1.釈尊の根本的教え 6
瞑想法の基本
お釈迦さまはいったいどんなきっかけから出家を決意されたのでしょうか。お釈迦さまは結婚もされていたし、家も位が高く富裕でもあり、言ってみれば何一つ不自由なものはないという他人から見れば大変恵まれた環境にありましたから、出家とは緑のない世界にいたといってもいいはずです。それなのになぜ、この世に空しさを感じ、何を需めたのでしょう。人間はこの世に欲しいものがすべて揃ってしまうと逆に空しさを覚えるものなのです。例えば、お金がなく明日のたつきにも困るような貧乏な人は、お金を工面することに懸命でその他のことまでとても気が回りません。同じように、物がないときや苦しんでいる時もまた、苦しむことで精一杯ですから空しさには気がつかないのです。もし、すべてのものがすぐ揃ってしまったら、皆さんはたちまち空しさを実感されるに違いありません。
お金や物を豊富に持っていたいというのはどういう理由からですか? 皆さんはよく豊かな生活ということを言います。豊かさとは一体なんでしょう? 考えてみればお釈迦さまこそ豊かさに恵まれた典型とも言うべき存在でした。 16歳で結婚し、勉強も完璧に終わり、スポーツも万能の天才青年で、何一つ問題などなかったそのお釈迦さまが突然出家を決意されたのです。ここにすべての人間にとってもっとも大切な答えが隠されています。それはまるで悩める現代の私たち人間のためにお釈迦さまが自ら遺された貴重なメッセージと聞くことができます。つまり人間にとって、ものごとが上手く行っているときほど見えない穴もまた大きく掘られているのです。豊かになればなるほど、同時にその穴もまた大きくなっていくのです。ですから、幸福というものは物質的なところで掴むものではなく、精神的、心で掴まえる豊かさこそが真の豊かさと言えるのです。お釈迦さまはそのことに気づき、出家をされて心の豊かさを追い求められたのです。
はじめて世間に出たお釈迦さまは、最初にみすぼらしい身なりをした老人に出会います。
「こんなふうにして毎日毎日遊んでいたところで人間というものは皆この老人のように老いていくのだ。いまはこうして老いを忌み嫌うけれど、自分もまた老いて、みにくくなっていく存在だ」お釈迦さまはショックを受けます。
次に、お釈迦さまは病人に出会います。
それまで病気らしいことは一度も経験しなかったお釈迦さまはここでもショックを受けます。「なるほど人間というものは自分が健康なときは病人を見て忌み嫌うけれど、自分もまたいつかは病気にかかってそれが原因で死んでしまうこともあるのだ」病気になったら、億万長者と言われようがどんなに高い名誉に包まれていようがそんなことは全く関係なく、無価値になってしまうのです。
次に、死んだ人を目撃して「ああ人間というものはただこれだけの存在なのか。ただ死ぬためだけのために一生を頑張って生きているものなのか」
お釈迦さまは若くしてこのような人生の実相というものを洞察し、それでは人間として避けることの出来ない、こうした苦しみからどうしたら脱却して生きていく方法があるのだろうか-真理の道を追求しはじめたのです。最後に出会ったのは出家者でしたが、この出家者を見てお釈迦さまははじめて自分の求める道、方法が分かってきたのです。そこからお釈迦さまの求道、修行の旅は始まり、そしてついに真理を見つけるのです。
「ついに解かりました。すべての悩み苦しみを乗りこえた真理を見つけました」と、お釈迦さまは言います。
仏教というのは、お釈迦さまが真理を見つけたと同じように、私たち一人ひとりもまた真理を掴めるよう修行する方法を説くものです。現在では我々の想像できない、見方をまったく変えた確かな方法で世の中を、そして自分を見る方法。それが、Vipassanā でvi(明確に、詳細に)という言葉と、 Passanā(観察する)を合わせてヴィパッサナー瞑想法と呼んだのです。
ヴィパッサナー瞑想は決して苦行ではありません。心身ともリラックスさせることがまず大事です。これはあくまでも実践方法なのです。お釈迦さまは、心を清らかにして解脱を体験する方法としての瞑想法を勧めているので、他の瞑想法とはちがって、どんな人にでも簡単にできる方法を指導しているのです。
この方法は純粋な瞑想法ですから、他の瞑想法と混ぜてやらないほうがいいのです。ここで言っている瞑想方法は、「きちんと正しく観ること」です。観るというのは、目でだけ見るのではなく、正しく、明確に認識すること、知ることですから、見る、よりは観るという字をつかったほうが分かりやすいと思うのです。
では、何を観るのでしょう。それは、自分を観るのです。自分のことを正しくしっかり認識できた人がすべてのものを、すべてのことを観ることが出来るのです。というのは、まず自分がいて、それで他があるのですから。もし、自分というものがいなければ、他の人や物はどうでもいいことになるはずですから。世の中に対するいろいろな考え方があっても、それはいかなるときも自分という存在があってはじめて成りたっていることなのです。どんな場合でも、自分がまずあって、そこで始めて全ての関係が生じるのであって、自分中心なのです。その問題はひとまず置いておきましょう。
