら、その神様という人はひどい人なのではありませんか。地球を見てもお腹いっぱいご飯を食べられる人より食べられない人の方が多いし、最新の医学の恩恵を受けられる人よりちょっとした病気で死んでしまう人の数の方が多いわけですから、それなら人間を造った神様ほど悪い人はないのではありませんか。

カルマ論では、あなたが何かすると何か結果が生まれると言います。とても具体的でわかりやすい話ではないでしょうか。

たとえば1年間、美しくきれいなことばだけをしゃべると覚悟を決め、間違ったことや人を傷つけることをしゃべらないように1年間がんばると、実に立派な人間になるのです。やっぱり立派なこと、役に立つこと、正しいことをしゃべるには、また無駄話をやめるには、心のコントロールが必要です。心をコントロールするとからだもコントロールされ、無駄がなくなり健康になってきます。人間は自分のからだや心を通して他の人と関係を持っていますよね。するとその関係もずいぶん良くなってきて、またそのことに影響されて自分自身も立派になってくるのです。それがカルマ論です。それで1年経って幸福になって神様に感謝したって仕方ない。自分ががんばったんだから自分の写真を貼ってそれに手を合わせた方がまだましだと思いますよ。

我々が幸福になるとすれば、それは過去にいいことをしたからです。何もいいことをしないのにどんどんいい結果が出るとすればそれは法則ではありません。そんなことはありえない。ずっと人をだまして泥棒し強盗してきた人がどんどん社会的に認められて総理大臣になるということはありえないんです。世の中の法則、宇宙の法則というものは必ずあるのです。

もし今が幸せだと感じるなら、今までいい生活をした結果が現れたのです。でもそれで誰かに感謝して、ああ良かった、気が済んだと思ってしまうと危ない。たとえば急に宝くじが当たってあまりにも楽しくて幸せで幸せでというときは神に感謝して自分で納得したいんですね。でもそれは危ないんです。ちゃんと感謝したからこれで済んだ、ちゃらになったと考えると危ないのです。それから高慢になって悪い方に走り人生暗い方に向き始めるというのは良くあることです。

幸福になったなら、それは何か過去に行ったことの結果です。でも、それまでいいことをしてきたかもしれませんが、これからひどい目に遭う可能性もあるわけです。せっかく幸福になったわけですから更なる幸福のためにはもっと自分を戒め、姿勢を正して生活しなくちゃいけないのです。

我々の立場からいうと、幸福になったらその新しいエネルギーで何かいいことをするんです。もしお金が入ったとしたら、誰かの面倒を見てあげたりお布施をしたり。幸福になって、誰かに感謝してほっとして終わるのではなくて、新しい良い行いをするためにこれをバネにしよう、という気持の方が仏教的なのです。(以下次号)