パティパダー巻頭法話

No.279(2018年5月号)

ウェーサーカ祝福法話:ブッダの権威

確信を持つべき理由があります Wisdom is the authority of the Buddha

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏徳を理解するべきです

仏紀二五六二年を迎えました。皆様に三宝のご加護がありますようにと新年の挨拶を申し上げます。今月は、お釈迦さまの徳を思い起こして、ウェーサーカ祭をおこなう時期でもあります。如来の徳と能力は、いかなる生命にも理解し尽くせないのです。お釈迦さまは、ブッダについて思索することを不可能な項目の一つに挙げています。しかし、理解不可能な人格であるからブッダを信頼しましょう、というのはおかしい話です。釈尊は人間に理解できる範囲で、ブッダの徳と能力を語られているのです。

仏教徒が毎日となえる Itipi so bhagavā arahaṃ sammāsambuddho…buddho bhagavā ti という経文では、ブッダの九つの徳が列挙されています。これは勉強すれば、理解できる範囲です。この九つの徳ですら、他のいかなる生命にも類似しないものです。ブッダとは、一切の生命のなかで最も尊い存在なのです。ブッダが偉大なる方であるというのは、単なる信仰的なコマーシャル・フレーズではありません。理に適った言葉なのです。ブッダのことを調べてみれば、誰だって尊敬する気持ちに達するに違いありません。

獅子吼の理由

今月は、Majjhimanikāya 12.Mahāsīhanādasuttaṃ(中部経典12大獅子吼経)から、「九つの徳」以外のブッダの能力を一つだけ紹介したいと思います。

Cattārimāni, sāriputta, tathāgatassa vesārajjāni yehi vesārajjehi samannāgato tathāgato āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānāti, parisāsu sīhanādaṃ nadati, brahmacakkaṃ pavatteti.

「サーリプッタよ、如来に四つの権威があるのです。四つの権威があるからこそ如来は、牛王の地位を自称し、もろもろの会衆において獅子吼をし、梵の輪を転じます。」

このままでは充分に理解できないので、単語を一つひとつ調べてみましょう。

Vesārajjaとは、権威という意味です。この単語は、いまも普通に使われているものです。なにかの学問、技術などで一位になったならば、○○分野のvesārajjaというのです。その分野について、その方の見解が最終的な見解になるのです。定説になるのです。要するに、権威を持っているということです。

Āsabhaṃ ṭhānaṃ paṭijānāti牛王の地位を自称し、とは文学的なフレーズです。牛という単語は、偉大なる、尊い、という意味で使われています。その場合は、牛ではなく牛王なのです。

次は、parisāsu sīhanādaṃ nadatiもろもろの会衆において獅子吼をし、と訳されています。如来は、いかなる集会に入っても、獅子のように権威をもって語られるのです。要するに、獅子吼より強い声は、他の猛獣たちに出せないのです。ブッダの言葉を抑えて、異論を立てることはいかなる生命にも不可能です。

続いて、brahmacakkaṃ pavattetiという単語を勉強しましょう。cakkaṃとは「輪」です。しかし、意味はwheelではありません。法律・憲法など、誰でも従わなくてはいけない、皆を管理する決まりに輪というのです。国の法律にも、憲法にも、インド文化的には法輪と言えるのです。法という単語は、仏教では法律以外、真理という意味でも使われます。ゆえに、仏教の法輪という概念は、ブッダの説かれた真理(教え)になるのです。問題は、梵の輪brahmacakkaです。この場合は、dhammacakkaと言っても構わないのです。しかし、権威とは、生命のあいだの関係を示す単語なのです。真理という言葉には、生命は関係がありません。科学的事実、客観的事実というような意味になるからです。生命のなかで、最高位の次元は梵天です。いま、釈尊は権威について語っているので、最高位の次元の生命である梵という単語を使ってbrahmacakkaというのです。要するに、ブッダの権威は最高位であって、誰にも超えることはできないのです。

