あなたとの対話(Q&A)

生きること、死ぬことに意味があるのか?/心の器の大きな人間になる/道徳とは何か?

パティパダー2014年5月号(200)

生きること、死ぬことに意味があるのか?

この世は、生きるに値する世界なのでしょうか? 生命が次々に生まれては死ぬことは、何のためなのでしょうか?

生きることに意味はない
 有意義に生きてみる、ということがポイントです。生命は、生まれる・死ぬ。生命が生まれて死ぬ間で、あらゆる苦労をする。生きている間に、他の生命に多大な迷惑をかけている。たくさんの生命を殺して生きている。ですから、生きること事体は、決して美しくはないのです。どう生きても無意味なのです。
 
 例えば、肉食動物たちが長生きすると迷惑でしょう? なぜなら、他の動物を殺してしまいますから。ということは、人間が長生きすることで、どれぐらい他の生命が死ぬ羽目になるのでしょうか。ですから、「長生きして良かった」とは言いづらいのです。
 
 では、早く死んでしまった方がいいのかというと、それもまたおかしい。子供が生まれて3カ月ぐらいで死んでしまうと、だったら生まれてこなかった方がよかったのではないか、とさえ思ってしまうでしょう。

 というわけで、早死にすることにも意味はないし、長生きすることにも意味がない。生まれたことにも意味はない。死ぬことにも意味はない。死は本当に嫌だと思っているのです。嫌と思ってもダメですね。これは絶対的な決まりです。生まれること、生きること、死ぬこと、命という働きには、完全に意味がないのです。それ自体、矛盾なのです。死がなければ、命は成り立たないのです。呼吸しなくても、ご飯を食べなくても生きていられるなら、それらをする必要はないでしょう。そうしたら、あとは何をするのですか? 石のように、ただの置物のように、ただいるだけでしょうか。

生きている実感はどこから?

 私たちが「頑張って生きている」というのは、難しい仕事をする、仕事のトラブルがある、結婚をしたけれど毎日が最悪、子供が生まれて子育てが大変と、そういうふうに毎日トラブルにぶつかっていると、「生きている」という実感が出てくるからなのです。死がなければ、トラブルがなければ、生きているという実感すらなくなってしまいます。
 
 例えば、人が突然心臓発作を起こすと、救急隊や医者などは、自分たちが存在する価値を感じるのです。医療機械を見事に扱える技術屋さんたちが、さっと心臓を動かすようにする。それで鼓動が正常になって、脈が正常になると、お医者さんがホッとして「あぁ、良かった」と、その瞬間でその人に医療を学んで訓練した価値が現れたのです。死が無かったら、その価値は現れないでしょう。
 
 人が病気にならなかったら、医者というのは何をするのですか? 散髪でもするのですか? 人間がアホなことをしなかったら、弁護士は要りますか? 弁護士は結構お金の儲かる仕事でしょう。人間の頭が悪くて、法律を無視したりして、どうやって悪いことをするかしか考えていなくて、どのように税金を払わずに済むのかとか、そのようなカラクリをやっているのだから、弁護士には仕事があるのです。

死がなければ生は成り立たない

 私は今の瞬間にでも死んでしまうかもしれません。ですから、頑張って生きていようとするのです。命そのものが、死があって成り立っているのです。ですから、仏教用語や禅の世界でも、「生は死であり、死とは生である」とカッコイイことを言っているのです。言葉はカッコイイから皆さん憶えますけど、意味は分かっていないのです。ただ事実をそのまま、意味が分からないように言っているのです。
 
 その言葉が意味するところは、死がなければ生は成り立たない、ということです。今の瞬間の命が死で成り立っているのです。ですから、瞬間・瞬間でも死んでいるのですけど、私たちはある一場面だけ死だと思っているのですね。肉体の機能停止が死だと思っているのです。それは我々の勘違いです。よくもまあ勝手な勘違いをするものです。

 肉体というのは、いつでも壊れているのです。肉体の機能を続けるためには、細胞が死ななくてはいけないのです。細胞はそんなに長生きできません。80年間も生き続ける細胞はありません。3カ月ぐらいすると、今ある細胞は全部死んでいるのです。細胞がいっぺんに死んでしまうと困りますから、順番に死んでいるのです。それに愚かな私たちは気づかないのです。

