パティパダー巻頭法話

No.218(2013年4月)

竜巻の真っ只中に生きる

危害を減らすために理性が必要 Life is a tornado. Can you survive?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章

  1. Cakkhunā samvaro sādhu, sādhu sotena samvaro;
    Ghānena samvaro sādhu, sādhu jivhāya samvaro.
  2. Kāyena samvaro sādhu, sādhu vācāya samvaro;
    Manasā samvaro sādhu, sādhu sabbattha samvaro;
    Sabbattha samvuto bhikkhu, sabbadukkhā pamuccati.
  • による統御とうぎょ まことよく 善き哉 みみによる統御
    による統御 まことよく 善き哉 したによる統御
  • による慎しみ まことよく 善き哉 言葉に慎しむは
    意による慎しみ まことよく 善き哉 すべてに慎しむは
    比丘はすべてに慎しめば あらゆる苦より 放たるる
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 360,361)

竜巻のたとえ

竜巻とは怖いものです。屋根や車を巻き上げて、振り回したあげく、叩き落とすのです。竜巻の通る道は、破壊の道です。残るのは瓦礫だけ。観光して喜べるような現象ではないのです。この喩えを人生に当てはめてみましょう。竜巻とは「世」のことです。生きている私は、竜巻の真っ只中にいるのです。当然、竜巻が私を巻き上げます。激しく振り回したあげく、必ず叩き落とします。残るのは、身体という抜け殻だけです。ひとが世の流れに従って生きようとしても、決して円滑に進むわけではないのです。あらゆる悩み苦しみに遭遇しなくてはいけない。競争に巻き込まれて、負けたり落ち込んだりしなくてはいけない。様々な病気も、何の予告もなく突然襲うのです。「老い」は瞬間も休むことなく、攻撃し続けるのです。やがて叩き落とされて、あっけなく死にます。

杞憂ではない

これは、「コップの水にサメが泳いでいる」といった類の杞憂の話ではありません。日常の生き方のありのままの姿です。それを述べたからといって、何か役に立つわけでもありません。ですから、「我々はどうするべきですか? どのように生きるべきですか?」などなども考えなくてはいけないのです。「生きるとは竜巻の真っ只中にいることである」という喩えをそのまま理解すると、答えを簡単に見出せます。その答えは、「なんとしてでも竜巻から離れること、逃げること」です。竜巻に未練を感じるのではなく、危機を感じるべきなのです。お釈迦様の言葉によれば、「生きることは限りのない苦です。苦から解脱すべきです。その方法が八正道です」これが明白な答えなのです。一神教といえば目的は天国ですが、仏教の場合は解脱が目的になります。

流れに従ってはならない

竜巻に巻き込まれると、誰でも極限に弱くなります。自由を失うのです。巻き上げられている状態なので、竜巻の意のままです。逃げようとしても、決して楽なことにはならないでしょう。無知な人は、逃げるのは無理だから振り回されるままでいようとする。理性のある人は、いくら苦しくても脱出を実行する。では脱出計画を実行したとしましょう。その人は、竜巻に中で勢いよく飛んでくる瓦礫に身体をぶつけないよう、周りによく注意しなくてはいけないのです。身体の力を振り絞って、進まなくてはいけないのです。ということは、たとえ成功しなくても、脱出計画を実行する人には危害が少ないのです。脱出を諦めた人よりは、いくらか生き延びられます。ですから、世の流れに随順して生きることは、人の正しい生き方にはならないのです。

生きるとは認識し続けること

これから詳しく説明します。人間には、眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。否応なしに情報が感覚器官に触れ、それらを認識します。この流れに「生きている」と言うのです。この肉体に感覚が無かったら、ただの物体になります。感覚があるからこそ、生きているだの、命があるだの、いろいろ言うのです。命とは物体に感覚があることです。感覚があるならば、認識しなくてはいけないのです。生きるとは、絶えず認識し続けることです。認識には休憩なんかはありません。熟睡している時でも、肉体は認識し続けているのです。

「生きるとは認識し続けることです。」この定義に基づいて、いろいろ考察してみましょう。生きることについて、皆、心配しています。困ったりもします。これは無駄な努力です。肉体は情報をつねに認識し続けているのです。特別な努力はいりません。眼があるだけで、見えるのです。耳があるだけで、聴こえるのです。耳は健康的で正常に機能しているが、音は聴こえない、なんてことはあり得ません。ものが見えるならば、音が聴こえるならば、身体に感覚があれば、鼻で香りを嗅いだり、舌で味を味わったりすることができれば、立派に生きているのです。生きることは、死に物狂いで頑張って、意図的に行うべきことではありません。誰だって生きているのです。人間も微生物も生きているのです。否応なしに生きているのです。意図的に努力しても、何の努力もしないでいても、それに関係なく、生きているのです。要するに、認識し続けているのです。生きるとは、ストップすることが不可能なエネルギーの流れです。生きるとは、オートモードで起こる認識の自動回転です。手動モードなんかは要りません。