このような偉大なる権威は四つあります。今回ご紹介するのは、そのうちの一つだけです。

仏道

ブッダの存在が私たちに欠かせないのは、ブッダが法を説いたからです。仏法は時代の変化の影響を受けません。決して時代遅れになりません。いかなる時代でも、人類の一切の知識の先頭になる教えです。教えには間違いがある、補うべきところがあるのだ、と主張することは誰にも不可能である、とまで説かれています。教えが説かれてからほぼ二千六百年経った今も、仏説に挑戦することは誰にもできないのです。

仏教の特色は、仏道です。こころを完全に清らかにする、人格を完成する、解脱に達する、一切の苦しみを乗り越える方法が、仏道なのです。教えが理論だとするならば、仏道は実践方法です。お釈迦さまがありがたいのは、実践方法を説かれたからです。誰であっても、仏道を実践して幸福に達することができる。仏道はつねに開放されているのです。

確信が弱い

仏道を実践すれば人格が向上する、悩み苦しみが消える、こころの汚れが無くなる、解脱に達する、などなどを繰り返し言っても、現代人の信は弱いのです。感情に溺れて俗世間の出来事に挑戦することがあまりに有難くて、仏道実践について、強い興味を持たないのです。俗世間的な生きかたで精神的にくたびれたら、仏道のほうにも目を向けますが、真剣ではないのです。

現代の社会構造にも大きな問題があります。現代社会は、人に暇をあげないのです。わずかな仕事であっても、それをやる人の一日を浪費させようとする。たとえ小学生であっても、勉強にその子供の一日全てを使っています。自由に生きる、自由に考える、自由に判断する余裕は一切ないのです。大人になっても、同じ流れです。人間が生きづらい複雑な社会を作っているのです。気楽に楽しく生きられる仕組みを考えるべきところで、その反対をやっている。人間はみな社会組織という底引き網にかかって、自分が幸福になる道を選べなくなっているのです。仏道は幸福への道案内という看板をかかげて待っていますが、網にかかっている人々は「その道はありがたいな」というところで止まるのです。というわけで、現代人の信が弱いということは、仕方がない現象でもあるのです。

覚れる資格

仏教徒ですら、「覚れるはずがないでしょう」という気持ちでいるのです。覚れるはずがないならば、なんのために仏道を歩んでいるのでしょうか? 伝統を守っているのです。一般人の日常の儀式儀礼を執りおこない、社会人の要求にできる範囲で対応したいと努力しているのです。しかし、社会人は日常の問題の解決策を探しているだけで、「解脱に達する道を教えてください」とは、決して言わないのです。

仏教を守る人々も、どんな宗派の仏教徒も、解脱・覚りは自分の能力範囲を超えている管轄外の概念として考えています。本当に人は覚れないのでしょうか? 覚りに達するために必要な条件はなんなのでしょうか? それは釈尊本人に訊くべき質問です。当然、仏教が語る真理は、人間の理解能力範囲を超えているのです。解脱・涅槃について語れる単語すら、人類は持っていないのです。しかしブッダは、この質問にこう答えています。

「正直で素直な人が来て、私が指導したとします。午前中、指導を受ければ、午後になると解脱に達しているでしょう」と。ですから、人が素直であれば、覚れる資格を持っているのです。素直な人は、いままで悪の道を歩んでいても、感情に溺れて生活していても、仏道を歩み始めたら、人格の欠点もすべて無くなっていきます。人格が完成するのです。そういうわけで、「誰だって覚れるのだ」と論理的には言えます。

ただ、そこには引っかけがあります。誰もが素直な人間でしょうか? 素直な人間は少ないのです。素直とは、微塵も誤魔化しをしないで、自分のこころの状況をありのままに認められることです。世の人々はそうではありません。自分の欠点を隠すのです。自分の長所を派手にハイライトするのです。悪いケースになると、自分が持っていない長所まで、あるかのごとく社会に言いふらすのです。この状況を「本音と建前」という二つの単語で理解できます。本音を言わないで、建前で生きることが社会の常識です。ひとは本音と建前があることが正しい生きかたであると思っているので、そう簡単に素直になれないのです。素直になるのは怖いのです。