 肉体の維持さえも死で成り立っています。細胞が死ぬことと、新たな細胞が生まれることで成り立っているのです。それを無視して、肉体の機能停止だけを観るのは良くないのです。質問者は肉体の一場面だけ観て、「あぁ、なんだ、これは悲しいな」と思っただけです。だったら瞬間・瞬間、悲しんでください。

自我中心ではなく法則として観る

 ですから、生まれることに意味がない。生きることに意味はない。死ぬことにも意味はない。ただ現象として起こるだけです。地球が自転することに何か意味がありますか? 何もないでしょう。太陽が燃えていることになにか意味がありますか? ただ、どうしようもなく燃えているだけです。止まることもできないし、早く燃え尽きることもできません。

 そのように法則として物事を観なくてはいけないのです。自我で物事を観るのではないのです。「私がここにいるのは、やっぱり太陽様のお陰ですから拝みましょう」とか。それというのは、自我なのです。火の玉を拝む愚かさになぜ気づかないのかというと、自我が割り込むからです。自我中心に観ているからです。自我中心に観ると、富士山も拝むことになるのです。それらは、すべて自我から出てくる考えです。

 法則として観てほしいのです。太陽が燃えている。それは何のことはない。地球は自転している。それも何のこともない。そんな深い意味はありません。

 それで私たちの仕事というのは、そういうものに意味を探すことではないのです。元々、意味はありません。仏教的に観れば、意味がないものに価値や意味を付ける生き方は、無知な人間の無駄な生き方なのです。そういう生き方とは違った、別な生き方が出来るはずなのです。

 信仰とはまったく関係なく法則で観ると、命の場合も、死で命が成り立っている。瞬間・瞬間死んでいて、それで生きているというのです。そして、最終的には全体的な機能停止をする。それで私たちは、誰にも頼ることはできなくて、誰にも助けてもらうことは不可能で、死を誤魔化すために忙しいのです。神様に祈っても、本当は無駄です。生命は皆、生き延びるために忙しいのです。

意味のある生き方

 このように、生きることは無意味だからこそ、私たちは「意味のある生き方」をするべきなのです。それで守るべき項目が10項目(十善)あります。①殺生しない。②盗まない。③邪な行為をしない。身体でその3つを守る。簡単でしょう。そんなに難しくないでしょう。

 それから言葉に気をつける。これは、かなりの修行になるのです。頭がしっかりするのです。④嘘を言わない。⑤噂を言わない。⑥乱暴な言葉を使わない。⑦無駄話をしない。簡単でしょう。

 次に、⑧異常な欲を止める。⑨異常な怒りを止める。⑩理性的に物事を観る。つまり、妄想の管理をするのです。物事を客観的に観て、正しい判断をするのです。

そして、生命に対して慈しみの実践をしてみるのです。

 ということで、この10項目を守って慈悲の実践をすることが、それこそが人間の生きる道なのです。それが生きる目的で、それに達してほしいのです。そのために生きてほしい。その目的でないと、ただ無駄になります。大切なのは、「生きる道を発見する」ということです。このように生きることによって、生きることに価値が現れてきます。そうでないと生きることに価値はありません。


心の器の大きな人間になる

心の器の大きい人間になるには、日々どのような努力をすればよいのでしょうか?

自己中心に考えることをやめる
 自我の錯覚をなくせばいいでしょう。なんでも自己中心に考えることをやめる。それだけです。我々はいつでも「自分」が先にくるのですね。自分の都合、自分の楽など。ですから、自分のことを心配するより先に、周りのことも心配する人間というのは、すごい心が大きいのです。信じられないぐらい、心の器がたちまち大きくなります。そこは、気をつけて実行してみてください。

 自分が悪いことをしながら、「私のことはどうでもいいんだけど、あなたは悪いことしないでくれ」という、だらしない生き方ではないのです。とにかく、人のことも心配する。自分のことだけ考えるということをやめてみる。それで、心の器が大きくなります。

