パティパダー巻頭法話

No.163(2008年9月)

魂は巨大妄想の産物である

仏教の無我は因縁論です The theory of soul if a product of wishful thinking.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月は、無我とはなんですか、ということを考えましょう。おそらくみなこの言葉を「われがない」という意味で理解するでしょう。そうなると、「なんだこれ?」という気持ちになりかねません。仏教の一般的な定義は、変化しない常住たる実体がない、ということです。しかし、これもよく分からないのではないでしょうか。無我はお釈迦様の教えの芯なので、なんとか苦労してでも理解しなくてはなりません。無我の理解を間違ったら、仏教そのものを間違って理解したことになってしまうのです。

まず簡単に理解する方法を教えましょう。一切の現象は無常であると、七月号で説明しましたね。無常イコール苦イコール無我なのです。ということは、無常を理解すれば、無我も理解したことになるのです。無常なら、ほとんどの人々に勉強する勇気が出るのではないかと思います。

ではなぜ、一切の現象について三つの用語を使ったのか、一つで充分ではないか、という疑問が生じます。それは、一つの用語だけでは、完全に語ったことにならないからです。偉大なるブッダの発見を、無知な世界が軽く見る羽目になってしまうからです。お釈迦様は、無知な人を圧倒する目的ではなく、真理を、実践面を踏まえて完全に語りつくす目的で、無常・苦・無我という三相を説かれました。無常は、人が自然に気づきやすい相です。大衆に理解しやすい、ということです。知識人にも、一般人にも、理解できる概念です。誰にでも経験ある事実です。苦になると、少々難しいかも知れません。苦は「生命とは何か? 生きるとは何か?」という、昔から今まで人類が抱えてきた問題に対する答えなのです。しかし、「苦ばかりではない。楽しみもあるでしょう」という気持ちがみなにあるから、無常ほど簡単には納得いかない。苦とは、一切無常たる現象を、生き物として、生命として観ると、発見する事実です。無常といえば、私も富士山も無常です。苦の場合、「私には苦がある」と言えますが、「富士山も苦です」と言っても、あまり意味がありません。

無我は、もっと難しい概念なのです。真理を発見しようとした宗教家たちが、生きるとは何かと探求した思想家たちが、考えだした概念があります。それは、生命には体が壊れても決して壊れることなく続く、永遠不滅の魂・実体があるという概念です。本当は、あると思っただけで、実在するという証拠はなかったのです。証拠のない概念を疑う余地のない前提として、たくさんの宗教と哲学をつくったのです。みな、魂はどのようなものかと、様々な議論をしたが、一体全体、魂というものがあるのかと、あるならばその証拠は何なのかと、調べたことは一向になかったのです。あまりにも永遠の魂のことをうるさく論じるようになって、たくさんの異論が出て、論争が起こると、それに反発して、「永遠の魂は存在しない」という一群の思想家も現れました。彼らの論点は、「身体が物質でできている。物質の構成で感覚器官が現れる。感覚器官を通じて、感じたり考えたりするが、身体が壊れたらあっけなく感覚器官も壊れてそれですべて終わるのだ」ということです。これは、現代的に言うと唯物論です。お釈迦様の時代にも、唯物論者がいました。この考えも、証拠に基づいて達した結論というより、迷信的に信仰している魂論に対する反論に過ぎないのです。

最初の時代に、「魂がある」と考えだした人々は、命に対して強い執着を持っていました。生きていきたいのに、否応なく、みな死んでいくことに納得できなかったのです。生きていきたい、死にたくない、という気持ちは、言いかえると、永遠・不死という概念になります。身体が壊れても、壊れない魂があるのではないかと推測したとたん、気分が良くなったのです。落ち着いたのです。そこで、徹底的に、魂があるという妄想概念に執着したのです。それから、その概念を、醜い汚れた感情でさらに発展させたのです。みなに平等に不死なる魂がある、と言うと、自分は優等生だと感じにくくなる。ですから一部の宗教では、魂は人間にのみある、他の生命にはない、と言い張りました。おかげで、動物たちを好き勝手にいじめることも殺すこともできたのです。

それから、人間みなに不死なる魂があるというと、また気に食わない。我々が生きている社会では、様々な差別があります。豊かな人も、貧困な人も、主人たちも、奴隷もいる。カーストが上の人も、低いカーストの人もいる。また善い事をする人も、気楽に悪いことをする人もいる。みな死後、平等だと言うと、それは納得いかない話です。嫉妬が生じるのです。それで、永遠に幸福になる魂、永遠に不幸になる魂、などなどの概念を作ったのです。政治的に暴力的に人を抑えることができても、実際は人の管理はできないものです。特にこころの管理はできないものです。その問題に出した答えは、すべての魂を創造し、支配し、管理し、最終的に審判を行う親分の存在を妄想することでした。それから、その親分の機嫌を取るために、最終審判で有罪にならないために、どうすればよいのかと考えることになったのです。

