14.因縁の話 6
因果を理解すると囚人も自由になれる
先月、釈迦尊は、「無常」 も 「苦」 も因果説によって説明されているということをお話ししてきました。「苦」について言えば、何かを 「目」 で見て、怒りが現れても、欲が現れても、無知が現れても結果は大変なことになり、結局「不満」「苦しみ」 が現れてくるのだということの具体例をお話ししました。
世の中を生きれば「苦」と出会う
もう少し説明すると、世の中で生きるということは、否が応にも、太陽が出たり、雨が降ったり、人と出会ったり、暑かったり、寒かったり、お腹がすいたり、満腹になったり、病気になったり、身体が痛くなったり、また痛みがなくなったりと、いろいろなことが起こる、それが普通のことなんですね。
なぜそれが苦しいかと言えば、そういうものに対して自分が執着し、あるいは嫌悪感を持つからです。
人は世の中に何らかの関係を持って存在するわけですが、関係を持つからこそ苦しい。「苦」というものが現れる、そういう教えなのです。
その点について、ひとつ経典の引用をさせていただこうと思います。『原始仏教』全10巻(講談社)の第7巻『ブッダの詩-1』、これはスッタニパータの訳です。この本では253ページから273ページという長~い長~いお経なんですが、精神的な苦しみがなぜ現れるかということを因果説を用いて説明したお釈迦さまの教えです。多少むずかしい偈文もありますが、すべて理解できなくてもかまいませんので、少しお読みになるといいかなあと思います。このお経は、人間の苦しみ、苦というものは、いろいろな原因から現れるということを説いています。
こころのエネルギーはなくならない
もうひとつ、因果説で教えていることは、私たちは無限に、輪廻のなかで転じて転じていくのだということです。現代人は、人間が死んでしまったらそれきりで、終わりだと思いこんでいるのですが、その考え方はまた、科学的とは言えないんですね。なぜならば、私の身体という物質そのものは、この地球に置いて行くわけですけれど、精神もまた、同じく消滅変化していく「エネルギー」なんです。でも消滅変化していく精神のエネルギーは、物質の消滅変化とはずいぶん違う法則で動いているのです。あるエネルギーがある場所でなくなったとしても、消えてしまうことはあり得ない、どこか別のところに現れるもの、という考え方を、仏教では普通の常識として持っているのです。つまり、原因が結果を出さないでなくなるはずはない、ということなのです。だから、私たちのこころの精神的なエネルギーは、肉体の「死」によって、いったんなくなったように見えても、消えてしまうということはない。それでは科学的におかしい。それが原因になって、別のエネルギーに転じるのです。そして、自分のこころのエネルギーの責任は、いつまでたっても自分にあるのです。
マンゴーの例がよくたとえに出されますが、マンゴーの実は、種が「原因」ですから、種を植えた人には実を食べる権利があります。だから王様が植えたマンゴーの種なら、なったマンゴーも王様のマンゴーですね。本来は植えたマンゴーの種自体はもう、土の中でしぼんでしまって小さくなってしまっていますし、木の上のマンゴーの実とはまったく別のものなのですが、エネルギーの消滅変化の結果として現れるという意味では、種に責任があるのです。このように、輪廻についても、お釈迦さまは、因果説を用いてお話しされています。
本物の自由の素晴らしさ
今日はあまりむずかしい話はしたくなかったのですが、お伝えしたかったのは、私たちがどう生きるかということなのです。きちんと、原因と結果を考えていれば、つまり、このような無常、輪廻を認識していれば、人間として生きている間、自由に、楽に、素晴らしい生活をすることができるということです。どんな喜びがあっても、苦しみがあっても、自分にどんな欠点があっても、不満があっても、何でも無常。何か原因があって現れる事象の、原因が無常なのですから結果も無常。そういうことが認識できたら、何かとても楽になって、小鳥のように自由に、喜びを感じながら生きていることができるのです。
しかし世俗的な自由がどれほど素晴らしいものであるとしても、その自由はやはり、原因があって生まれた因縁の結果としての自由ですから、本物の自由ではない。そうすると、本物の自由である涅槃、悟り、解脱というものが、いかに素晴らしい自由だろうかと推測して、それを目指して励み、がんばっていただきたいと思うのです。
「因縁の話」六回を通じて私が伝えたかったことは、それだけの小さなものだったのですけれど、話はずいぶん長くなってしまいました。私が先ほど申し上げたスッタニパータの第12経『二行の考察』というお経などをお読みになって、少し、因縁の考え方、お釈迦さまがどうおっしゃっているかということなどを考えてみて欲しいのです。このお経は因果説のものすごく古いお経なんです。十二縁起説とか、いろいろなかたちの因果説は、後の形なんですね。
このようなお話も、皆さんに希望があれば、またお話ししましょう。
瞑想実践での因果説
今日から皆さんが瞑想されるときは、神秘体験やなにか知らなかったような体験を求めるのではなくて、原因と結果というものを観て、感じて欲しいのです。私がいただいた手紙の中でも、瞑想がなかなかできないとか、そのような話も多くあります。瞑想で一朝一夕に大きな精神的な変化を見ることは、私たちにはできないかもしれません。みんな、生きるために仕事や生活がありますからね。変化や成長をあまり気になさらず、原因と結果を考えましょう。たとえば足が痛くなったら、このような形で座っているから足が痛い。痛いから私には「嫌だ」という気持ちが生まれた。眠くなったら、今、眠くなったと認識し、その原因はこうである、というふうに原因と結果を考えてみましょう。あるいは、頭の中にいろいろなことが思い浮かんでしまう人は、他の対象が頭に入ってきた、頭がそちらに行ってしまった…。そのように、瞑想の途中で、AがあるからBがある、Aが生じるときBが生じる、AがないときはBがない、Aが滅するときBが滅する、という四つの方程式によっていろいろな現象を観ていただきたいのです。自分に現れる痛みとか、寒いとか暑いとかいう感覚が、頭のなかを混乱させているときは、そのように考えればよいのです。因果説をぜひ、ご自分の瞑想実践にも活用してみてください。(この項終了)