お金で買えない楽しみ

 シンプルな論理ですね。自分が千円を持っていて、レストランで昼ご飯を食べる。それは楽しいことでしょう。同じ楽しみを作るのです。ある一人がいて、お腹が空いているのだけど、なかなかお金がなくてご飯が食べられない。それで、その千円をその人にあげて、「じゃあ、あなたはこれでご飯を食べてください」と言うと、自分にとってはお金があるし、朝飯も食べたし、別に一日昼飯を食べられなくなったといっても、どうということはありません。その代わりに、他人が自分の千円でご飯を食べている。それというのも、結局自分たちが作る「楽しみ」なのです。

 でも、私たちは肉体至上主義で生きているので、「だって、私もお腹が空いているんだもん」と馬鹿なことを言うでしょう。しかし精神的な安らぎはどうですか? 自分がすごく良いことをしたというと、自分に価値が入るでしょう。情けない人間ではなくて、「なかなか良いこともやる奴だな」と。それはお金で買えるものですかね。

自他を同列にする

 ですから、やはり自分のことだけ心配する人は価値がないのです。自分の千円でご飯を食べて、「お前に金がなかったって、知ったことじゃないだろう。これは俺の金だから、俺がご飯食うぞ」という人には、生きる価値がないのです。「あなた、ご飯食べてないの? じゃあ、私も昼ご飯食べようと思っていたけど、いいや、分かりました。これ、あんた食べてください」という人こそが、偉大な人間なのです。

 心の器の広い人間になるということは、簡単ですよ。そんなに大袈裟なことではないのです。我々は自分のことだけを中心にしている。他のことは無視します。そこをそうしないで、人のことも心配する。自他を同列にした方がいいのです。私よりも相手のことが心配というのは、それは詐欺・偽善です。それは、やらない方がいいのです。「私は自分の命まで惜しまず、人のために頑張るぞ」とか、そういうのは詐欺師たちです。嘘ばっかり吹聴しているのです。そうではなく、自分と他人を同列にするのです。そういうふうに頑張ってみてください。


道徳とは何か?

道徳ということについて、いま日本でも考えられないような悲惨な事件が起こっています。私もよく考えたのですけど、道徳ってなんなのですか? それからもう一つ、道徳というものがあるならば、いずれかの宗教に裏付けされているものなのでしょうか?

道徳は人生と不可分
 道徳はあります。道徳とは、判断することです。では、我々は判断なしで生きていられますか? 犬猫は判断なしに生きていられますか? 生きるものは、いつでも判断をして生きるのです。ですから、判断する場合は、「どちらにしようか」という判断なのです。そうでしょう。これしか道がないということだったら判断する必要もないでしょう。

 例えば、階段で転がったとすると、「どうしようかな」と判断するどころではないでしょう。サッと手摺りを摑むしかないのです。「どちらにしようか」という判断が道徳です。ということは、我々は目がさめた瞬間から、寝つく瞬間まで、判断して生きています。面白いことは、夢を見るときも判断します。

 それで「道徳の定義」なのですが、この判断によって、自分がダメになる。周りもダメになる。それは悪い判断です。判断の結果として、自分が上手くいった。周りも結構上手くいった。それだったら良い判断です。ですから、判断には正しい判断と、そうでない間違った判断というのがあります。曖昧な判断はありません。中間的な判断はありません。AかBか、イエスかノーかです。

 それでも中間的な判断があるのではないかと思ってしまうでしょう。中間的な判断の結果は中間的で、どうにも把握できない。ですから、悪い判断よりも周りが困るのです。「あなたが犯人だ」と有罪を決めるのに、もし証拠が全部揃っている場合はいいでしょう。簡単でしょう。しかし、この人のせいでこの人が死んでしまったんだけど、でもこういうことがあって云々となってくると、なにか中間的な判断にならなくてはいけない。その中間的な判断で、みんなものすごく困るのです。ですから、中間的な判断も悪い判断になるのです。

 それで、我々は判断をして生きている。自分がした判断によって、自分が幸福になる、周りも幸せになるなら、善い判断。自分が不幸になって、周りに迷惑かける判断だったら、悪い判断。それで、善い判断には「道徳」と言うし、悪い判断には「非道徳」と言うのです。他の言葉に入れ替えても構わないのです。「罪」と言ってもいいし、「徳」だと言ってもいいのです。悪い判断に「あなたは罪を犯しました」と、善い判断に「あなたは徳を積みました」と言っても一向に構わないのです。