もっとこころが広い人々も、魂論について考えたことがあります。彼らは、すべての生命に魂がある、また森羅万象すべてに実体たる魂がある、などなどと考えたのです。「一即一切」という不二の概念を作りだしたが、そこでまた疑問が起こったのです。「なぜ我々には、不二を経験できないのでしょうか? なぜ世界は、多事多数で経験するのでしょうか?」と。それに対する答えとして、魂はマーヤー(幻想)を認識するのだ、魂に無明があるのだ、魂は汚れているのだ、という妄想をしたのです。それから大変です。魂のこの欠陥をなくす努力(修行)をしなくてはいけないことになりましたから。

魂論については、おおざっぱにこの程度で理解をすれば充分です。それから、少々、論理的に考えてみましょう。この場合は、魂論者の理論を厳密に使います。まず魂がある、という証拠は一つもないので、魂という概念は真理として設定できないのです。「魂があると、みな思っているではないか。みなそのように感じているのではないか。ですから、魂があるに決まっていると言えるでしょう」と反論する前にまず、人が思うこと、感じることは、何であろうともそのまま事実になるのだ、という証拠が必要です。事実は、人は実際にあるものよりも、変な物をいっぱい思ったり感じたりするのです。空を飛ぶ絨毯も、ペガサスも、怪獣のことも、いとも簡単に考えられます。飲んだら死なない甘露のことも、考えられる。小判が落ちてくる打ち出の小槌も考えられる。このように、人が考えるものには、二つの特色があります。一、決してありえない。二、あればいいなぁという感情、です。魂の概念も、この類です。

魂が永遠不滅で、絶対変化しないものならば、人が善行為をしても、悪行為をしても、魂はびくともしないはずです。ですから、魂があるとするならば、それほどインモラルな、社会に対して危険な概念はないことになるのです。

我々の行為によって、魂が汚れたりきれいになったりするならば、むしろ魂などどうってことはないという証拠です。着ている服と同じです。汚れたりきれいになったりするし、何回も洗うと着られなくなって、捨てることになる。行為によってきれいになったり汚れたりするならば、結局は永遠不滅の魂がないことになります。なぜならば、魂も変化するからです。

魂は絶対壊れない、優れモノであるならば、なぜ魂の存在だけ、なかなか証明できないのでしょうか。我々に思考があること、感情があること、身体が変化していること、気持ちが変化していくこと、考えが変わっていくこと、などはいとも簡単に証明できるのに、絶対的存在の証明はできない、というのは変です。ブドウの中に種が入っているように、身体の中に魂が入っていることは簡単に証明できるはずです。魂は主人です。親分です。身体が壊れても壊れない、偉いモノです。あることは証明できるはずです。日本には、天皇陛下がおられます。日本国民のだれよりも偉い御方であり、日本国の象徴たる存在です。誰も天皇陛下がいるか否かは疑問視しないのです。会うことはできなくても、住所不定ということにならないのです。「発見はとても難しいが、人には魂がある」という話は、「生きているという証明はとても出せませんが、日本には天皇陛下がいます」というような話です。笑い話です。

魂があると信仰すると、自分の命に対して強烈な執着、愛着が生まれます。「救われる魂」と「救われない魂」という概念が生まれるから、恐ろしい差別意識が生まれるのです。永遠な天国に直行できるのだと思って、いとも簡単にテロ行為で自爆することもできる。魂とは、生きていきたい、死にたくない、快楽に溺れたい、という人々の実現できない巨大妄想が作り出した概念なので、解脱を目指す人は、その巨大妄想から自由にならなくてはならないのです。理性に基づいて、客観的に現実を観察しなくてはいけないのです。

仏教の無我は、唯物論者の無我とは違います。「我がありますか? いいえありません。無我です」と、単純に答えるものでもありません。我に対する答えは、因縁論なのです。一切は原因によって現れて、原因が変わると消えてしまう。原因によって現れたものには「自立」はない。依存しているのです。ですから、現象の存在は、一時的です。我々は、こころで、自分の意志で、様々な行為をするのです。悪い行為をすると、悪い結果になる。善い行為をすると、善い結果になるのです。それは、毎日経験していることです。物を見たり聞いたりする場合、楽しくなったり嫌になったりする。それによって、こころに欲が現れたり、怒りが現れたりする。欲、怒りなどの汚れたこころで反応すると、それはまた汚れた行為になる。それで、悪い結果になる。原因に結果を出すためには、誰の介入もいりません。地震が起きたら、家が壊れます。誰かが壊す必要はないのです。

