パティパダー巻頭法話

No.223(2013年9月)

小さな火種

悩み苦しみは不注意で拡大する Do not nourish your worries.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章

  1. Salābhaṃ nātimaññeyya
    Nāññesaṃ pihayaṃ care
    Aññesaṃ pihayaṃ bhikkhu
    Samādhim nādhigacchati
  2. Appalābhopi ce bhikkhu
    Salābhaṃ nātimaññati
    Taṃ ve devā pasamsanti
    Suddhājīvim atanditaṃ
  • 行乞のを軽んずな 他者ひとの得たるを羨むな
    他者を羨むその比丘は 三昧境に達し得ず
  • たとえ得しもの僅かでも 比丘はそれをば軽んぜず
    やすむことなく清らかに 生くる彼をば神も讃む
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 365,366)
集中砲火を浴びる「真理」

数えきれない悩み

人間が抱えている問題や悩みなどは、数えきれないほどです。時代とともに消える悩みもあるし、新たに現れて追加される悩みもあるのです。昔の人びとは私たちより苦しい人生を送ったのか、我々現代人のほうが昔より苦しい人生なのか、よく分からない。昔の人びとが悩んだ問題は、現代人には無いのです。現代人を悩ませている問題は、昔の人びとに無かったものです。言えるのはそれだけです。時代が変わっても、科学が発達しても、生き方が変わっても、習慣などが変わっても、昔も今も、人は相変わらず悩み苦しみに陥っています。生きることは苦である、というお釈迦様の教えは、生命がいる限り、輪廻転生がある限り、通用する真理なのです。

悩み苦しみは二種類です。一つは身体に関する悩み苦しみです。もう一つは精神に関する悩み苦しみです。昔から人は、身体に関する悩み苦しみを減らす方法、無くす方法を考えてきました。そのように努力もしてきました。しかしこの問題はまだ解決していません。精神に関する悩み苦しみにも、ある程度の対策を講じてきました。神々を信仰したり、魂・霊魂などの概念をつくったり、踊り・音楽などの文化を開発したり、宗教を創ったりもしてきました。しかしその問題も解決していないのです。

身体に関する悩み

すべての人間にとって、老いること、病気になること、死ぬことは最大の問題でした。昔の人びとは、老いることを変えようとしないで放っておいたようです。病にかからないように、かかった病が治るように、いろんな対策を講じてきたのです。現代人は医学が発達したので、老いることも何とかして止められないのかと考えているようです。いちばん嫌がる死ぬことに対しては、みなお手上げ状態です。現代人は様々な機械を開発したので、死にかけている人を延命装置に繋げておくのです。しかしそれにもリミットがあります。死ぬことは避けられません。

社会の発展、政治経済の発展、科学の発展のお陰で、昔より今の人びとは楽に生活しているようです。獲物をとるために狩りに出たところで、自分が獲物になってしまうようなことは今はありません。しかしその代わりに、生きることを脅かす原因はどんどん増えてゆくのです。ネットで自分の個人情報を盗まれて、銀行の預金が消える可能性があります。誰とも知らない人びとから、激しい非難・バッシングなどを受ける可能性もあるのです。生きることが楽になったら、その代償として自然環境が破壊されてゆく。エネルギーに対する欲も底しれないのです。あとの結果を省みることもなく、原発をたくさん建設したのです。しかし原発は、人間の力では管理できない恐ろしい代物です。ひとを殺す武器と方法は、想像すらできないほど発達しています。今の時代に戦争なんかが勃発したら、人類の終わりだと考えても過言ではない。動物に襲われることは無いが、人間に襲われる恐れはどんどん酷くなってゆく。国際社会だと自慢している割に、他国に対する不信感は根深いのです。

昔の人びとは、狩りで獲物をとって食べていました。しかし動物に殺される危険性があったのです。いまの人間は一方的に動物を殺して、食べています。動物たちに反撃する力は無いのです。それで人生は安心だと思ったら、そうはいかないのです。いまの人間は、常に人間に殺される恐れに脅かされています。経済発展のおかげで、いま人間同士で食い合いの競争をしているのです。楽に安全に生きるという目的を達成できたかは疑問です。

