あなたとの対話(Q&A)

心の清らかさを確かめる方法を知りたい/集中できない悩み/仏教と「言論の自由」

パティパダー2015年3月号(209)

心の清らかさを確かめる方法を知りたい

自分の心が清らかになっていっているということを確かめる方法があるのかお聞きします。

自我の侵入に要注意

 確かめる方法はありますが、そんなことをする必要があるのでしょうか?

 心が清らかになっているのを確かめたくなるのは、自我でしょう。もしかしたら周りの人々に、「あなたは優しい人だ」とか言われるかもしれません。だったら「あぁ、そうですか」と、それで終了してください。あまりにも自分の心のことを確かめたくなるのは良くない傾向です。
 
 真面目に実践しているなら「私はいい人間だ」と思わなくても結構です。いろいろな出来事への反応として、「私ならば、そういうことはしませんね」と清らかな自分の心に気づくときがあります。その時は、ある程度で自分が人間として出来ているのだと発見します。
 
 例えば、ある二人のいい人間がいるとしましょう。一人は、私はいい人間だと自覚している。もう一人は、その自覚さえもないのです。でもいい人間なのです。では、どちらが偉いと思いますか? 偉いのは、自分がいい人間だと自覚してない方でしょう。なぜなら、「私はいい人間だ」と思っているところで自我の壁があるのです。そういう場合、周りの人たちは「いい人間だからって、なんですか?」という態度を取るのです。自我を張っているポイントを社会から否定されるのです。
 
 ですから、自分の心が清らかになったのかどうかということは、それほど気にする必要はないのです。いろんな人と会ったり話をしたり、何か出来事が起こったりすると、前より物事が上手くいっているところが、自分が成長しているという証拠・結果なのです。
 
 自分の成長を確かめたくなったら、その時は「とことん成長しなくては」と自分を戒めないといけません。「これで全部終わったわけじゃない。まだ宿題が残っている。どこまでできるだろう」と、いつでも進歩的な方向に心をむけることが正しい生き方なのです。頑張ってください。


集中できないという悩み

私は集中することができません。例えば仕事をしているときに、いましている仕事ではなく、別の仕事がすごく気になったりします。休みで家族と過ごしているときでも、仕事でトラブルの電話がかかってくるのではないかと急に心配になったりします。というように、そのときにやっていることに集中できなくて、他のことを考えてしまうことが多いです。物事を集中してできるようにするには、どのようにしたらよいのでしょうか?

新しいモットーで生きる

 新しいモットーを作らないといけませんね。人間というのは、いつでも楽しく生きていたほういいでしょう。イライラして生きるより、心配でたまらない状態で生きるよりは、リラックスした状態で楽しいと感じて生きていたほうがいいのです。
 
 ですから、楽しさを感じる、充実を感じるときはどんなときかと聞かれたら、それはいつでもいいのです。朝起きて楽しい、仕事に出かけることが楽しい、仕事も楽しい、帰ることも楽しい、帰ってからも楽しい、寝ることも楽しい。そういうふうに24時間自分がやることは、何であっても充実して、上手くいっていると、リラックスして生きてみてください。
 
 仕事は大変だ、休みのときは遊ばなくてはいけない、と思う生き方は失敗です。仕事は仕事で楽しい、休みの日は遊ぶことが、それはそれで楽しい。その都度その都度、楽しむ。仕事は苦しくて、遊ぶのが楽しいという人は、一生楽しく生活するために一生遊んで暮らさなくてはいけなくなるのです。それは成り立たないでしょう。あるいは、休みの日は退屈でつまらなくて仕事中は楽しいというと、その人が一生明るく生きるためには、24時間死ぬまで仕事をしなくてはいけないでしょう。それは世の中では成り立たないことなのです。ですから、「その都度その都度、楽しむのだ」と考えなくてはいけないのです。

いまの時間から飛んではいけない

 あなたの問題は、いまの時間から別な時間に飛ぶことなのですね。時間を過去や将来に飛ばすことは大きな間違いであって、失敗なのです。時間というのは、一本しかないのです。本当は飛ばすことはできないのです。いま現在から将来や過去のことに飛ぶことは不可能です。本人はやっているつもりですが、しかし、ただ今の時間を無駄にしているだけなのです。今の時間にやるべきことをして充実感を得ないで、ふざけて無駄にしているだけなのです。

 ということで、仕事中も時間を無駄にしていて、休みのときも時間を無駄にしているのです。どうやって時間が無駄になったのかというと、時間を過去や将来に飛ばして考えたということなのです。それはあり得ないことなのです。

子供たちに学んでみる

 ですから、時間を過去や将来に飛ばすことをしないで、「いまどうすれば楽しみを得られるのか」とチェックすればいいのです。その方法を子供たちは持っていますよ。子供たちはどんな場所に行っても、どうやってここで楽しめるのかと遊びを見つけます。子供たちには決まった遊ぶプログラムはないのです。

 何をして遊ぼうかなと悩んでいる子には、少し問題があるのです。どうしてもじっとしていられない、どこに行っても何かしらやってしまうという、それが子供の生き方なのです。何か遊ぶ方法を見つけるのです。誰かをからかってでも、誰かに迷惑をかけてでも、何かその都度遊ぶ方法を見つけます。

