パティパダー巻頭法話

No.114(2004年8月)

一番を目指して生きる

「最高」の論理的な定義 Man of wisdom challenges for the best.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

一般的に我々は、何か気に入ったものがあれば「これは最高だ」と、軽い気持ちで言います。それは単なる感情表現で、それほど深い意味はありません。英語を使う人も、何かをほめたり評価したりする時、大胆な形容詞を使う習慣があります。それも結局は軽い表現なのです。「あなたは最高だ」と言われても、それを真剣に受け止める人はいないと思います。仏陀の立場から、より論理的に最高という言葉の使い方を考察してみましょう。

「得しました」と聞くことがよくあります。誰でもしょっちゅう、得したいという気持ちでいると思います。損したい人、赤字を出したいと思う人は、一人もいません。生きるということは、人間にとって簡単な、らくちんなものではないので、結局は得するよりは損してしまう経験が多いかもしれません。仏陀が説かれる生きる道は、得のみをする賢い道なのです。得するというと、決まっているパターンがあります。何かを犠牲にして、何かを得る。差し引いたら、得か損かはわかる。しかし、何も犠牲にしないで得をして生きる方法もあります。完全智者である仏陀がその方法を語られるのです。我々も、仏陀の教えに従えば幸福に生きられるということは確かです。

得というのは様々です。その中でも、最高な得とは何でしょうか? 仏陀は「健康であること」を最高な得だと説かれるのです。病に冒されると、お金がかかります。身体的だけではなく、精神的にも弱ってしまうので、商売も仕事も出来なくなる。損だけをするはめになるのです。難しい病気にかかったら、全財産を費やしてでも治療するのです。それも足らなくなると、借金までする可能性もあるのです。治せるのに「お金がかかる」という理由で、病気を放っておいて死を選ぶ人なんかはいません。ですから、病気にかかるということは、人にとって最悪の損なのです。逆に健康にいられることは最高の得なのです。人には死ぬまで完全な健康体でいられることは、ありえないかもしれませんが、人間は皆、病気で倒れているわけでもないのです。文句を言いたい気分になる身体の不調は何かあるかもしれませんが、人は意外に健康に生きているのです。この事実に気づくことができれば、自分は常に得をして生きているのだと理解できるはずです。今の豊かな生き方は、健康な身体があったからこそです。「健康は最高な得だ」と理解する人は、ただそれだけで喜びを感じて生きられるのです。

財産もいっぱいあった方がありがたいものです。土地・家・家族・金・知識・権力・名誉・金銀宝石・骨董品などいろいろです。一般論では、金は第一の財産です。金自体はなんの財産でもないが、他の必要なものに交換できる。だから、財産の中で金に王座を奪われているのです。最高の財産は何でしょうかと訊かれても、人間には明解がないと思います。自分の好みで何かの答えを出すだけだと思います。仏教の答えは何でしょうか? お金も家も土地も、その他の品物も、あれば楽しくなるに決まっているのです。知識、権力などもあれば楽しいのです。だからこそ、皆財産を欲しがるのです。財産によって苦難に苛まれるならば、人は財産を病菌のように嫌悪するでしょう。結局我々は、財産という土の物質を欲しがっているのではなく、その物質を媒介して得られる内面的な満足感を希望しているのです。物質的な財産に価値があるのではなく、それによって人が得られる満足感に価値があるのです。であるならば、人は、地球のあらゆるものを限りなく収集する無意味な行為より、わずかなものによってでも自分に満足できるように心の管理ができるのかということに気を付けたほうが良いのです。したがって仏陀が「満足こそ最高な財産である」と説かれたのです。

俗世間で生きている我々にとって、親戚も友人たちも大事な存在です。伴侶や子供・孫たちは、大きな喜びを与えてくれるものです。しかし、親戚に対して自分が果たさなくてはいけない義務も沢山あります。場合によって、自分が損しながら、自分自身が犠牲になりながら、親戚に対する義務を果たすことにもなります。それで、親戚とは一体何者かと理解したほうが良いと思います。一般的な答えは、血縁者・婚姻関係者という二種類になります。しかし親戚といっても、皆とことごとく関係を持って生活するわけではない。疎遠者たちも多くいるのです。では、最高な親戚は誰ですか? これも一般論では答えられない質問です。親戚なのに、我々はある人々から疎遠になるのです。関係を切るのです。なぜかというと、その人々と親戚関係を持つと、こちらには迷惑の一色です。しょっちゅう裏切られるのです。協力してくれないのです。役に立たないのです。

我々は、親・伴侶・子供・兄弟・祖父母などと、固く関係を持って生きているのです。その人々は信頼できる。裏切りはしません。困ったとき助けになる。安心して一緒にいられる。このことを考えると、親戚の定義が見えてくると思います。血縁関係があるからといっても、親戚にはならない。婚姻関係者だといっても、親戚にはならない。互いに助け合って生きるなら、信頼できるなら、親戚なのです。たとえ子供でも自分に攻撃を掛けて家を破壊に陥れる行動をとるならば、勘当してしまうのが普通です。血縁関係、婚姻関係がなくても、信頼できる、協力してくれる人なら、末永く付き合うのです。そこで仏陀がこう答えられるのです。「信頼こそが最高な親戚です」と。たとえ一人二人でも、我々に信頼できる人がいれば、最高な親戚に巡り会っていることになるのです。仏陀から見れば、親戚という問題は全くも複雑ではありません。単純なものです。ただ信頼できる人なら、親戚なのです。その人々と付き合って生活すると、とても楽しく生きていられると思うのです。

最後に来るのは、幸福・楽しみとは何かということです。対象的な幸福は、無数に挙げられると思います。しかし、どれでもやがて幸福でなくなるのです。ご馳走を食べられることが幸せだというとしましょう。病気になったり、歳を召したりすると、ご馳走なんかは幸せの対象ではなく、命取りの原因になるのです。音楽は、耳が聞こえる人に幸せを運ぶが、その人もその音楽を何回も聴くと飽きてしまうのです。耳が聞こえない人には何の意味も持たないものです。ウエディングドレスは披露宴のとき新婦に幸せを与えるが、それからは役に立たない。対象的な幸福は全てこのようなものです。

では、最高な幸福とは何でしょうか。時空を超えて安穏をもたらす絶対的な幸福もあるのです。それが、涅槃であると仏陀が説かれるのです。智慧ある人は、これにチャレンジするのです。

今回のポイント

  • 感情に支配されて生きることは、蜃気楼を追うようなものです。
  • 幸福・損得などを明確に定義すると、生きることは単純になります。
  • 「最高」とは何かと、真剣に考えた方が良い。

経典の言葉

  • Ārogya paramā lāvhā, Santutthi paramaṃ dhanam;
    Vissāsa paramā ñāti, Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.
  • 健康こそは至高の利 知足は至高の宝にて
    信頼は至高の親族ぞ 涅槃は至高の至福なり
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 204)