精神に関する悩み

この問題に関する対策はすべて、問題を減らすのではなく増やす方向に進んでいます。肉体に関する悩みと違って、精神に関する悩みは増える一方です。喩えを出したほうが分かりやすいでしょう。人が風邪をひいて苦しんでいるとしましょう。風邪を治す目的でその人を肺炎にさせてしまうのです。見事に風邪は治ったけれど、その代わりに肺炎になってしまうように、精神の悩みに対して何か対策を講じたら、結果として悩みは一層苦しくなるのです。

宗教の歴史を垣間見れば、簡単に理解できることです。死ぬことは避けられませんから、人は死んでも死なない、という概念をつくったのです。実証できない概念なので、「人には死なない魂があるのだ」と信じるようになりました。その妄想概念だけでも充分なのに、実証できない魂という概念について、さまざまな魂論をつくったのです。魂が汚れていると思って、浄化する方法も考えたのです。自分で浄化するのは面倒くさいので、神様が浄化してくれると信じるようになったのです。各文化によって、たくさんの神様が現れてきました。どの神が強いか偉いかという問題で、戦うはめになったのです。そこで、すべての神々をホロコーストする目的で、唯一の神という概念をつくったのです。どうせ妄想なので、その問題はそれで終了すればよかったのに、各文化ごとに「我は唯一の神である」と称する別々な神がまた現れた。現代でもそういうことを吹聴する誇大妄想家がいますね。一神教の特色は、他の神を信じることを絶対に認めないことです。他の神を信じることは、正しい神に対する冒涜になるのです。それで一神教の信徒たちは、互いに殺し合うことにしました。宗教戦争が現れたのです。いまも終わっていません。それで人間の死に対する恐怖感が消えたのでしょうか? 神を信仰しても、人は死にます。その上、神を創造したことによって新たな精神的な悩みがたくさん生まれたのです。

神を信仰しない人間もいます。科学知識に照らしてみると、神の存在は成り立たないという無神論者たちです。神を信仰する人びとは、科学はすべての真理を発見していないと反論します。無神論者たちも科学は全てであるとは言っていないのです。まだ分かっていない問題はたくさんあるのだと知っています。死の恐怖感に対してどうするべきかと、無神論者も分からないのです。無知な人は、死の間際に神が迎えに来ると信じて恐怖感を紛らわす。無神論者には、そのチャンスはありません。無神論を語る人びとは、科学的・論理的にものごとを説明します。宗教に心を鷲掴みにされた状態からは解放してくれますが、落ち着いて安心して生きる方法は彼らにも教えられません。

この世には、人の悩みの数に匹敵するくらい宗教があります。いまも至るところで新しい宗教が現れています。歴史の流れで残った宗教の数はそれほど無いが、人間にそれらの全てを学ぶことは不可能です。悩んでいる人は宗教の助けを求めたいのですが、どんな宗教にするのか、どんな宗教が正しいのか、という新たな悩みに感染するだけで終わります。心理学は精神の悩みに科学的なアプローチをします。しかし医学と同じ態度をとるのです。医学では、人が病気になったならば治療して普通の状態に戻してあげようと頑張ります。心理学も、人が精神的に病気だと言われたら普通に戻れるようにと手助けします。精神的な悩みを解決することは、心理学の管轄ではないのです。普通の人間に普通の範囲で悩み苦しみがあることも、また普通であるという態度です。医学で身体の病気を治してあげる例はいくらでもあります。医者は人が自然に死ぬまで何としてでも生かしてあげます。しかし心理学の場合は、それに比較できるほどの成功率はありません。

というわけで、このような結論になります。減らそうと頑張ってはいるが、身体に関する悩み苦しみは増えていくのです。精神に関する悩み苦しみは増える一方です。

ブッダの立場

お釈迦様は、身体の苦しみは挑戦すべき価値のある課題にしていないのです。生老病死とは生きることそのものです。生きていきたいという目的に達するために、生老病死を敵視して戦うことは成り立たない。それは「死にたくないから毒を飲みます」というような態度です。肉体が壊れて死ぬことは自然法則なので、それをその程度にしておけば、人は安らぎを感じるのです。やはり問題は、老いることではないのです。病に陥ることでも、死ぬことでもないのです。ひとの「老いたくない」という希望が問題です。病に陥りたくない、死にたくはない、という希望が問題です。

