パティパダー巻頭法話

No.53(1999年7月)

なぜ殺してはいけないのか

人類の歴史は流血の歴史です 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

暴力を振るってはいけない、人を殺してはいけないというと、誰でも当たり前のことだと思うでしょう。なぜ殺してはいけないのか、なぜ暴力を振るってはいけないのかと誰かに聞かれたら、驚くだろうと思います。そのようなことは当たり前だと驚くのはかまいませんが、なぜ殺してはいけないのか、という問いに説得力をもって答えられるでしょうか?人を殺してはいけないということを、ただ単に当たり前のことだと思わないで、誰にも否定できないような理由を、論理的に、成立させられますか?

もしこれが当たり前であるならば、人は人を殺さないはずです。しかし今までの人類の歴史をかえりみると、見いだされるのはただ一つ、殺戮・殺し合いの歴史です。いろいろな理由をつけて、ある大量殺人者は英雄に、ある大量殺人者は悪人に仕立て上げられ、ほめたりけなしたりされる。現代でも、地球上のどこでも、限りなく人殺しが行われています。国同士で、土地のために、民族が違うということで、殺し合う。肌の色が違うという理由で殺し合う。得体の知れないものを信仰しているにもかかわらず、信仰対象が違っただけでも殺し合う。母国語が違うというだけで殺し合う。大量の財産、金、権力を持つ人々は、それを守るために殺す。財産も金も権力もない人は、それらを奪うために殺す。身を守るために、相手が怖いから、自分が殺されかけたから、いじめられたから、また、いじめるためにも殺す。ひどいことに、ムズムズしていたからたまたま出会った人を殺しました、別に誰でも良かったという言い訳でも、人は殺される。

「私は決して人を殺しません」と胸を張って言えますか? もしあなたがさんざん侮辱され、損をさせられて、挙げ句の果てに自分が殺されそうになった場合でも、殺意は生まれてこないといえるでしょうか? もし自分が強い立場にいたならば、相手の隙を見て、殺す恐れがないとはいえないでしょう。

世の中では常識といわれる「人を殺してはいけません」という言葉は、はっきりいうと何の効力も持ちません。言い伝えで、みんな言うのだから、そのように教えられたのだからと、理解もしないで、わけも知らずに、口先だけでオウム返ししているだけです、と私が言ったら、大変失礼な言葉だと思うでしょう。失礼だと思うのはよいのですが、私が言いたいのは、「人を殺してはいけない」ということが、世の中で、否定できないような、説得力を持った論理として、成立していないということです。

ですから、人がいくら進歩しても、世界から人殺し現象は消えないのです。一般的に考えると、宗教で禁じられているから、法律で禁じられているから、大事な命だから、バチが当たるから、など、いろいろな理由が言われていますが、ひとつとして説得力はないと思います。たとえば宗教の場合は、多かれ少なかれ、人の好みで選ぶことができます。宗教的な信仰は、なければ絶対生きていられないということもないのです。ということは、条件に基づいてでも人殺しを認める宗教を選べば、その人に人は殺せるということです。法律の場合は、法の目をかいくぐって、つかまらないように工夫できるし、またもし殺してもよいと法律を変えたら殺すことが可能になります。「大事な命」というのは単なる感情であって、自分の命も他人の命も大事ではないと思ってしまったら、恐ろしい殺戮者になります。バチが当たると脅されても、「それは気にしない」と言えば終わりでしょう。ここでは詳しく論じる場がないのですが、以上のような理由も、反論を出してしまえば成り立たないことだけ、とりあえず理解しておきましょう。

仏教では、答えがあるでしょうか? 仏教の道徳論を観察すると、「不幸になる」「世界の常識である」などの言葉もときどき使いますが、「殺すなかれ」を論理的に成立させる場合は、そのような曖昧論は使いません。人がものごとを考えるときは、感情などに左右されますので、如実にものごとを見られないのです。

追求して考えると、「殺すなかれ」の意味は「私を殺すな」ということです。精神的に追いつめられていない限り、殺して欲しいと思う生命はありません。殺して欲しいと思うどころか普通は、叱られることも、無視されることもいやがります。「自分を殺して欲しくない」ということを、他人にあてはめれば、人を殺すなということになります。人を殺してはいけないということが当たり前だと思っているのは、自分を殺して欲しくないと思うことが確固たる事実だからです。それでもなぜ他を殺すかというと、他を殺してでも自分が幸福に生きたいと思うからです。他を殺したら自分も殺されるとわかれば、殺すことをためらいます。故に法律によって、私たちは死刑、終身刑、などで脅されて、人殺しを押さえられています。一方、自分が安全であるならば、他を殺すので、弾道ミサイル、パトリオットミサイルなども開発しているのではないでしょうか。科学の発展の名のもとに、自分の安全を確保したうえで、よりたくさん、また放射能などでじりじり時間をかけて曾孫の時代まで人を殺せるように努力するこの世界は、あまりにも非論理的で残酷です。

私を殺すなということは、人を殺してはいけないという意味です。私は殺されてもよいと思う人は他人を殺す必要はないのです。何か得することがなければ、他人を殺すことは無意味です。死にたい人に「得」は成り立ちません。そういう人はすぐ自殺します。人が生きているということは、自分が殺して欲しくないということですので、それは他人を殺すなということになります。より普遍的に言えば、人は幸福で長生きしたいのですから、殺してはいけないのです。自分も他人も生きていきたい、死にたくはないと本来思っているので、誰も殺してはいけないのです。また、殺してはいけないものは人間だけだろうと思うことは、都合のいい言い訳です。どんな生命も死にたくないので、仏教でいうのは「人を殺すなかれ」ではなくて「殺生するなかれ」ということです。それこそ正しい論理です。(来月に続きます)

今回のポイント

  • 人を殺してはいけないと誰もがいうが、なぜかということはわかっていないのです。
  • 自分の命さえ安全であるならば、殺意を抱く可能性を、みんな持っています。
  • 自分を殺して欲しくない人は、決して他を殺すべきではありません。

経典の言葉

  • Sabbe tasanti dandassa – sabbe bhāyanti maccuno,
    Attānaṃ upamaṃ katvā – na haneyya na ghātaye
  • すべてのものは暴力に怯え、すべてのものは死をおそれる。
    己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
  • (Dhammapada 129)