あなたとの対話(Q&A)

夢について/十種類の怒りは生命共通/無我と苦の関連性

パティパダー2011年10月号(170)

数日前に夢を見まして、その夢は妄想の塊だったので、すごく残念というか、驚いてしまいました。ヴィパッサナー冥想を続けていけば、夢自体を見なくなるのでしょうか。

夢というのは誰が見ても妄想ですから、そんなに気にすることはないと思います。寝てないときでも私たちは妄想するでしょう。それも全く夢と同じで、現実には関係ない妄想なのです。
 
 関係ないといっても、なにかに基づいて夢を見るのは確かです。それは感情なのです。ちょっと気分が悪くなったとか、あるいは好きになったとか、欲しくなったとか。そういう怒りや欲の感情、興奮したとか、プライドが傷ついたといったいろんな感情が入ってくることで、私たちは起きていても妄想するのです。怒りが入ったら、「なんであの野郎は」と腹がたったりする。「なんでそんなことしたのか」と、独り勝手に妄想する。欲がある場合でも同じことで、「あれって美しい」「よかったなあ、きれいでしたね」「もう一度見たいなあ」といった妄想が出てくるのです。
 
 夢の中でも同じく、感情が妄想を引き起こしてしまうのです。夢の中はコントロールできませんが、私たちはまず、起きているときは妄想してはいけません。妄想はひどく損なのです。時間が無駄になってしまうのです。生きている時間は本当に短いのだから、いつでも有効的に、効率よく使わなければ勿体ないのです。妄想する時間には、生産性はゼロです。ですから、妄想が起こる時間をとことん減らすことです。
 
 夢は、どうせ寝ているときのことだから、生産性云々という問題は出てこないのです。しかし、夢を見ないでぐっすり寝た方が効率は高いのです。しっかり休んで、それから頑張れるのです。朝までとんでもない興奮の夢ばかり見てしまうと、身体が休めなくなっちゃうのですね。だから、夢でもやっぱり効率は減りますけどね。しかし、コントロールできないのだから、そこら辺はまぁ放っておいてください。 
 
 それで、質問の二番目、ヴィパッサナー冥想すると夢を見なくなりますか、ということはケースバイケースです。まあ、一般論で言えば、かなり少なくはなります。夢を全く見ないで寝たければ、もう無茶苦茶冥想した方がいいのです。冥想して頭がすごく頑張ったところで、寝てみると、サッと寝られるのですね。
 
 それから、感情に惹かれる心をどんどん制御できるようになると、夢はその分減ってはいきます。完全に消えるかどうかということは、ちょっと分からないのですね。そういうのは、ちゃんとデータを取って言わなくちゃいけないことだからね。仏典のテキストの中でも、そういうのは書いてないのです。冥想の達人は夢を見ない、という記述はないのです。見る可能性はあります。それにも理由があります。
 
 夢を見る原因は、注釈書などでも解説されています。一つは体調。身体の体調が変わると、それで、神経が動いて脳をいじるのです。それで脳が幻覚を作るのです。例えば、足が痛くなってきたとか、お腹の調子が悪くなったとか、食べ物が重すぎて消化が遅いとか、そういう場合は結構夢を見てしまうんですね。
 
 ですから、夢で随分ご馳走を食べる夢を見たならば、逆にお腹の調子が悪いということにもなるのです。そういうふうに、なんとなく反対の現象を頭が作ってしまうということもあります。体調が悪いときも神経が刺激されて夢が見えるのだから、それは「ヴィパッサナー冥想やったんだから」といって、「阿羅漢になったのだから」といって、夢を見ないとは言えないのです。修行が進んでも、体調が悪くなったり、食べたものはなかなか受け入れられなかったり、いうことはありえます。ですから、完全に夢が消えちゃうとは、ちょっと言いづらいのです。

 ですから、こういう結論にしましょう。冥想すると、とんでもなく嫌な、変な夢は減る。それから、悪い夢は消える。夢でも怒りが出たり、欲が出たり、悪行為をしたりします。それもやっぱり心が汚れてしまうのですね。冥想が進んだ人は、夢を見ても、それがなくなるのです。とても美しく、心穏やかになる、気分がよくなる夢になってしまうのです。激しく修行して、頭をフル回転させて動かした人々は、修行中はあまり夢を見ないのです。その程度ですね。「悪夢は見なくなります」ということにしてください。

『怒らないこと2』に出ている「怒りの十種類」※は人間以外の生命も持っているのですか?