生きるとは困ること

それでも我々は、生きることに困っているのです。竜巻に巻き込まれているから、当然オートモードで回されて、様々な瓦礫に衝突しているのです。振り回されるために、瓦礫に身体をぶつけるために、自分で努力する必要はありません。しかし、それだから困るのです。振り回されたり、瓦礫というべき世間の様々な現象に衝突したりすることはオートモードで起こる現象ですが、それは決して好ましくはありません。できるなら避けたいのです。しかし避けることは成り立ちません。それで、困るのです。生きるとは、困るということを皆無にしては成り立たないのです。

希望・願望はうまく行かない

それで人間は、計画を立てる。希望・願望をつくる。それに合わせて、生きようと努力する。要するに、オートモードで起こる人生を、手動モードにしようとしているのです。醜いものは見たくない。美しいものを見たい。強烈な音は聴きたくない。音楽という耳触りの良い音を聴きたい。どんな味でも味わいたいわけでなく、美味しいと確認できる味のみを味わいたい。臭いならなんでもいいわけではなく、よい香りが欲しい。寒さ・暑さ・痛みなど、どんな感覚でも身体に触れてほしいわけではなくて、ちゃんと好みがあるのです。このように、好みをつくること、期待をつくること、計画をたてること、などが起こるので、オートモードではなく、手動で生きるはめになるのです。その計画が問題なく進んで欲しいと、希望まで抱くのです。

うまく行きますかね? 生きるとは、そのような甘いものではありません。竜巻のまっただ中で、振り回されることです。社会現象という瓦礫に、ぶち当たることです。竜巻のなかにいる人が、「頭にレンガがぶつかったらたまらない。たとえでっかく見えても、発泡スチロールの箱にぶつかる方がマシだ」と思ったとしましょう。それでレンガの軌道が微妙に変わります。発泡スチロールの箱がまっ正面からぶつかっても、その場合は、本人が「マシ」だったことに喜びを感じるでしょう。しかしたまたまそうなる可能性があっても、世の中の現象が必ず期待どおり自分にぶつかるということは、あり得ません。

プラスアルファの苦しみ

危険きわまりないと感じるから、生きることをオートモードに任す気にはなりません。計画をたてて、手動モードにするのです。手動モードにしても、人生は期待どおりに回転しません。期待どおりに出来事が起こることも度々あります。期待が外れることはしょっちゅうです。それで生きる上では、必ず喜んだり、悩んだり、舞い上がったり、落ち込んだり、自信がついたり、自信が消えたりするのです。竜巻に巻き込まれて苦しんでいる生命にとって、これはプラスアルファの苦しみになります。オートで起こる生き方を手動にすることも、無駄だと言えないわけでもありません。それは山から転がり落ちている岩を、下へ転がるようにわざわざ後ろから押す行為と同じです。しかしその岩が、自分の家に転がり落ちるのは嫌なのです。ですから、勝手に転がれと、岩を放っておくわけにもいきません。意図的に岩を押すことで、自分の家を外して落ちるようにすることができるかもしれません。というわけで、すべての生命は自動モードで生きているのに、生きることを意図的に手動モードにするのです。どちらにしても、大した差はありません。

現象という瓦礫

生きるものに眼があります。ものが見えます。見えるものによって、心が揺らぎます。見えたものを、気持ちのよいもの、気持ちの悪いもの、見たくはなかったもの、興味がわかないもの、などなどに区別します。それは「心のゆらぎ」の区別分析なのです。見たいもの、見たかったものが見えると、心に「楽しい」という波が起こる。見たくないものだと認識されると、心に「嫌」という波が起こる。興味がわかないものを見ると、心は無知という波で揺らぎます。生きているものに、ただ眼があるだけです。正常な眼があるから、自然に、見えるのです。見たい対象を除いて、他の対象のすべてを見えないようにすることは、あり得ない話です。ですから、眼があるだけで、心が汚れるのです。同じく、耳があるだけで、舌があるだけで、鼻があるだけで、身体があるだけで、心が汚れるのです、眼耳鼻舌身に触れる情報は、世の中の現象という瓦礫です。瓦礫だと言ったのは、その現象によって心が揺らいで、汚れるからです。

眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官のなかで、意という感覚が働き者です。眼耳鼻舌身には、決して負けません。眼で見えても、意でそれを認識判断する。その判断にあわせて、楽しくなったり苦しくなったりする。それによって、心(意)は、揺らぐのです。汚れるのです。結局は、眼耳鼻舌身から生まれる感覚のすべてを、意も感じるのです。意は激しく揺らいで、濃く汚れます。五根があるだけでも意根はたいへんなのに、意は働き者です。それだけではめげません。意は考えたり、妄想したりするのです。それも止められなくなっているのです。それによっても、心が激しく揺らいで、汚れるのです。というわけで、生きるとは、世という現象の竜巻の真っ只中で振り回されることです。

