パティパダー巻頭法話

No.12(1996年2月)

こころはわがままです

瞑想による自己コントロール 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

こころというものはなかなか理解しがたいものですが、人間が真理の道を追求するためにはどうしても理解しておかなければならない命題です。「こころ」とは何ですかと大上段にふりかぶって考えると益々分かりにくくなりますから、ここでは簡単な方法で考えることにしましょう。まず、「こころ」と「からだ」を区別します。からだは物質体であることはよく分かりますね。こころは「生きている」という命の働きすべてというように考えます。例えば、あなたが手を上にあげるとする。手を上げたいとする意識、どのくらいの速さで、どの程度上までなどという「こころ」の判断と認識によって、「物体」としての手は動いていきます。では、今度はあなたが昏睡状態に陥っている人の手を上げてやろうとします。そのときその人の「物体」としての手は動きますが、その人の意識は働いていません。それは「こころ」の伴わない単なる物理的な働きでしかないのです。

このように、まず簡単に「こころ」と「からだ」のことを区別しておきましょう。

私たちの一瞬一瞬の感覚 —— 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、考える、あるいは楽しい、悲しい、怒る、嫉妬する、悔やむ、愛するなどの感情や感覚を、生きていることの証拠として私たちは理解しています。それをここでは一応、「こころの働き」としておきましょう。これらのこころの働きは、からだという物体の働きよりもはるかに巨大であることがわかります。こころはあなたのなかで密かに活動しているものではなく、堂々と活動しているのです。こう考えていくと、「こころとは」などと定義を考えなくとも、容易にこころというものの本質が分かってくると思います。

「こころ」という実体が何かあるのではなく、私たちが「生きている」という実感を「からだ」という物体を介在させて理解する働きそのものが、「こころ」であると覚えておきましょう。仏教では、「認識すること(働き)は心である」としていますが、認識といっても、明確な知識という意味ではなく、感知すること、感じること、意識的にしろ無意識的にしろ感覚いっさいはこころの働きであるということです。物体と生命体を区別できる働きすべてが「こころ」です。

私たちは「こころ」という言葉が、魂、霊魂、真我、仏心、仏性、梵我、宇宙意識、唯一神、如来心などの宗数的な概念につながっていることをよく知っています。からだが滅びても魂は滅びない、つまり霊魂不滅のような概念のあることも理解しています。こころという無数で、複雑で、無限の存在を、宗数的に、思想的に、哲学的に、心理学的に研究されてきたことは当然すぎるほど当然のことで、それらの研究が私たち人間を不幸から幸福へと導くための人間の英知の結集であることを考えれば、こうした概念の生まれることも十分納得されるものです。ただ、問題はこうした概念が残念ながら、考える、想像する、推測する、推定するという論理の範疇を越えていない、つまりはこれらの概念を証拠立てるものが何一つないという事実です。ですから大切なことは概念は概念として、《「こころ」は永遠不滅の実体である》ということなどを鵜呑みにしないことです。

認識の働きは想像を絶するほど早いものです。見る、聞く、理解する、考える等を私たちは同時に処理しているように錯覚していますが、一瞬に一つのものしか人間は認識しません。ですから、一つの対象に没頭した瞬間他のものが分からなくなるという現象が起こるのです。注射針から一滴づつ水滴がたれているとして、そのときは一滴一滴を区別できますが、その水滴の流れが速くなれば私たちには一条の水のようにしか写りません。音楽もそうです。音楽は一音一音が周波数の違いによって私たちには連続したある音楽となって耳に届きますが、本来は一音一音違う単なる音なのです。その連続性が、人間にいろいろな感情を派生させているのです。認識の働きが猛烈な速さで消滅変化を繰り返していて、我々にはどう処理することもできません。音が耳から人ってきてそれが好きな音であるか、嫌いな音であるかと区別して、そこから愛着や嫌悪が生まれるように、認識の様々な働きから、我々人間の人格形成がなされるのです。怒りっぽい性格は嫌だと分かっていても、何かを認識した瞬間に既に怒っているのです。ふつうではコントロールが効かない分野です。

そこでVipassanā瞑想実践の出番となります。歩く、呼吸する、観る、聞く、妄想する、痛み、痒み、楽しみなどすべてのこころの諸現象を確認し、このことから認識の猛烈な流れの渦に引き込まれない人間を作っていくことが出来ます。認識の渦に巻き込まれた人間は性格形成はもとより、煩悩や苦しみ悩みに翻弄されますから、Vipassanā瞑想を実践した人は、落ち着きを取り戻し、こころの安寧を実感して、その喜びから瞑想を止めようとする人はいません。みんな熱心になります。

しかし、Vipassanā瞑想が少し上達すると、自分に激しい妄想が出るようになってびっくりしたりがっかりする人が大勢出てきます。妄想をなくそうと瞑想を始めたのに逆に妄想に悩まされるのです。実はこれが「こころ」の特色なのです。瞑想以前にも妄想や雑念はいつも出ていたのですが、瞑想することによってそのことにはじめて気がついた、つまりひとつのことに集中しはじめたそれは証拠なのです。雑念を断ってからだの「膨らみ、ちぢみ」の観察を始めると、意に反してこころが様々な対象へ走りだしたり、耳で捕らえた音に気を取られたり、からだの痛みに集中を邪魔されたり、あるいは過去のことを思い出したり、突然妄想が出てきたりして頭のなかは大混乱となります。これからの未来について何か考えついたり、瞑想そのものがつまらなくなったり、怠け心や睡魔に襲われたりもします。もうパニックといってもいい状態です。でも安心してください、それは実践の堕落ではなくやっとこころの認識過程とその速さが見えはじめたということなのです。

こころはわがままで自分の希望通りにはなりません。いろいろなものを感情的に認識することで苦しみが生まれるのに、それを止めることもできません。野性の奔馬のように好き勝手に諸対象のなかを走り回っています。呼吸を観察しようとしてもすぐ飽きます。一つのものを認識してもすぐそれに飽きて次を認識します。気持のいいことを思ってこれはいいと考えてもすぐ嫌なことも思い出して、それに捉われます。これらの現象は「こころ」の現象であると理解することです。また、こころは制止し難いものであることも分かるでしょう。わがままなこころを制止することで、私たちはこころの束縛から開放され自由を体験する唯一の道を獲得できます。感情や煩悩に苦しめられずにすむのです。巨大な働きである「こころ」をコントロールすることが最高の幸福と言えます。

経典の言葉

  • Dunniggahassa lahuno yattha kāma nipātino,
    Cittassa damatho sādhu cittaṃ dantaṃ sukhāvahaṃ
  • こころは捉え難い。こころは迅速です。こころは欲するままに飛び回る。
    このこころを制御することは誠に善いことです。よく制御されたこころは、安楽をもたらす。
  • (Dhammapada 35)