 そこからひとつ生き方を学べます。もちろん、子供の生き方をそのまま大人が真似するわけにはいきません。遊んで時間を使うのは、子供の世界ならそれでいいのですが、大人の世界では成り立たない。しかし、やり方は正しいのです。ですから、成長は子供の方が早い。勉強するときでも、子供のほうがものすごく速い。大人になったら、成長しにくい。元気さでいえば、子供のほうがすごく元気です。休むときでも、子供のほうがさっと休むのです。子供たちには存在としての生き方が、まだ汚れて壊れていないのですから残っているのですね。そこから我々も、そのような生き方を学んだ方がいいのではないかと思います。

 ですから、我々大人はふざけている場合ではないのです。いろんな責任があるのですから、責任を持って生きていかなくてはいけないのです。なので、我々大人は仕事を遊びにするのです。それで楽しくなってきます。大人ですから、真面目に生きることを楽しくするのです。時間を過去や将来に飛ばしてしまうと、それができなくなってしまいます。

楽しみが生まれる秘訣

「やるべきことは、いまやる」ということで楽しみが生まれるのです。それが集中力なのです。ですから、休みの日に仕事のことを考えて時間を飛ばしてしまう。仕事の電話が来るかもしれないというのは下らない話です。電話がかかってきたらきたで、かかってこなかったらこなかったで、それはどうでもいいのです。
 
 家族とバーべキューしているとしたら、いかに楽しくバーベキューをするのか、ということだけにしてください。肉や野菜が焼き過ぎにならないように、ちょうどいい感じに焼けるように、材料を入れる順番を考えたり、みんなに料理を配るときでも、きちんと均等に配れるようにと考えたりして、しっかりやるのです。肉だけ食べたがる子供たちに、先に野菜だけを焼いて「先にこれを食べなさい」と言って、後で肉を焼いたりして、その場その場で計画を立てながら上手く実行するのです。
 
 そこで、上手くいったということから、充実感と楽しみが生まれてくるのです。ですから、「24時間楽しく生きるぞ」と決めてください。


仏教と「言論の自由」

仏教では「言論の自由」をどのように考えているのでしょうか?

仏教は言葉に道徳を入れる

「言論の自由」というフレーズに乗っかることは問題ですよ。仏教では、何でもしゃべりなさいとは言わないのです。まず嘘を言ってはいけない。人を傷つける言葉を言ってはいけない。二枚舌もダメです。それから、ただ無駄にしゃべってもダメだと言っています。そういうことで、言葉にも道徳が入ってくるのです。
 
 しゃべってはいけないことと、しゃべって良いことがあります。それから、しゃべって良いことのなかでも、事実だが人の役に立たないことの場合は、気をつけた方がいいのです。お釈迦様は、有意義なことを時と場合を見てしゃべってください、と教えています。できるだけ言葉が少ない方が安全です、とも教えています。そのような道徳が入るのですから、文字通りの「言論の自由」ということは言いづらいのです。

すべて因果法則です

 結局、世の中でも言論の自由はないでしょう。自分が言いたいことを言っていいわけがないでしょう。ネットでみんながいっぱい書いていますが、それもまた叩かれているでしょう。
 
 ですから、言論の自由という言葉を使うならば、人の役に立つこと、人が幸せになること、人が平和になることを自由にしゃべってください、と言わなければならないのです。いくら人の役に立つからと言って、それを言ってしまうとマズイという場合は、良くないのです。
 
 なので、言論の自由といっても、自由に思ったことを言うのではなく、慈しみに基づいて生命の役に立つことを自由にしゃべってほしい。
 
 例えば、日本でもテロの仲間のために宣伝をして、日本の若者を集めようとしています。それはなにが悪いのか、言論の自由ではないか、とそれでいいのでしょうか? やはりそういう明確に悪行為である場合は、批判したほうがいいのではないかと思います。
 
 この「言論の自由」とか、「自由」という言葉自体は、西洋的・俗世間的な考えですね。仏教的に観れば、すべて因果法則ですから、もともと自由はないのです。

宗教に対しても「批判の自由」は大切

 宗教への批判は言論の自由に入らない、という議論もありますけど、宗教が悪いことをするならば、批判しても構わないのです。それは宗教をバカにすることではなくて、たくさん宗教があるのですから、本当はお互いに対話したほうがいいのです。怒り・嫉妬・憎しみなく、ニコニコ自由に宗教同士が対話すればいいでしょう。そうやって、理性のある人は自分で判断して、信仰を選べばいいしょう。
 
 宗教であろうと何であろうと、批判する自由は必要なのです。批判する自由と言論の自由というのは、きちんと精密に分けて考えなくてはいけません。なぜ批判するのかというと、宗教は人間に善悪の基準を説くのですから、その理屈が成り立っていない場合は、指摘しなくてはいけない。でないと大勢の人々が一生を台無しにしてしまいますから。テロを肯定するような宗教者の発言を批判せずに放置したら、世界は破滅してしまいます。ですから、宗教だからといって批判をタブーにしてしまっては困るのです。私たちが護るべきなのは、そのような「批判の自由」なのです。
 
 批判の自由があるのですけど、やたらに批判するのではなく、理性に基づいて客観的な批判をしてほしい。根拠もない噂を流したりするのは、誹謗中傷であって立派な犯罪です。名誉棄損という法律もありますからね。批判してもいいのですけど、であればそれなりの証拠を出して批判することです。そういうわけで、世の中で無差別な言論の自由は成り立たない、ということを理解しましょう。