お釈迦様の提案

見たいものを見たい、聴きたいものを聴きたい、というのは、一般人の考えです。しかしそれは、実行不可能です。見たいものを見れても、見たくないものを見てしまっても、心が揺れ動いて汚れるのです。お釈迦様の提案は、見えるものを放っておくことです。その代わりに、心が汚れないように気づくのです。「美しいものが見えても欲が起こらないように。見たくないものが見えても怒りが起こらないように」と、眼を制御するのです。「欲と怒りで心が汚れないように」と気をつけるだけで、この計画は実行出来ます。その時、このようになります。眼の制御に励んでいる人も、竜巻の真っ只中にいます。現象という瓦礫がぶつかります。しかし、怪我せずに、痛い目に遭わずに済みます。生きる力を浪費せずに、節約することができます。もしかすると、竜巻から脱出することもできるかもしれません。

耳の場合も、同じ計画を実行する。音は何であろうとも、勝手に入ろうとしています。しかし心に、欲と怒りの波が立たないように注意します。耳によって心が怪我することは無くなります。生きる力を節約できます。鼻の場合も、舌の場合も、同じ計画を実行します。欲と怒りで心が汚れないようにします。身体の場合も同じです。良い感触を探して歩きまわることはしません。暑かろうが寒かろうが、放っておきます。痛みや痺れ痒みなどが生まれても、放っておきます。しかしそのような現象の瓦礫が身体にぶつかっても、心に欲と怒りが生じないように気をつけておくのです。五根についてのこの計画を実行すると、相当な量の生命力を蓄えておくことができるようになります。

最後に残るのは、意根です。意は止められない。思考・妄想は流れる。そこで、欲に染まった思考、怒りに染まった思考をストップする。これが難しいと感じる人は、意図的に慈しみに関わる思考、離欲に関わる思考、他の生命を思いやる思考などで、意根を埋めておくのです。この計画が成功すると、生命力を最大限に蓄えていることになります。竜巻自体にもエネルギーがあるが、いま自分自身にもエネルギーがあるのです。自分の力で、飛べるのです。
イメージを変えてみるならば、竜巻で振り回されていた自分の重力が、ゼロになったようなことです。そうなると、瞬時に竜巻から外へ放り出されます。それで解脱というのです。一切の苦しみの終了です。テレビでも構わないが、竜巻・台風などを経験したことがあるでしょう。危ないのは、屋根のような重いものです。重さのない紙くずなどは、ぜんぜん危険ではないのです。たとえ回ったとしても、紙くずなどは竜巻の外側なのです。すぐ飛ばされます。お釈迦様の六根を制御する計画によって、生きるという竜巻に囚われて振り回されている生命が、解脱という自由で安穏な究極の境地に達することができるのです。お釈迦様のところで出家する比丘弟子たちは皆、お釈迦様が提案した計画を実行しているのです。成功する弟子は、一切の苦から解放されます。

補助計画

六根を制御する本計画を支える、補助計画もあります。自動モードで充分、生きられるのに、皆それを手動モードにするのです。手動モードで生きるとは、意図的に様々な行為をすることです。行為は身・口・意という三つに限られます。身体で行為をする時は、決して欲の感情、怒りの感情で行為はしないようにする。話す場合は同じく、欲の感情で話しません。怒りの感情で話しません。何を考えても良いのですが、怒りの感情と欲の感情は立入禁止にするのです。これは補助計画です。どうせ人は、手動で生きようとするから、この補助計画も実行しなくてはいけないのです。

無知はどうなったのか?

揺れ動く心の汚れは貪瞋痴という三つになるのだと、皆、知っています。しかしお釈迦様の脱獄プログラムでは、欲と怒りだけを制御するようになっています。無知をいつどんな方法で無くすべきか、という疑問が起こるかもしれません。心配は無用です。欲が起こらないように、怒りが起こらないように自己制御することは、無知で妄想に耽ってばかりいる人にはできないのです。自己制御には、気づく能力も、集中力も、心が冴えている状態も、必要なのです。欲と怒りを制御するプログラムを実行する時点で、無知の機能が抑えられています。無知が顔を出したら、すぐバレます。その時、修行する人は、計画実行を一旦中止するのです。ということは、お釈迦様の説かれたとおりに欲と怒りを制御するだけで、仏道は完了するのです。

今回のポイント

  • 世とは竜巻です
  • 竜巻の渦中にいることが生きること
  • 生きることは自動で起こる
  • ひとは生きることを手動にする
  • 自動であれ手動であれ生きるとは苦です
  • ブッダは竜巻からの脱獄計画を提案する