智慧の扉

2015年11月号

修行のゴールは無執着

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 仏教でいう「一切(=世界)」とは、眼・耳・鼻・舌・身体・意(こころ)という6つの感覚器官と、その感覚器官の対象である6つの色・声・香・味・触・法(意に入る情報)のことです。ここから起こる感覚(受)・認識の働きがすべてで、これが世界であり、このシステム以外の世界はありません。
 
 生きていると、絶えず感覚が生まれます。この感覚に対して執着が生まれる。そこで、苦しみが連続していくことになるのです。ですから、仏教ではその感覚・認識システムを、ありのままに観てくださいと教えています。激しく流れていくこの感覚・認識システムを観て、そして、どこで渇愛・執着が生まれるのかと発見する。その渇愛・執着は感覚から生まれるのです。それを自分で、本当かどうか発見しなくてはいけません。
 
 認識は、その対象を中心にして思考が回転します。その対象を中心に、妄想が始まるのです。この妄想が「執着」というのです。執着というのは形がないように思います。しかし、例えば何か妄想するとします。それが止められないのです。そこで、妄想を止めたいのになぜ止められないのかと観てみると、その裏に執着が働いているということが観えてきます。妄想が止められないのではなく、止めたくないということがあるのです。執着がある場合は、悟りに達しません。
 
 ヴィパッサナー冥想の場合、私たちは眼耳鼻舌身意に否応なく触れる情報(感覚・認識)をチェックするのです。その情報を追っていって何かしようとはしません。例えば、鼻に香りが入った場合、「香り」と確認する。いい香りと感じたら、「いい香りと感じている」と確認して、執着にいかないようにそこで止めるのです。実践では無数に失敗もします。しかし、繰り返し確認してみると、執着と執着しないという、二つの状態がわかるようになります。そして、執着すると苦しみが生まれることと、執着しないと苦しみが生まれないことを理解するのです。

「妄想するな」ということは、「放っておく」という意味です。この「放っておく」ということを訓練すると、無執着の能力が生まれるのです。執着は何か認識しづらいものですが、しかし経験できます。同じように無執着も、これだというのは難しいですが、執着よりも力強く経験できるものなのです。