「怒り」を言葉にすると、人間だけのものだと思われてしまいます。しかし、生命の感情、煩悩は言葉以前の問題です。言葉とは感情に貼るレッテルです。この理論から、煩悩は他の生命にもあるということになるでしょう。怒りの十種類も当然です。

※1dosa(基本的な怒り)、2vera(激怒)、3upanqha(怨み)、4makkha(軽視)、5palqsa(張り合い)、6issq(嫉妬)、7macchariya(物惜しみ)、8dubbaca(反抗心)、9kukkucca(後悔)、10byqpqda(激怒・異常な怒り)

「無我」と「苦」はどのように関連しているのですか?

無常・苦・無我という三つの用語は、同義語です。ですから関連という言葉は成り立たないのです。すべての現象の性質とは、無常であり、苦であり、無我であることです。問題はなぜ用語を三つ使ったのでしょうか、ということです。実は他の用語も使っているのです。一切の現象の性質は空である、とも言うのです。そのうえ、病であり、腫れ物であり、箭であり、夢であり、幻覚であり、などの単語も使うのです。
 
 知識的に勉強したいと思う人々は、一つひとつの用語が持っている特定の意味は何なのかと知りたくなるのです。そうなると、無常=苦ではなく、無常には別な意味があって、苦には別な意味がある、ということになります。しかし、実践して一切の現象の本来の性質を体験する人に、一つひとつの用語の別々な意味は関係ないのです。一切の現象の本来の性質を体験した人が、それからその経験を他人に語る場合は、何かの言葉を使わなくてはいけないのです。どんな言葉にするのか、ということは、その真理を体験した人の言語的能力によって変わるのです。お釈迦様が一切の現象の本来の性質を言葉に変えるときは、無常・苦・無我という三つの用語を使ったのです。時々、相手の理解能力を考えて、別な用語も使ったのです。空であり、病であり、などの用語は、その時、使われたものです。
 
 要するに、言葉が変わっても意味は同じ、ということです。知識で理解する人にとっては、言葉ごとに別々な意味になるでしょう。実践して経験する人には、その問題はありません。では知識的に、無常・苦・無我をどのように理解するのでしょうか、と説明しましょう。現象を三つの視点から観察すると、三つの用語を使うことができます。
 
 例えば、一般的に観察する。簡単に分かりやすい明確な特色を発見する。その場合は誰でも、一切の現象は無常である、と言うでしょう。 (approach of empiricist)
 
 生きるとはどういうことかと、自分の命、他人の命を観察して、現象の性質(この場合は生きることの本来の性質)を発見するとします。実存的な立場で調べることだとしましょう。その時、自分が発見した一切の現象の性質に、苦だと名付けるでしょう。 (Hedonistic or existentialistic approach)
 
 この問題に、哲学的にアプローチすれば、どのようになるのでしょうか。哲学者は自分と他人の実体は何なのか、森羅万象の実体は何なのか、などなどの疑問に興味を持ちます。その人は正しい答えを見つけたならば、一切の現象の本来の性質は無我であると、名付けるでしょう。 (ontological approach)
 
 ですから、現象の本来の姿を知識的に理解しようとすると、自分の視点から、無常になったり、苦になったり、無我になったりするのです。ある女性に、ある人は母ですと言う。別な人は妻ですと言う。また別な人は娘ですと言う。母・妻・娘という三つの名前も、実は同じ人につけたものです。同じ人が、他人の見方によって母になったり、妻になったり、娘になったりするのです。視点違いで用語が変わるということは、こういうことです。
 
 ついでにもう一つ理解してほしいポイントがあります。一般的に誰でも、生きることはたいへんだ、苦しいことはいっぱいあるのだ、苦労しなきゃ何も得られないのだ、地震も津波も苦しいのだ、倒産も病も死ぬことも、死に別れになることも苦しいのだ、というのです。それは、世間が一般的に経験する苦しみなのです。これは、お釈迦様が発見した「苦」という真理と似ているが、違います。一般人は楽に対照して苦を発見するのです。病気で不自由になったところで、健康でいたことと対照して「病は苦しいのだ」と思うのです。一般人にも、真理を発見した聖者にも、空腹は苦しいのです。怪我したら痛いのです。夏は暑いのです。このような苦は、いつでも対照的です。ですから誰にでも理解しやすいのです。しかしこの程度の理解では、誰も覚りには達しません。私たちがよく気になるのは、この一般的な生きる苦なのです。(General view of life)