「道徳」とは、そういうものなのですね。ですから、「道徳」というのは、我々の人生と不可分なのです。離れられません。命あるものだったら、道徳という課題も付いてくるのです。仕方がないのです。判断しなくてはいけないのですから。

道徳は宗教と無関係

 次の質問は、道徳はいずれかの宗教に裏付けされているものか、ということですが、そういうことはないのです。宗教となんの関係もありません。宗教があろうがなかろうが、道徳はあるのです。

「道徳」というのは宗教の特権ではないのです。なぜなら、エホバ神が独自の道徳を言う、アッラー神は別なことを言うでしょう。それでは、やり切れないでしょう。アッラーというイスラム教の神を信仰すると、その人が全く違う道徳を言うのです。エホバ神はまた違う道徳を言う。イエスという人も全く違うこと言う。

 ということで、道徳というのは、宗教に関係ない。哲学にも関係なし。普通の生物学的な知識などと同じことです。生物学的な知識は知っていた方がいいのです。「何を食べればいいのか? 何を食べると悪いのか?」などとまるっきり同じです。私が言うのは、道徳は呼吸と同じだということ。欠かせません。呼吸は欠かせません。道徳も欠かせません。

道徳に対する数々の疑問

 それなのに、人間は道徳に対して疑問を持っているのです。道徳はあるのでしょうか、ないのでしょうか? 必要でしょうか、不必要でしょうか? 変わらないものでしょうか、時代や環境によって変わるものでしょうか? 道徳を重んじると生きづらく精神的に悩むはめになるのではないか? 道徳を軽視する人々は気軽に生きていて、人生に成功しているのではないでしょうか? 道徳は宗教が人間に命じる生き方ではないでしょうか? 道徳は人間だけが作った文化的な現象ではないでしょうか? そうであるならば、それぞれの民族にそれぞれの道徳があるのではないでしょうか? 普遍的で人類に一貫した道徳は存在しないのではないでしょうか? 道徳は死後も命が続くと信じる人々だけが守るべきもので、死後、命が終わると信じる人々には関係ないものではないでしょうか? 

 権力者も国民を支配・管理するために、自分の都合で作ったものではないでしょうか? 法律制度がしっかりしているならば、道徳は要らないのではないでしょうか? 道徳は自分の意志で守ると判断するものでしょうか、他に命じられて否応なしに守るべきものでしょうか? ある環境で悪いと決めたことを犯した人が、その行為が悪くないと思われる別な環境に逃げてしまえば、悪行為の結果からうまく逃げられるのではないでしょうか?(最後の疑問に説明が必要です。世界の法律は一般的に、一夫一婦制度です。結婚しているのに他の人と結婚することは違法です。しかしその男がイスラム教に改宗すれば、三人の妻を持てますので、合法になります。普通の法律で裁くことはできなくなります。)

 道徳に対する皆様の疑問はこの程度だと思います。それは「道徳とは何なのか?」と理解していないから起こる疑問です。道徳は生きる上で欠かせない条件であると、呼吸することと同じものであると理解するならば、これらの問題は消えてしまうのです。

道徳を乗り越える

 仏教は「道徳を守るべき」というスタンスで止まりません。判断して生きていなくてはいけないのです。判断が間違ったら、悪い結果になります。楽に生きられなくなります。ですから、必ず道徳を重んじるべきです。もし人が心を育てて判断を濁らす感情を根絶したとしましょう。それからその人の判断が間違わないのです。常に正解を見出すのです。どちらにしようか、という疑問さえも起こらないのです。ということは、判断に困ることがなく、生きていられるのです。判断する義務から解放されたら、道徳は関係が無くなるのです。道徳を乗り越えた事になるのです。その人は,いかなる場合でも道徳を犯しません。これは道徳を乗り越えた状態です。

 仏教が説く「善と悪から自由に成りました」というフレーズを、詐欺師の宗教家たちが自分の都合で解釈する場合もあります。「私は覚りましたから、戒律を守る必要はありません。道徳を守る必要はありません。自由に生きられます。覚ってないあなた方は道徳を守りなさい」と言うのです。このような詐欺師たちにダマされないように気をつける必要もあります。

 道徳を乗り越えた人は、間違った判断はしないのです。道徳を犯すということはあり得ないのです。間違いを犯すおそれがある一般の人々は、道徳に気をつけて生きるのです。

関連タグ