老いなかった人はひとりも見たことがありません。聞いたこともありません。死に打ち勝ってずーっと生き続けている人はいません。なのに私たちは、何の躊躇もなく、老いたくない、病に罹りたくない、死にたくない、という希望を堂々と持っています。かといって、「あなたはおかしい。あり得ないことを希望している」と言っても、その希望は消えません。その希望は、何かの原因があって現れるはずです。お釈迦様はこの原因を発見したのです。叶わない、あり得ない希望を次から次へと創りだして、ただでさえ生きることは苦しいのに、悩み苦しみのどん底に陥っている人びとを観察したのです。人に悩み苦しみを作らせる原因を明確に発見して、その原因を根絶する方法を考えたのです。お釈迦様は自分の心にあったその原因を根絶してみたのです。そこで究極の安らぎを経験したのです。悩み苦しみをつくりだす原因を取り除いたので、これからは絶対、悩み苦しみに陥ることはないと理解したのです。お釈迦様は生きる苦しみに打ち勝ったのです。悩み苦しみを乗り越えたのです。その上、自分が実証したその方法を私たちに教えたのです。仏教とは、悩み苦しみを乗り越える方法です。信仰するべき教えではなく、実践して試すべき教えなのです。

宗教は人の精神的な問題を増幅したと書きました。その同じ理由を当てはめて、仏教も世に現れたことによって新たな問題を起こしたに違いないと思われるでしょう。それは違います。仏教は実践方法を語る教えです。ただ人が実践するかしないか、だけの問題です。実践するならば悩み苦しみを乗り越える。実践しないならば、そのままで生きることはできます。新たな悩みを加えたことになりません。ブッダの教えが正しいと納得しているのに実践しない人には、新たな悩みが一つ加わります。「このままではダメです。実践したほうがよいのです。しかしなかなかその気にもならない」という悩みが加わります。それはその個人の問題で、お釈迦様がつくった問題ではありません。

「少欲知足で生きなさい。生命を慈しみなさい。一切は無常なので成り立たない執着を捨てるようにしなさい」などの教えで、新たな悩みが生まれたとは言えないはずです。それでも、「いままで何も気にしないで生きていたのに」と思う人もいることでしょう。それについて、お釈迦様の立場を喩えで解説します。ひとが病気にかかって苦しんでいる。慢性的な病気なので、その人はあえて病気という認識はしない。そこでお釈迦様がその人にどのような病気に罹っているのかと説明してあげる。その原因を教えてあげる。完治する治療方法もあるのだと教えてあげる。その時、その人は「私は慢性的な病気に罹っているのだ」と悩むことになるでしょう。しかし完治する治療法を教えてあげたのです。その治療をすれば、病の苦しみが消えるでしょう。いままで味わったことのない幸福を味わうでしょう。ですから仏教も他の宗教と同じく社会に新たな問題をつくったと批判することはできません。

歴史の流れのなかで、仏教も宗教の特色を備えた教えに変わってしまいました。それはお釈迦様の責任ではありません。教えを実践しないで、お釈迦様を信仰することにした仏教徒の間違いです。信仰する宗教になると、バージョンがいくつも現れます。宗教には宗派がつきものです。仏教にたくさん宗派があるのは、宗教に変身してからです。宗教になったら、人間に余計な悩みをつくるのです。いまの人びとも、死後成仏するためには念仏を唱えればよろしいか、題目を唱えればよろしいか、それとも真言を唱えればよろしいかと悩んでいます。葬式で唱えるべきお経についても、疑問を抱いています。しかし、繰り返し言います。お釈迦様はひとの悩み苦しみを乗り越える方法を教えたのです。幸福になる道を教えたのです。新たな悩み苦しみは、何ひとつも加えてないのです。

