No.9(1995年11月)
知識欲
知って役に立つこと、知ってはいけないこと
人間の最も尊ぶ財産とはいったい何でしょう? これこそが人間にとっていちばん欲しがるものというのはどんなものでしょう? お金でしょうか、名誉でしょうか、それとも権力でしょうか?
たしかにこれらのものを、「人間が求めるべきもの」と断定する人もいることはいます。
しかし、お金や名誉、権力等はあればあるほどいいという側面ばかりでなく、いやむしろあればあるほどまた危険な側面のあることを人間は身をもって知っています。そうなるとこれらのものが人間にとって絶対的に不可欠な大切なものとも言えなくなってきます。
だれから見ても、「これこそすべての人間に必要なもの」とは、“知識”のことを指すのではないでしょうか。
いかなる人間にとっても、知識はどれだけあってもあり過ぎるということはありません。知識は深めれば深めるほど、広げれば広げるほど、その価値はどんどん高まっていくとだれもが思っていることはこの世の常識となっています。だが、はたして本当にそうでしょうか?
この世のなかにどんな角度から見ても、どの立場の人から考えても、絶対的に正しい、よいことだと言いきれる現象があるでしょうか。仮によい知識であると知っても、それが誤った知識であったとしたら、大変怖いことになりますし、また知識は情報としてその知識を受ける側の判断力、理解度、感情等によって正しい情報が誤った知識にすり替えられていくということもよくあることです。さらに、この世のなかは人間も物質も常に変化し、進歩していきますから、きのう正しいと思ったことも明日になれば間違っていたという現象もしょっちゅう起こっています。一度正しいとされた知識が後になって間違っていたということがしょっちゅう起こっていたら世の中に混乱を招いてしまいます。また一個人にとっても、以前の知識は絶対なものではないとなると、自分の知識に対する自信といったものがなくなっていつの間にか曖昧な人間に変わっていってしまいます。
知識はまた権力をもって人を支配しようとする人々にも利用されます。そうしたいわゆる知識人にはみんな一応の信頼と尊敬と多少の
さらに、知識は危険なものも多分にあります。命や自然を破壊する爆発物、武器、毒などを作る知識や、極端な思想や非道徳的な教え、虚無主義なども社会破壊につながる危険性を
しかし、そうは言っても“知識”は人間の発展、幸福に欠くことのできないありがたい現象であることは紛れもない事実です。
知識があるからこそ人間であるということが言えるのですから。
“知識”を仏教の道徳に照らし合わせて考えて見ることが必要です。この知識は果して自分のためになるのか? 自分のためにならなくとも他人ひとのためになるか? そうであることが確認できたらその知識を得るために励むのです。どんな苦労も厭わずにその知識を獲得するべきです。もし、自分のためにも、他人のためにもならない知識であったり、害になる知識であれば断じて拒むべきことです。
知識にはもう一つ大切な見方、考え方というものが存在します。それは、その知識に対してプラグマティズム(実用主義)の立場を取った場合です。知識はたいていは役に立つということが前提となってあるものですが、その役に立つということが、確実に実行できることなのか、実践可能なことなのかという判断が重要です。どんなにハイレベルな知識でも、それが実践可能でない単なる机上の空論的な知識であればそれは心の負担となるだけです。どんなに豊かな知識量に恵まれていてもあるいは浅い知識でもいいのですが、その知識から我々が実行でき、その結果自分のためにも他人のためにも役立つことにつながっているかという基準が極めて重要なことになるのです。
仏教の知識に対してもまったく同じことが言えるのです。知識として探究するための仏教には、人が一生かかっても尽きないほどの経典、注釈、論書、それぞれの宗派の教説などその情報量は膨大です。ほとんどの人は教学としての仏教の知識を得、その快感だけで終わってしまいます。その人たちは、残念ながら仏教で示しているところの幸福を体験しようとしていません。
知識人として認められるだけの、また宗教論争に勝つためだけの目的で仏教を学ぶことを、釈迦尊は厳しく戒めました。
仏教は衆生の役に立つ実践的な教えです。実践する行者は現世における幸福から、さらに高次元の幸福へと確実に進むことができます。知識欲という目的だけで仏教を学ぶことは、自分のためにも他人のためにもなりません。
正しい知識のありかたとは、こういうことを言うのです。
釈迦尊の時代、インドでは豊かさの象徴は牛をたくさん飼っていることでした。
豊かな知識で仏教を理解していてもそれを実践しない人は、その日の給料のために他人の牛を丁寧に飼育している雇われ人と同じである、と釈迦尊は説かれています。
その人の回りには確かに牛がたくさんいて一見豊かに見えますが、牛は彼のものではありません。牛から上がる利益は雇い主のものであり、日給をもらったら彼にとってその牛は何の関わりも持たないし、牛に対して何の権利もないのです。
仏教を深く研究し専門家となっても、その人の得る徳は、雇われた牛追いと同じでほんの僅かなものです。
知識に対する注意点は
- 自分にも他人にも害になるような知識は避けること
- 害がなくとも人の役に立たない知識を得ようと苦労しないこと
- 知識欲を満たすために知識を追ってもそれは無意味であるということ
- 膨大な知識があることは、本人が思っているほど自慢できることではないということ
- 得ようとする知識の実用性、実践性をよく確認すること
- (仏教の)知識は少なくともそれを実践することにこそ意義があること
経典の言葉
- Bahumpi ce sahitaṃ bhāsamāno na takkarohoti naro pamatto
Gopova gāvo ganayaṃ paresaṃ na bhaagavā saamaññassa hoti. - たとえ聖典を多く教え、説いたとしても、
これを実行せず、放逸 にしている人はまことに虚しく
飼い主の牛を数えている牛追いのように、
沙門の味わい=仏弟子としての分け前、《解説》を味わうことはない。 - (Dhammapada 19)