根本仏教講義

11.幸せの分析 3

不幸は余計な思考から

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、幸せとは充実感を持てること、つまり生きることに意味があると感じられることだというお話をしていました。
でも、この「意味」という言葉には気をつけなければなりません。

「人生の意味」という言葉

「人生の意味」と言ったとたんに誤解されることがあります。どういうことかというと「私は、何か意味があってこの世に生まれたのでしょうか」とか「それは神様にしかわかりません」とか、頭で何かおかしな形而上学的なことばかり考えちゃうんです。

たとえばある人が足が不自由に生まれた。それを見て、それは神様がお考えになってそうしたのだと、説く人がいる。そのような話は、まったく意味がないのです。検証できない「神の意志」などではなく、我々の目で見てわかる「意義」をきちんと考えてほしいのです。たとえば「私はしっかりしなくちゃいけない。なぜなら、私がしっかりしなくちゃ、子供たちがだめになりますから」と言うなら、それで十分なんです。はっきり意味がわかっておられるのです。お母さんとして、力強く、しっかりしなくちゃだめなんだ、ちょっとしたことでくよくよしてはいけない、堂々と自信を持ってがんばらなくちゃいけない、と。そうすれば子供たちがスクスクと立派に育っていく、それが生きる「意味」なんですね。

神様は、何かの計画に基づいて我々を作ってくれたのだと言っても、知り得ないことでしょう。そのような考えは、人間が生きることの本当の意味がわからないから、本当の人生の課題がわからないから出てくる、余計な考え方なのです。

生きる意義や目的は目の前にある

聖書にも、私が言っているようなことが書かれています。こんなストーリーがあるのです。ある人が死んで、神様のところに行ったら、神様が「こっちに来るな」と言うのだそうです。その人は「どうしてなんですか、私はちゃんと教会を守って、毎日お祈りを欠かさず、きちんとまじめに生きてきました」と言いました。神様は、「おまえは私を無視した。私が、のどが渇いて水が欲しいと言ったとき、おまえは知らん顔してあっちへ行ってしまった。またある日、ものすごくお腹がすいて食べ物もなくて困っていたとき、おまえはたくさん食べ物を持っていたのに、ひとかけらもくれなかった。そのような性格のおまえは、けしからん」とおっしゃった。「何をおっしゃいます、神様。神様が水が欲しいとおっしゃるなら世界中の水を集めて差し上げますし、ご飯が欲しいと言われるなら、何億円分のご飯でも差し上げるんです。そんないい加減なことを言わないでください。だいいち、私が生きているうちには、一度も神様にお会いしなかったではありませんか」
そこで神様は言われる。「おまえは○月○日、ものすごくのどの渇いた人を、×月×日、お腹をすかせた乞食を見たではないか」「そういえば、覚えがあります」「そのとき、その人に水をあげたのですか」「あのとき私は忙しかったし、その人もどこからか水を捜してきて飲むのではないかと思って帰ったのです」「では、その乞食には、食べ物をあげたのですか」「そんな連中は、仕事もしない怠け者で、私がみんなにご飯を配ったりすれば、さらに怠け者になるだけですからあげなかったのです」…それに対して、神様は、「あなたは自分のことしか考えてしませんでしたね。ですから私に水もくれなかったし、ごはんもくれなかった」と追い出し、地獄に行かせたという話です。

ここで言うのは、我々の目の前にいる、私たちが今助けてあげなくちゃいけない人が「神」である、仏教で言うなら「仏様」である、という話なんですね。我々の生きる意義や目的というのは、目の前にあるものなのです。
自分の家族を大事にすること、自分が生かされている社会を大事にすること。せっかく地球の恩恵を受けて生きているわけですから、それを何倍にもして返してあげること。泣いている人を見つけたら、慰めてあげること。のどが渇いている人を見つけたら、飲みものをあげること。寂しくてどうしようもない人がいたら、その寂しさをなくすように何かしてあげること。電車に乗って、からだの弱い老人や障害のある人を見たら、「どうぞお座りください」と席を譲ること。

わかりやすく言うならば、自分が生きることによって、まわりが幸福になる、まわりの助けになる、自分の生き方が無駄ではないと思える人生というのは、幸福な人生なのです。その人は、泣かない、苦しまない、悩みはない。その人が、たとえ宮殿のようなところに住んでいようと、家もなくて道ばたで寝ていようと、幸福にかわりはないのです。それは、万人共通の幸福の道なのです。
ちょっと考えを入れ替えるだけ。私が生かされていることに気づき、だから私も皆さまを生かしてあげる。それだけのこと。

