智慧の扉

2018年6月号

包丁に包丁自身を切れるのか?ーーこころのジレンマを乗り越える

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 ある人の本に、「包丁にはなんでも切れますが、包丁自身を切ることはできない」という言葉がありました。その一言に、真理を理解するためのポイントがあります。われわれは「こころで」知っているがゆえに、「こころを」知るのは論理的に不可能ということになっているのです。

 われわれは、こころを知らないから困っているのです。何に困っているかといえば、人生に困っているのです。こころは幸せに生きたいのに、何をやっても不幸せになってしまう。だれにでもよくあるのは、判断を間違ってしまうことです。生まれた時から、どうも判断を間違えてしまう。結婚相手やら、進学先やら、仕事やら……。しゃべる前に考えてからしゃべるけど、しゃべり終わってから「これはまずかった」と後悔してしまう。それから、ずっと失言の影響を受けるはめになる。

 すべては、こころがやっているのです。われわれは、こころのことを何も知らずに生きているから、苦しみを追う生き方、苦しみを逃れられない生き方に嵌められているのです。こころを知らないことが問題です。こころそのものを知って、こころの欠点を無くして、こころを躾して、しっかりと正すことができれば、すべての問題は解決するのです。

 しかし、包丁には包丁を切れないとしたら、どうしましょうか? 仏教は、このジレンマを乗り越える方法を教えるのです。それは「観察する」ということです。観察すると、こころの知る能力がしっかりします。それからもうひとつ、判断しないことにする。どうせ判断しても間違うのだから、判断を措いて、まず観察してみるのです。

 自分が怒っているなら「怒っている」と観察する。「怒ったらまずい」といった判断は禁物です。落ち込んだら「いま、落ち込んでいる」だけでストップします。「落ち込んじゃダメだ、もっと明るく生きなくちゃ」などという判断は余計です。楽しい気分になったら「いま、楽しい気分になっている」でストップします。「楽しいから買い物しまくっちゃおう」と判断してはだめです。

 観察する。善悪判断することを一切やめる。その能力がついたら、こころはかなり強くなります。それから、自分のこころがどう流れるのか、と観察するのです。その場合、現在のこころではなく、直前のこころをチェックします。一分ほど、三十秒ほど前の、憶えているこころをチェックするのです。