これはそれほど大きい問題ではありません。思ったことをなんでも言ってはならないのです。TPOを考えなくてはいけないのです。他人に迷惑にならないように気をつければ、充分です。要するに、本音と建前という二つの立場を取っているのが、他の生命に対する慈しみのためであるならば、問題はないのです。しかし、自分のこころをありのままに直視して状況を認める素直さこそが、仏道を歩む人に究極の安穏を与えるのです。

この資格に、もう一つ加えなくてはいけないのです。なにかやろうとするならば、それをやり遂げる性格も必要です。なにをやろうとしても、完成させる性格が必要です。言葉を変えると、簡単に諦めて腰を下ろす性格はだめです。そのポイントをやる気、意欲、精進などの単語でも表現しています。その性格がない人であるとわかっても、ヴィパッサナー実践を通して、行為を完成する充実感を体験させることは簡単にできるのです。しかし、お釈迦さまにさえできないのは、人を素直にさせることです。素直な人間になることは、各個人の宿題なのです。

ブッダ第四の権威

権威の一、二、三について、今月は説明いたしません。釈尊祝祭日にあわせて、権威第四の説明をいたします。ブッダの言葉をフレーズごとに切って解説します。パーリ語の言葉の順番で行きますので、日本語的には少々違和感をおぼえるかも知れませんが、覚悟してください。

Yassa kho pana te atthāya dhammo desito,

「なにかの目的に達することを目指して説法したとするならば、」という意味です。説法の目的は、一切の苦しみを乗り越えることです。究極の安穏、すなわち涅槃に達することです。生きることは苦であると説かれた釈尊は、その苦しみの一切を乗り越えるという目的で説法したのです。

So na niyyāti takkarassa sammā dukkhakkhayāyā’ti.

「教え通りに正しく実践してみても、完全に苦しみを乗り越えるという目的に達しないと、」という意味です。ここで言っているのは、「ブッダは苦しみを乗り越えるための方法を教えた。私はそのとおりに実践してみました。しかし、この方法では苦しみを乗り越えることはできません」ということです。

Tatra vata maṃ samaṇo vā brāhmaṇo vā devo vā māro vā brahmā vā koci vā lokasmiṃ sahadhammena paṭicodessatī’ti nimittametaṃ, sāriputta, na samanupassāmi.

「そこで、サーリプッタよ、沙門、バラモン、神々、マーラ、梵天、その他の生命の誰一人として、私に合法的に異論を立てられそうな気配すらないのです。」要するに、仏道に対して異論を立てることは絶対に不可能ということです。感情的で、先入観にやられて、ブッダに対して恨みを持って、いい加減な気持ちで、「仏道は間違っているのだ」と言うことはできるでしょう。または、自分がやるつもりがないことを誤魔化すために、異論を立てることもできるでしょう。自分が信仰している宗教の教えと違うからと、異論を立てることもできるでしょう。これらは、理性ある知識人のやりかたではないのです。異論を立てるならば、それなりの証拠を示す必要があります。異論を立証する義務があるのです。仏教用語を使えば、「sahadhammena合法的」です。合法的に異論を立てることは、不可能です。

結果は確実

この世で、100%の結果が確率で結果が出ると言えるものは、それほどないのです。われわれはなんの躊躇もなく、飛行機に乗って旅立ちます。乗り物事故が少ないといえば、飛行機は第一になります。しかし、飛行機は事故を起こさないと100%の確実性で言えるでしょうか? 医者はたくさんの人々の病気を治しています。しかし、この薬を飲めば、この手術を受ければ、あなたは100%で治るのだと言えるものでしょうか? 探せば100%の確実性を持つ現象を見つけることができます。たとえば、空に向かって石を投げれば、地面に落ちます。(カラスが途中で持っていかないならば。)夜が明けたら日が昇ります。

仏教が真理として説くものは、100%確実です。たとえば、生きることは苦である、すべての現象は無常である、現象には絶対変わらない実体(我)がない、善因善果悪因悪果などの教えです。100%でない場合は、それを明確に示すのです。たとえば、人が身口意で悪行為をおこなうならば、かれがその道を変えない限り、そのまま行けば死後、不幸に陥る。この言葉には、条件を付けているのです。ひとが道を変えることで、将来得るであろう結果も変えることができます。だから、仏教では「悪人はみな悉く地獄に堕ちるのだ」とは言わないのです。

