パティパダー巻頭法話

No.161(2008年7月)

無常とは最高の福音

無常に逆らうことが悩み苦しみの原因です Discovery of impermanence is the key to happiness.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

無常という言葉を言うと、「当たり前のことだ」という反応が決まっているのです。無常とは誰でも知っている、面白くもない言葉のようです。「ブッダが無常を語る」と言うと、西洋思考の人なら、暗い話だ、悲観主義だ、と思ってしまうのです。仏教徒だと思っている人々なら、子供にでもわかる単純シンプルな概念を仏教だと言うのは物足りなく感じる。それから、一切智者ならもっとすごい事を語るだろうと思い、あらゆる形而上学的な概念を妄想して、それは仏教だとする。たとえば仏教の論理によると絶対的神様、という概念は決して成り立たないのです。しかし後期の仏教では、すべてを支配する真理の本体である法身仏を妄想する。その概念を人格化して、さまざまなホトケたちを作り出す。

本当に「無常」とはそんなにも単純シンプルで、子供でも笑える程度の教えなのでしょうか。みんな知っていることでしょうか。釈尊が、一切の現象は無常であると智慧で知る人は、一切の苦しみに対して厭いを感じるのだ、それが一切の苦しみを乗り越えることになるのだ、と説かれたのです。わかりやすく言えば、一切の現象は無常だと知る人が、解脱に達するのだ、という意味なのです。それで問題は、無常ぐらいなら世界中誰でも知っていると言うならば、世界中の人々はみな解脱しているのだ、と言えるのでしょうか。苦しみを乗り越えているのでしょうか。

しかし現実は、まったく正反対でしょう。世界が、苦しみから苦しみへと後退している。政治世界の問題、経済世界の問題も、解決できず苦しんでいる上に、自然破壊の問題も降りかかっているのです。精神的な悩み苦しみは、自然破壊の危機には決して負けないのです。現在では、「ただ殺してみたかった」という理由でも、人を殺してしまうケースがあるのです。現代人は、いくらごく普通な社会人として生活していると言っても、時限爆弾を抱えているようなものだと言っても過言ではありません。いつ精神が爆発して、いかれてしまうか予測できません。このような世界が、無常を知り尽くしている世界だと言えるのでしょうか。

事実は違います。人々が、ぜんぜん知らないことは何なのかと言うならば、それは一切の現象は無常であることです。無常は誰でも知っている真理ではなく、誰にも発見できなくなっている真理なのです。人の本心は、無常を認めることではないのです。無常に逆らうことなのです。若さを保つために、健康でいるために、死なないために、必死なのです。地球の財産、人間の知識と能力を、無常に逆らうために費やしているのです。昔からこの努力をしてきましたが、何ひとつも成功した試しはないのです。たとえば病気との闘いは人類がはじめから行ってきたが、治療方法や治療技術をたくさん発展させてもいるが、「病気がなくなる」という結果には、いまだなっていないのです。しかし、やがて人類から一切の病気をなくせるのだと、夢物語だけは科学者が語っているのです。

夢想家たちは、もっと簡単な方法を選ぶのです。「人間は死んでも大丈夫だ。人間には決して死なない魂があるのだ。人が死んでも、魂が永遠なのだ」と妄想するのです。証拠だけは何ひとつもないのです。そこまで妄想するのは構わないと思っても、その妄想概念に人間の恐ろしい性格が割り込むのです。自分を正当化して、他人を見下すために、他人を脅すために、その妄想概念を使用するのです。自分が信仰している「神」を信じるものの魂が、死後永遠に快楽にふけっていられるのだ、他みな、地獄で極限の苦しみを永遠に経験するのだと言うのです。人々は好き勝手に「神」を創造するから、「神」がたくさんいるのです。いつでも自分が創造した神を信じる人々の方が数少ないのです。自分と自分の仲間だけ救われるのだという思考ほど、恐ろしく醜い思考はあると思えません。ですから、夢想家が永遠の魂を妄想しても、その概念によって、また人々は苦しむはめになるのです。人々は無常をわかっているのではなく、その言葉さえ聞きたくはないのです。嫌なのです。

では釈尊がはじめて発見したという、偉大なる真理だという、人々に極限な幸福をもたらすという、無常とはどのような真理なのですか。簡単に言えば、無常とは真理なのです。事実なのです。ありのままの現状なのです。自分たちの希望、主観などで汚染していない客観的な事実なのです。知りたくない、認めたくない、という気持ちを捨てれば、誰にでも発見できる真理です。

