根本仏教講義

26.人生改良計画 4

偽善者に幸福は来ない 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのは妄想ではありません。事実です。なぜなら、誰でも幸せになりたいからです。でもそれを忘れている人がいます。まれですが、幸せになりたくないという人がたまにいるのです。でも彼らに、「そんなに幸せがいやなら、私は不幸になりますようにと真剣に念じてみてください。苦しみや危険に遭いますようにという気持ちで生きてみてください」と言うと、その人は「あれっ、おかしい。不幸はいやだ」と、自分の矛盾に気づくのです。

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「あなたに尽くす」という偽

私たちは「自分が幸福になりたい」ということさえ、はっきり分かっていないのです。「私は自分を犠牲にして家族に尽くしている」と言っている人もいますが、それは嘘だと思います。家族のために尽くしているなら、なぜ今、文句を言っているのでしょうか。旦那に尽くした、親に尽くした、家族に尽くした、会社に尽くしたなら、それで十分ではないでしょうか。なのに、心のなかは不平不満だらけなのです。ですから「あなたに尽くしています」というのは大嘘です。真実は、自分のことしか考えていないのです。自分の幸福ばかり考えているのです。しかし、「自分が幸福になりたい」と考えることが悪いという意味ではありません。悪いのは、その本音を隠して、「あなたのために尽くしています」と偽善ぶって威張ることです。

たとえば、自分の子供が引きこもりになって不登校になったとしましょう。親は子供のことをとても心配します。しかしそれは外見上のことで、ほんとうは子供が学校に行かないと自分が不安で心配でたまらない、それがいやなのです。ひどい母親は、「うちの子が不登校になった。学校に行かないでぶらぶらしている。近所の奥さんたちのうわさになるのではないか。恥ずかしい」と、自分の世間体やメンツを気にするのです。それで感情的になって、子供に「なんで学校に行かないの!」と怒鳴ったり責めたりし、おまけに「私はあなたのために言っているのですよ」と大嘘まで言うのです。でも、これは子供のために言っているというより、正直なところ、母親は自分が大切で、自分のために子供に学校に行ってほしいと考えているのです。

そこでポイントは、自分が大切だと思うなら、それを正直に認めることです。「子供が学校に行かないで引きこもっていると自分が心配だ」「自分が恥ずかしい」ということを認めることです。しかし私たちは自分のほんとうの気持ちに気づかずに、子供にあれこれ言うのです。偽善的で、言っていることは無茶苦茶なものですから、子供は母親の言うことをちっとも聞かないのです。

「自分が幸福になりたい」というのは事実であり、真理です。真理を無視して、どうやって正しい生き方ができるでしょうか。ですから「自分の幸せ」をしっかり念じることが大切なのです。

正直に「自分の幸せ」を念じる

仏教では、まず偽善を取り除くことから始めます。そのためには「私が幸せでありますように」と自分の幸せを正直に念じることです。「私は幸せで、楽しく、清らかな気持ちで、悩んだり苦しんだりすることなく生きていきたい」と念じるのです。その気持ちで家族に接したり、仕事をやってみると、すごく気楽にできるでしょう。たとえば子供にしつけをするとき、お母さん方はいきなり「勉強しなさい、ゲームばかりして!」などと感情をぶつけがちです。その場合、子供は聞いてくれるでしょうか? ほとんど聞いてくれません。そうではなく、自分の気持ちを正直に子供に伝えればよいのです。「あなたがそんなことをするのは私がいやですよ。そんな調子だったら、私はあなたの面倒をみるのは楽しくありません。かわいいと思いません」。そう言うと、子供は耳を傾けようとするのです。それで性格も直っていくと思います。

先ほどの不登校の例の場合には、このように言うこともできるでしょう。「学校に行かないのですか。お母さんには別に関係ありませんよ。あなたがほんとうにそれでいいと思うなら、どうぞ好きなようにしてください。あなたが学校に行かなくても、お母さんの頭が悪くなるわけではないのだから」と。子供の問題を、自分の問題にしないことです。そうすると子供は「やばい、勉強ができなくてバカをみるのは自分ではないか。やっぱり学校に行かなくちゃ」と考えるのです。自分で考えて理解したことなら、もう不登校になることはないでしょう。なぜなら、誰でも自分のことがいちばん大切で、好きで、かわいいのだから。

すべての生命の幸せを願う

自分の幸せをしっかり願うことができたなら、次に両親、家族、親戚、先生、友人など親しい人たちの幸せを願います。自分が今生きているのは、周りの人たちのおかげです。周りの人たちに助けてもらったり、面倒をみてもらったり、いろいろ教えてもらったから、今の自分があるのです。ですから慈しみの気持ちを込めて「私の親しい人々が幸せでありますように」と念じてください。

自分の幸せを願い、親しい人々の幸せを願うことができたなら、次にすべきことは、生きとし生けるものの幸せを願うことです。私が幸せになりたいのと同じように、あの人もこの人も、知っている人も知らない人も、近くにいる人も遠くにいる人も、虫も鳥も魚も動物も、神々も、あらゆる生命が「幸せになりたい」と思っているのです。誰も苦しみたくないのです。ですから、自分が生きる場合は「すべての生命が幸せになりますように」と思わなくては、とんでもない法則違反を犯していることになるのです。

たとえば犬を飼っている場合、犬は人間に餌をもらったり、遊んでもらったり、散歩に連れて行ってもらったり、いろいろ楽しみたいと思っています。それで飼い主が愛情をもって親切に飼ってあげれば、犬も楽しいですし、自分も楽しい。お互い楽しいのです。しかしその楽しみを捨てている人がいます。「人間は犬よりも偉い」という傲慢な態度で犬を飼っている人たちがいるのです。そうすると犬は惨めでしょうし、飼い主もその傲慢な考え方のためにとても苦しむ羽目になるのです。

仏教は人間やペットだけでなく、すべての生命に対して幸福を願います。そうすると苦しみが消えて、すごく幸福に生活できるのです。常に自分の幸福と、生命の幸福を考えて行動してください。これはすごく楽しいことです。また皆の幸福を願うことによって、ほとんどの問題が解決するのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と考えることで、親子の問題、夫婦の問題、人種問題、宗教間の争い、環境問題、自然の問題など、あらゆる問題が解決するでしょう。

それから、すべての生命の幸福を願えるということは、自分の心が成長したということでもあります。心が成長するにつれて幸福感もどんどん増えていきます。ですから無駄な妄想をして、自分が持っている能力をなくし、悪循環して苦しむのではなく、幸福を目指して頑張った方がいいというのが仏教の世界なのです。

(次号に続きます)