ところで、自分とは一体なんでしょう。それを知ることが、ヴィパッサナー瞑想法の基本をなすものです。「自分って、何でしょう?」皆さんには一刻もはやくこの瞑想法を実践していただきたいので、分かりやすいヒントを差しあげましょう。
私たちは、自分自身というとき何を元に言いますか。
「私は…」という私とは何でしょう。
まず、たいていは自分の肉体を指すでしょう。
もし私がだれかの手を引っぱったとしましょう。引っぱられた相手の人は、「なぜ、私を引っぱるのでですか。私の手を引っぱって、何かご用ですか?」と言うはずです。私はただ手を引っぱったにすぎないのに、です。もし私が相手の人に冗談を言ったとしましょう。すると言われた相手は、「なぜ私に冗談なんか言うんですか」と訊いたりします。私はただ何か言葉を発したにすぎないし、実際に聞いた人も言葉という音を耳で聞きとっただけなのに、です。もう一つ例を挙げましょうか。
私たちは寒いとか、暑いということをどう言いますか。「私は、暑い」[寒がりだから私は非常に寒い」といったふうに、寒暖は皮膚が感じているのに、「皮膚は寒い」とは言わず、私は---、というように表現しています。
このように、「私」には二つの「私」が存在することが分かるでしょう。まず「身」の「私」、次に「心]の「私」です。私たちがいろいろなものを見たり聞いたり感じたりするのは、感覚器官という身で察知したあと、心によって認識し、判断、選択しているのですね。「私」を知り、認識するには、瞑想法の場合も「身」と「心」の二つを観てはじめて「私」を認識できたということになるわけです。観るだけですから、余計な心配はいりません。ただ知ったこと、認識したことは確認する必要はありますから、身と心に言葉を用いてラベルを貼ってしまうのです。
ラベルを貼るとは、例えばあなたが立ち上がるときは、「立ちます……」と言葉をかけてゆっくり立ちます。自分を発見することが目的ですから、相手のことは気にすることはありません。もし相手のことが気になると、自分のことが発見できにくくなります。となりの人が音を出そうが、口を利こうが、意に介さず自分の確認だけに没頭することです。立つときも、きめ細かく観察することです。ふくらはぎが痛くなれば、「ふくらはぎが、痛みます」、身体が右に傾くようにに感じたら、「身体が右に傾きます」、身体が前屈みになったら、「身体が前の方へ屈んでいます」というふうに、動作や感情の逐一を観察して、言葉のラベルを貼ってしまうのです。この言葉のラベルを貼るということは、リラックスさせる意味からも非常に効果があります。瞑想はリラックスすることと、素直な気持で進んでやることが肝心なので、嫌々やっていてはやる意味もありません。ですから、丁寧に真剣にやることです。立ち上がったら足の裏で立っていることを感じているはずですから足の裏に神経を集中して、「立っています、立っています」と認識します。
もし、瞑想中に集中できず何かの思いに促われたとしても、「いま妄想しています」と確認すればいいのです。初めのころはこうした妄想に悩まされるものですが、「妄想、…」とか、「思い出した、…」と二、三回確認していけばそれは消えてしまうことで、また瞑想法になれてくれば妄想も、いろいろな思いもあまり出てこなくなってきます。
瞑想で一番いけないのは眠ることです。眠ってしまうと意識がなくなりますから、確認も自分を観察することも出来なくなってしまい、瞑想の意味をなしません。それどころか、眠たいということは、いまの状態を善くしたくないという悪い心の現れでもありますから、人間の根本的な苦しみの大本は善いことは中々したくないという気持と、悪いことはすぐ安易にやってしまうという心の癖があって、そこに通じてしまいますから眠気は注意が必要です。
眠気は瞑想をしたくないという心の現れです。ですから眠気をぐっと我慢していると今度は身体が痛くなってくるはずです。この瞑想を何とか邪魔してやろうという心の働きですから、負けないように頑張ってください。眠気が来たら、「眠気、眠気」と言って眠気を観察する方向に行ってください。やがて眠気は退散するはずです。ただ、お釈迦さまのこの瞑想法は決して厳しくやることを勧めてはおりません。瞑想中にどうしても集中できないときは、止めていいのです。
お釈迦さまはこの瞑想法を実践するときに二つの重要事項を挙げています。
第一は、自分で自分の心を清らかにすること、正直に、真面目にやること。
第二は、自分の心の状態を指導者に正直に言うこと、恰好をつけて嘘や拡大して報告したりするのは瞑想の効果を甚だしくスポイルするものです、
と。
そのため、テーラワーダではどんなに偉い坊さんと言われる人がいても、指導者はあくまでもお釈迦さまであり、比丘も修行僧も単なるヴィパッサナー瞑想実践者の手助けをする者にすぎないのです。そういう厳粛なる鉄則があるからこそ、こうして2500年経ったいまも根本仏教は純粋な形で命脈を守ってこられたに違いありません。我々比丘や僧は、「お釈迦さまはどのように指導しましたか」を合言葉にしているのです。