悩みのしくみ

悩み苦しみは心の問題です。身体の問題ではありません。ここで全てを説明することは不可能なので、お釈迦様のワンポイント・アドバイスを解説します。

私たちは派手に悩むことに慣れています。悩みに明け暮れています。悩みは心の問題なので、いくらでも拡大してひとの人生を徹底的にさいなみます。しかしよく観察してみると、ほんの僅かな火種から大火事になって、お手上げ状態の大惨事に発展するしくみを発見できます。まず、たいしたことない、すぐ忘れてよい、取るに足らない悩みが生まれます。それを忽ち処理することをしないで放っておく。それで悩みの火種が次の悩みをつくるのです。倍になった火種が四倍になって、やがて悩みの大火事になるのです。小さな悩みをその場で消せばよかったのです。具体的な例を出します。ある人が自分の服を見て「このデザインはちょっと古くない?」と言います。自分の心が傷つきます。その感想を忘れればいいのに、心に残って繁殖し始めます。どこまで、どんな方向に繁殖するかわかりません。もしかすると感想を述べた人に対して、怒りを憶えることになる。それからその人を批判することになる。他人とその人の悪口を言うようになる。その人の粗探しに自分が必死になることもあり得る。また、その嫌な気持ちを自分に向けるということもあります。自分はセンスの悪い人間だ。流行りの服を買えない人間だ。流行りを着てももしかすると身体に合わない体型の人間だ。金を借りてでもオシャレの勉強をしなくてはいけないのだ。整形しなくてはいけないのだ。などなどになる恐れもあります。結局は火種をその場で消さなかったから、予測しない方向にエスカレートして大火事になる。もうお手上げ状態になるのです。

解脱を体験するために、心を安定させなくてはいけない。心が揺らがないようにしないといけないのです。この注意がなければ、冥想実践しても解脱に達することはできなくなります。

お釈迦様が比丘たちにアドバイスします。お釈迦様の時代の比丘たちは、托鉢で得たご飯を食べて生活していました。ひとは自分の家にある残りご飯を普通にあげるのです。もしかすると日にちが経って食べられなくなったものや、味が落ちたものもあげたことでしょう。仏教徒は丁寧にお布施します。しかし托鉢とは、インドの宗教文化です。修行者に誰でも布施をします。仏教に対して反感を持っている人びともたくさんいたのです。仏教はお釈迦様の教えなので、一番新しい教えでした。他宗教には千年以上の歴史がありました。ですから托鉢に出ても、仏弟子たちは托鉢を貰えなかったり、罵られたり、また食べられないものを貰ったりすることも普通だったと思います。

もし比丘がある日の托鉢でわずかな量しか貰えなかったとしましょう。また、食べたくならないものを貰ったとしましょう。人間なら当然、「なんだこれは。食べられないでしょう。悪くなっているでしょう。大さじ一杯のご飯で一日は過ごせないでしょう」と思ってしまう可能性があります。この僅かな不満の種は、心の安らぎを揺るがすのです。「だってホントのことでしょう」とその気持ちを軽くみてはならないのです。心に現れた悩みの火種です。「自分には徳がない。この人びとは修行者を侮辱している。こんな食事をとるはめになるならば、還俗したほうがマシだ」などの考えも起こり得るのです。ですからお釈迦様は、自分が得た施しを決して軽んじてはならないと厳しく戒めたのです。「腐ったものを貰ったんだからしようがないでしょう」という言い訳は禁止です。当然、そのような気持ちになっている時、他の比丘たちの鉢を見たら、自分より美味しそうな食べ物を貰っているのが見えるかもしれません。自分もそんなご馳走を貰えたらいいなぁという気持ちが起きてしまいます。それも心の安らぎを揺るがす危険な気持ちです。忽ち捨てなくてはいけないのです。ですから、他人が得るものに対しても、羨む気持ちを無くしなさいと戒めるのです。

このように、比丘は大したことない僅かな気持ちに対しても、危険視するのです。僅かな火種も心に入らないように注意します。入ったならばその瞬間で取り消して、決して大火事にはしません。そのような生き方によて、比丘は究極の安穏たる解脱に達することができるのです。

私たちも、解決できない多くの悩みがあるのだと、さらに悩んでいるのです。巨大化した悩みを無くすために、いろいろ苦労しています。そこからも新たな悩みが生まれるのです。精神的な安らぎを求めていったところで、騙された、裏切られた、財産を盗られた、などなどと訴える。悩みが減ったどころか、余計に増えただけです。火に油を注いでも、火は消えません。大火事になる前に、火種の段階で悩みを見つければ、指で潰すくらいで済みます。お釈迦様のこの教えを人びとが実践すれば、解脱など目指さない人であっても、悩み苦しみが極端に少ない人生を送ることが可能だと思います。

今回のポイント

  • 人間は悩み苦しみを無くす挑戦をしている
  • その結果を悩み苦しみが増えることで終わる
  • 悩み苦しみは精神的な問題です
  • 悩みは火種のところで潰しましょう