不幸になるには

次に、どのような場合に不幸になるかを考えてみましょう。不幸になる最大の要因は、現実から離れることです。現に私たちが生きている社会、家族、学校、会社、私たちが生きている地球のこと、地球に住むみんなのことをすっかり忘れて、神様がどうだ、私の党は正しくて、あの党は間違っている、北朝鮮はけしからん、などと、かけ離れた、いわゆる「妄想」の世界で苦しみを作り出すことです。神様がいるかいないかなんて、わからないのです。いてもいなくてもかまわないのです。「私の幸福」には関係のないことなのです。

日本という国にもそのような経験がありますね。昔、日本は「神の国」であるという概念があったんですね。その結果としてどうなったかといえば、不幸になりました。ひどい目にあったところで、そのプライドを捨てた。そうすると、短期間のうちに幸福を取り戻しましたね。

日本もほかの国々と同じひとつの国です。威張っているよりは、毎日のことをがんばればいいのです。遠い神や国家を守るよりは、目の前のうちの子を守る、その方が正しいことを知って生きていれば、自分たち自身も幸福になっているし、国家も守られている。

宗教の世界を見ても同じなんです。運命の話や、怨念の話や、ご先祖様の話や、目の前の現実とはほど遠い、余計な話ばかり。どうやって元気に生きて行くべきか、そこを教えて欲しいと、私は思うのですがね。どういう風にがんばれば、幸福に元気に明るく、自分の責任を果たして生きていられるか、そういう行動的で、活動的な答えが欲しいのです。それが、宗教の仕事だと思います。会社は、儲かるように説法するのが当たり前です。しかし、宗教だけでなく学校もやらなくちゃならないし、お父さん、お母さんも、やっぱりやらなくちゃいけませんね。そしてできないところを、宗教が助けてあげるのが理想だと思います。

人間はすべて平等で、人間らしく生きていて欲しい。人の役に立つように生きていく。それができた人には、ご褒美があるのです。ご褒美とは、解脱することです。それによって、その苦しみを完全に脱出する。それがご褒美です。

わけの分からない、理解できない迷信にはしる前に、ちょっと気をつけた方がいい。おもしろいからと、考えたり勉強してみることはかまいませんが、たとえば世紀末が来ても来なくても、結局は関係ないでしょう。今日一日、自分の責任を果たして、充実して生きていられれば明日死んでもかまわないのではありませんか。

過去について悩むことなく、明日についていろいろ考えあぐねることなく、今現在、元気で充実感があって、自分がやらなくてはいけないことがわかっていて、その責任をきちんと果たして、充実感を味わって生きることが、生命には必要なのではないでしょうか。それが幸福に生きるということではないでしょうか。

人生は悩みの中にある

しかし、生きるということは大変苦しいことで、そんなに楽なものじゃないんですね。日々いろいろな問題が起きてくるんですね。
そのなかでも、からだの問題よりは心の問題で、我々は悩んでいるんですね。生まれてから死ぬまで心の問題で悩んでいます。不満があったり、自信がなくなったり、悩み事が生まれたり、そういう心の悩みは尽きることがありません。心から明るく、楽しく、気持ち軽く、心底から笑って生活することは、なかなかできることではありません。我々がものすごく感激している時間というのは、ほんのわずかなのです。大部分の時間は何の感激もなく、何かどこかで、いつでも悩んで生きているのです。一度、よく確かめてみてください。

朝起きてから「ああよかった。すごく楽しい。気持ちいい」と思う時間と、そう思わない時間を一日だけでもいいので、チェックしてみてください。「ああ気持ちいい」と思って、またすぐ何かあって困ったりする。そうすると、我々が一日の中でどれほど悩んだり、神経質になったり、不安になったり、いらだったり、落ち着きがなくなったりしているかがわかります。一人でいて、何もしていないようでも、心の中で悩んだりしているんですね。ちょっと暇だと退屈だと悩む。やることがあると、大変だ、暇がない、と悩む。体の調子が悪いとまた悩む。

心というのは、「悩む」ことを基本のあり方としているものなのです。子供なら、泣くのが当たり前であるように、心は悩むのが当たり前なのです。でも悩みたくない、と言うのが本音なのです。それなのに、悩む。それは矛盾なんですね。(次号に続く)