無常だからこそ、存在なのです。たった一個の細胞で、我々人間の命がはじまるのです。その細胞が現われた時から、変化してゆくのです。細胞の寿命は、短い皮膚細胞で24時間、寿命の長い骨細胞でも数年から十数年です。常に変化してゆくことが、生きていることなのです。もし細胞の変化が止まったら、その時点で命がないのです。ということは、無常だからこそ生きている、と言えるのです。もっとコンパクトに言えば、無常とは存在です。存在という単語を使うならば、それは無常として理解しなくてはならないのです。永遠な存在があると夢想するならば、それは永遠な無常、ということなのです。

無常だから、お腹がすくのです。無常だから、食べられるのです。無常だから、食べたものは消化するのです。無常だから、消化したものが代謝されるのです。無常だから、代謝されたエネルギーが身体から出ていくのです。またお腹がすくのです。無常だからこそ、呼吸しているのです。一回だけ細胞に酸素を入れてもダメなのです。無常だから、消えるのです。また入れなくてはいけないのです。だから我々は、死ぬ瞬間まで絶えず呼吸しなくてはならないのです。消化したエネルギーを取り入れたり、酸素でそれを燃やしたりすると、細胞も老化するのです。死ぬのです。新しい細胞が生まれなくてはならないのです。すごくシンプルにこの過程を見ると、無常のおかげで「生きている」という概念が成り立つのだと理解できるはずです。「生きている」という概念は、ただの言葉です。実体はありません。実体は、無常ということです。

自分以外の世界を観察しても、すべて無常だからこそ成り立っているのだと発見できます。川も滝も噴水も、無常だから、あるのです。無常でなければ、音楽なんかは成り立たないのです。ピアノの鍵盤で、たった一個だけのキーを何分か叩き続けてみてください。音楽になるでしょうか。我慢できないほど、うるさくなると思います。しかし、十本の指が激しく鍵盤の上を動いてキーを叩けばこそ、美しいと言える音楽になるのです。何でも変化できるからこそ、世界が成り立っているのです。

大根もジャガイモも、チキンも、変化するからこそ、美味しい料理を作ることができるのです。もしチキンが変化しないものであるならば、どのように料理しても生肉で終わるでしょう。また、舌の感覚が変化するからこそ、味を美味しく感じるのです。このように推測してみましょう。人の舌の上に、角砂糖を置く。その人は甘さを感じる。しかしその感覚が無常ではない。永遠です。それならその人は一生、何を食べても、舌で甘さのみを感じるはめになるのです。そんな人生は面白いでしょうか。しかし私たちの舌の感覚は、瞬時に変わるのです。だからこそ、いろんな食べ物の味を楽しめるのです。

太陽が激しく燃えて変化しないならば、地球上の生命の存在は成り立つのでしょうか。太陽のエネルギーが地球に降り注いでくる。そのエネルギーは地球上で様々な変化をして消えるのです。これが地球の変化であり、生命のいのちでもあるのです。「ある、存在する」と言えるものがあれば、それはすべて無常で変化するものなのです。これが事実です。

なのに、なぜ人間が、変化に、無常に、逆らうのですか。それも人の矛盾、あべこべもいいところです。無常だから喜んでいるのに、無常に逆らおうとするのです。生れた赤ちゃんは、激しく変化するからかわいいのです。面白いのです。飽きないのです。それが年取ることなのです。年取ることがそれほど面白く、かわいく、飽きない現象なのに、なぜ老いることは嫌がるのでしょうか。なぜ不老長寿の夢想をするのでしょうか。無常だからこそ、音楽がたのしいのです。しかし、一回で消えるのは惜しいと思ってしまうのです。それも無常に逆らうことですが、様々な工夫をして同じ音楽を何回でも繰り返して聴けるようなカラクリをするのです。しかし、自分が買ってきた大好きな音楽が入っているCDは、無常でないと成り立たないのです。ものごとは無常でなければ、ステレオでCDを原因として音楽が流れないのです。しかし聴くたびに、新しいエネルギーが初めて耳に触れていくことを無視するのです。同じ曲を二回聴くことはできないのです。しかし何回でも同じ曲を聴ける、という錯覚があるから、そのCDに飽きちゃうのです。つまらない、面白くない、飽きちゃう、という楽しみの反対の現象は、「変わっていない」という錯覚が引き起こすのです。