ここでお釈迦さまは、仏道(実践)は100%の確率で結果が顕れるのだと説かれているのです。「仏道をやってみたけれど、幸福に達しなかった」とは、言えたものではありません。そのように言い張りたがる人々に、問題があるのです。素直ではない、ということです。どこかで誤魔化している。要するに、正しく教えたとおりに実践していないのです。これはお釈迦さまのせいではなく、実践する人の性格の問題です。素直な人間になることは、自分自身の宿題です。弟子が宿題をやらないことは、師匠の過ちではありません。

確信を持ちましょう

仏道のすべてに、絶対的な確信を持つべきです。仏道は決して、曖昧中途半端な道ではないのです。結果が出るかもしれない、出ないかもしれない、という世界ではないのです。絶対神を信仰すれば、死後、永遠の天国に生まれるのだと説くような話は、曖昧中途半端です。まず、立証することは絶対に不可能です。死んだ人は、永遠の天国に行くかもしれない、行かないかもしれない。五分五分の話です。ブッダは五分五分の話はすべて捨てます。可能性に挑戦するのではなく、確実性がある道に挑戦するのです。たとえば、「この飛行機のエンジンに大きなトラブルが見つかったが、イチかバチか飛ぶことにした」と言われて、あなたはその飛行機に乗るものでしょうか? 無事目的地に着陸する可能性もあるし、墜落する可能性もあるのです。愚かなことをしないで、その飛行機をキャンセルしてください。人生は、五分五分に挑戦するものではないのです。ついでに憶えておいてください。俗世間で我々がおこなっているほとんどの挑戦には、五分五分のチャンスすらないのです。

ブッダは偉大

このように、100%の確率で真理を語られた唯一の方がブッダです。100%の確率で、苦しみを乗り越える道を語られた唯一の方がブッダです。ブッダに肩を並べる生命は、人間、神々、マーラ、梵天という生命のすべての次元のなかで、存在しないのです。ブッダは地球に光を与える太陽のような存在です。懐中電灯の光では、太陽に勝てないのです。われわれは、このように一切の生命を乗り越えた偉大なる人格者であるブッダの弟子たちなのです。苦しみを乗り越えられるという、100%確実性のある道を曲がりなりにも実践しているのです。仏教徒は自分の生きかたについて、なんの躊躇もなく確信を持つべきです。ブッダに対して、教えに対して、八正道に対して、確信を持つべきなのです。

絶対的権威をもって語る

Etamahaṃ, sāriputta, nimittaṃ asamanupassanto khemappatto abhayappatto vesārajjappatto viharāmi.

「合法的に異論を立てられるという気配すらもないことを知っている私は、安穏の境地に達しているのです。(不安になってしまう原因は一切存在しない。こころに不安になる可能性すらない。)無畏の境地に達しているのです。(お釈迦さまには、「ヤバイ」という気持ちは生じる場がない。こころに「ヤバイ」という気持ちが起きない。)したがって、〔仏道において〕絶対的な権威を持っているのです。」

幸福を目指すならば

真の幸福を目指すならば、釈尊が「やめなさい」と言われた項目を言いわけしないで絶対にやめるべきです。「実行しなさい」と言われた項目を言いわけしないで絶対に実行してみるべきです。道・非道はブッダが知り尽くしているのですから。といっても、絶対的な信仰を推薦しているわけではありません。ものごとを確かめたいと思う人、理性ある人には、ブッダの説かれた教えはその通りか、そうではないのかと、徹底的に調べる自由が与えられています。仏教とは、迷信・妄信を断言的に退け、理性に基づく確信 saddhā を推薦する教えなのです。

今月は、お釈迦さまの降誕・成道・般涅槃という三大聖事を祝う月間です。この記念日をお祭りだけで終えてはいけません。「われわれの偉大なる師匠であるブッダは、どれほどの徳のある方でしょうか」と念じて観察しなくてはいけないのです。今月はブッダの数えきれない徳の中で、ブッダの権威第四という一項目を念じて観察してみましょう。この冥想によって、皆様に幸福が訪れることを誓願いたします。