因縁論からみると、この世の現象の中で、似ているもの、同一なものは、ひとつも成り立ちません。生命は一人ひとりが違うのです。そこで道徳が成り立つのです。人の努力が成り立つのです。成長が可能なのです。解脱も可能なのです。永遠の地獄は成り立たないのです。たとえ罪を犯しても、その罪に適した不幸しか起こらないのです。因縁論は、真理・事実であるだけでなく、とても公平な話です。すべてを因縁論で説明できるのです。一切は因縁によって成り立つので、因縁を知り尽くすことは大変な仕事でしょう。生命にとって、因縁をとても理解しがたい、深遠なものだと釈尊が説かれたのです。ですから、宇宙のすべてに関する因縁を知らなくても、自分自身の命のシステムに関する因縁を知ることで、充分です。それで解脱に達することが、一切の苦しみを乗り越えることが、できるのです。釈尊は生命に関する因縁を明確に説かれたのです。

人間は、命の因縁ではなく、まわりの事柄の因縁を調べることにしたのです。そこで、現代の知識というものが、現代科学が現れました。まだまだ発見するべき因縁がたくさんあるので、現代科学は成長していきます。物理の因縁の法則を知ったからこそ、飛行機も発明できたのです。宇宙船を作って、地球から離れてみることも可能になったのです。神の怒りによって、悪霊の祟りによって、人が病気になると思っていた時代は終わったのです。病気になる原因を発見できたので、いとも簡単に病気を治せるようになりました。祈祷師は廃業になったのです。

しかし、人間には物質をいじったり調べたりすることは簡単ですが、命とは何かと調べる方法はないのです。ですから、社会を発展させる様々な発明品で世界はあふれているが、人の精神的な悩みがそのままです。お釈迦様が、悩み苦しみは物質の問題ではなく、こころの問題だと発見したのです。花を見て楽しくなるか、悲しくなるかは、その花を見る人のこころ次第です。「一万円ももらいました」「もらったのはたった一万円です」……この二つの表現が、実物として一万円をもらったところで現れる幸福と不幸をものがたっています。一人を幸福にして、もう一人をどん底の不満に陥れた犯人は、一万円札ではありません。こころなのです。というわけで、釈尊は物質をいじることではなく、こころを知り尽くして、こころを清らかにすることを説かれたのです。科学では人は幸福にならないが、仏教では確実に人が幸福になるのです。因縁論を理解する人は、我論を何の根拠もない無知な人々の巨大妄想にすぎないのだと、笑い話以外の何物でもないのだと知るのです。

みな身体の感覚を魂だと勘違いしたのです。楽しみも苦しみも、身体の感覚です。楽しい感覚に執着して、苦しい感覚をなくそうとするのです。老いることも死ぬことも嫌がるのは、苦しい感覚が生まれるからです。感覚は激しく変化するものです。身体に触れるものによって、感覚が変わるのです。感覚が無常ではないと、たいへんなことになります。たとえば、舌に角砂糖一個を置いたとしましょう。甘い、という感覚が生まれる。それが無常でなかったら、死ぬまで舌で他の味を味わえなくなります。感覚が瞬時に消えることが、ありがたいのです。だから、何とか生きているのです。生きる、ということは、感覚を変化させることです。感覚には苦も楽も不苦不楽もあるし、一つの感覚だけ続くことはあり得ない。感覚は、因縁によって現れたり、消えたりするのです。愚か者は、「感覚が我であり、我が魂であり、永遠である」と誤解して執着して、輪廻転生して苦しむが、理性のある人は、感覚に対する執着を一切捨てて、解脱に達するのです。これが釈尊の説かれた「無我」の話です。

今回のポイント

  • みな自我(魂)があると信仰している。
  • 証明しないまま魂について語るのです。
  • 無常イコール苦イコール無我です。
  • 無我とは因縁論なのです。
  • 無我を知る人は解脱に達する。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Sabbe dhammā anattā’ti, Yadā paññāya passati;
    Atha nibbindati dukkhe, Esa maggo visuddhiyā.
  • 諸法は無我と明らかな 智慧もて悟るその時は
    人苦しみに遠ざかり 清らかな道開けゆく
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 279)