一切のものごとは無常であるという言葉ほどの、福音はないのです。それを理解すると、ものごとが変化しても、驚きも、嘆き悲しみも、苦しみも、起らないのです。また、どうせ変化するものなら、自分の希望どおりに変化の過程を変えることもできるのです。どうせ流れていく川にダムを作って、水を一時的に貯めて管理下しながら流すことで、そこに無かった電力という新たな現象を作ることもできるのです。一切のものごとは無常でなければ、科学発展、発明などは、何ひとつも成り立たないでしょう。すべては無常でよかったのです。もし無常ならざるものがあるとしたら、たいへん危険なのです。核廃棄物のことを考えてみてください。放射能は長く続くのです。だからとても危険なのです。原発では、簡単にエネルギーは作れますが、核廃棄物は頭痛の種なのです。処理に困っているのです。もし二、三ヶ月間で核廃棄物の放射能が消えるならば、どれほどありがたいと思いますか。身体の中でガン細胞も現れる。ガン細胞は、健康な細胞よりは早く成長する。だから、ガンに罹った人はおびえるのです。早く成長する、ということは、早く無くなる、ということでもあるのです。放射線治療や化学治療をすると、健康な細胞より早く、ガン細胞がその悪影響を受けるのです。それが現在のガン治療になっているのです。ですから、一切のものごとは、無常でなくては困るのではないでしょうか。

この世で無知な人が、神に祈るという滑稽なことをするのはよく見かけるでしょう。全知全能の永遠なる神に祈るのです。もしものごとが無常でなければ、祈っても意味がないのです。もし神が永遠不滅であるならば、祈っても通じないのです。通じるためには、神に何かの変化が起らなくてはならないのです。子供の病気を治したまえ、と祈る場合は、当然、病気が無常で変わるものだという前提があるのです。変わるものなら、祈らなくても変わると思います。とにかく、一切のものごとは無常でなければ、夢想している絶対神に祈ることさえも無意味なのです。

無常だから何でも絶えず変わる。好みどおりに変えることもできる。しかし無常に逆らおうとアベコベに思う希望通りには変えられないのです。いままで人類が世界を変えて、変えてきたのです。その場合は、現象が変わる法則に従って変えたのです。変えると言っても、何でもかんでも自分の妄想どおりに、好き勝手に変えることは不可能です。空を飛びたければ、飛行機に乗るしかないのです。自分の家でソファーに腰をおろしてテレビを観ながら、そのまま空を飛んで外国旅行しようと思っても、叶わないのです。法則に従わなくてはならないのです。変化のスピードは、現象によって違うのです。大豆は一年ほど持ちますが、大豆をつぶして作った豆腐は一日、二日くらいしか持たないのです。人間は百年以内でこの地球から消えますが、その人間が石で彫った作品が何かあったならば、何百年でも続くでしょう。しかしそれは、無常ではない、という意味にはなりません。

人間は無知でわがままで、無常の現象に執着するのです。実は、執着できないのです。美しい花だと執着しても、その花が瞬間たりとも止まることなく枯れていくのです。金は消えてほしくない、若さは消えてほしくない、老いたくはない、病気にはなりたくない、死にたくはない、あの人と別れたくはない、などなど無常に逆らった思考で病んでいるのです。これが悩み苦しみのもとなのです。無常は嫌だと思うことほど、愚かな錯覚はないのです。無常を客観的な智慧で認めると、無常であることは事実で、真理であると納得すると、執着なんかは成り立たないことに気づくのです。これこそ、心の安楽・安穏・平和なのです。これこそ、苦しみを乗り越えたことなのです。この真理を発見した人が、自分に対して、外の世界に対して、どのような変化が起きてもそれが当たり前のことなので、平安で安穏でいるのです。ですから、無常を智慧でもって知る人は、一切の苦しみを乗り越えるのだと、釈尊が説かれたのです。

今回のポイント

  • 無常と存在は同義語です。
  • 人は無常を知らないのです。
  • 無常に逆らうことで限りのない苦が生まれるのです。
  • 無常を知ることが最高の幸福です。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Sabbe sankhārā aniccā ti, Yadā paññāya passati;
    Atha nibbindati dukkhe, Esa maggo visuddhiyā.
  • 諸行は無常と明らかな 智慧もて悟るその時は
    人苦しみに遠ざかり 清らかな道開けゆく
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 277)