No.3(1995年5月)
心の逃走
人はなぜ苦しみ悩むのか
私たちは、この世に生を受けてからというもの常に悩みごとに見舞われています。物ごころのついたそれこそ子供のころからお小遣いが少ないとか、もっとおもちゃが欲しい、学校の成績が悪く勉強が好きになれない、また大人になっても器量が悪い、恋人ができない、仕事がうまくいかない、給料が低い、好きな人に気に入ってもらえない、裕福な暮らしができない、病気ばかりしている、夫婦の相性が悪い、友達がいない、老後が寂しい……何とまあ、人間の一生というものは悩みごとや苦しみの連続であることか!
人間は毎日、毎日その不平、不満をくり返すのです。
私たちはこの世に“生”を受けたと同時に、確実に“死”という現実に直面します。そしてこの “死”に対して人間の“生”とは何と弱いものなのでしょう。例えば、胎児は母親のお腹のなかにいるあいだ、母親のちょっとした不注意からすぐ流産してしまいます。科学の驚くべき進歩で宇宙を征服するような技術をもつ人間が、ミクロという目に見えない細菌であっけなく命を失います。
正常な細胞が突然癌細胞に変わる。白血球が多くなっても少なくなっても生命の危機に陥る。頑張って仕事をしていてもいつ過労死につながるかわからない。 輪禍に遭う可能性だって非常に高い。
こうして見ていくと私たちの身の回りは、命を奪う凶器ばかりのように思えます。そうした凶器に対して人間の“生”ははなはだ弱く、生きていることそのことが奇蹟と言っていいくらいです。
人間は決して“死”に勝つことはできません。しかし、人間の歴史は“死”への敗北から逃れようとする闘いの歴史でもあるのです。
“死”を避けようとする必死の努力が人間の生き方のすべてだと言っていいでしょう。
これまでの人間文明の歴史を見てもそれは明らかです。古今東西を問わず、人間は“死”から逃れるために、科学を発展させ、さまざまな宗教に縋りつき、はてまた淫祠邪教の 類たぐいをつくりだしてきたことは、世界の文明史、歴史的産物によって証明されています。また、これから発展、変化をつづけていく世界でも、この、敵わぬと知っていながらも空しく“死”から少しでも逃れようとする人間の切望的な闘いはつづくことでしょう。
問題は、人間がこの切望的な闘いが絶望であることと知っているだけに、闘いながらひとりひとりの心のなか奥深くに、絶望感、不安感、不満、いらだちなどの苦しみを、無意識のうちに育てていることにあるのです。この事実に、たいていのひとは(いや、すべての我々は)残念ながら気がついていないのです。心は、こうした苦しみや、悩みで徐々に膨らんでいくのです。
こうして蓄積された心のなかの苦しみ、悩みは、本人は無意識でありながら社会のなかでいろいろなトラブルの因子を作りだしていきます。このトラブルはひとつは対人関係に表れ、もうひとつは自分一個人の精神的、心理的なトラブルとなって表れてくることになります。高いレベルで言えば、まだいろいろなトラブルの原因になる要素があるのですが、ふつうにはこの二つが主です。
この無意識に起こる反応は何も悪いトラブルだけではありません。人間は生きる苦しみを癒すためにスポーツや芸術などの世界に遊ぶことを知っていますし、哲学や宗教も苦しみからの開放を命題としてきました。「歌は人間の泣き声である」と言ったのは釈迦尊ですが、歌声に秘められているのは、人間が普遍的に感じている心の苦しみなのです。心の苦しみの表現として歌を作り、それを歌って心の傷を癒したいのです。鳥もおなじなのです。心の不満を表現して歌っているのです。
歌うことによって心の苦しみを和らげたいのです。「踊りも人間の奇矯な振るまいである」とも釈迦尊は言いました。舞踏をどんなに芸術的表現だと言ったところで、その根本は人間の心の傷を癒し、和らげるためなのです。
人間は酒を飲んでは心を和らげ、映画を見ては和らげ、絵画を見て和らげているのです。人間の文化すべてはそのようにして出来上がってきたのです。人生とはしょせん割れもののようなものです。傷だらけでいつも修復しなければならないのです。人生はいつも傷だらけですから、歌を作り踊りを踊って、絵を書き、建造物を建てたりしていったのです。苦しみがあるからこそ、頑張ってきたとも言えるでしょう。文化や科学などのすべては、人間の苦しみから生まれた産物なのです。
では悩み深き心を救うにはどうしたらいいのでしょう? まず、無意識下に表れる不安、不満、生きていたいという存在欲、そして意識として表れる嫉妬、恨み、憎しみ、怒り、自我中心的想念などで占められている心の汚れを取りのぞかなければなりません。それがまた私たちの最終目標である“解脱”への避けては通れない道なのです。
しかし人間には、心を清らかにしようとするプロセスからどんどん逃げようとする悲しい習性があるのです。勉強することがいまの自分にとっては正しい心であっても、そこから逃げて遊びに夢中になる子供のように。
他人の窮状を知って手助けできるのに、手を汚すまいと見てみぬふりをした過去の自分に思い当たりませんか? 心は、正しき心になる努力から巧みに逃げるのです。
人間は悪いこと、楽なことはすぐ行動するくせに、良いこと、心にとってプラスになることは知っていてもなかなか実行しません。ヴィパッサナ- (sati)を実践すれば、心が実践に逆らおうとすることがよくわかります。瞑想中に出てくる眠気、痛み、妄想、雑念、理屈がその証拠です。
人間は、人への慈しみ、優しさ、助け合い、小欲知足の生き方などの善意を行おうとすると心は反対方向へと向いてしまいます。嫌になったり、苦しくなったりするその心を、いま善いことから逃げはじめたと自覚して、忍耐、辛抱、精進の努力を奮い立たせてください。
善行為こそ、心の汚れの一切を取りさる最短の幸福への道であることを知ってください。心の弱さに負けないように!(法句経Dhammapada Nos. 33-36参照)
心を正す実践をするときは、まずこう考えてみましょう。
- 心そのものが激しく、悩んで、痛んでいる。安らぎを求めて、心が叫んでいる。
- 真の安らぎを与えてあげようとすると、巧みに逃げていく、無知で無邪気な心よ。
- 苦しみを乗りこえる道は、忍耐も、精進も必要であることを知っておこう。
- 仏教の実践方法は決して厳しいものではなく、厳しいものだとただ心が誤解しているのだ。
経典の言葉
- Phandanaṃ capalaṃ cittaṃ durakkhaṃ dunnivārayaṃ
Ujum karotha medhāvī usukarova tejanaṃ - 心はいつもざわめいている。 心はいつも優柔不断である。
(正しきことは)護り難し、(邪なること)制止難し。
弓師が矢を真っすぐに直すように、賢者は心を正す。 - (Dhammapada 33)