あなたとの対話(Q&A)

日常の中でこころ育む

ずっと悩んでいたことが、最近、慈悲の瞑想をしていたら解決できました。それでいっそう真剣に慈悲の瞑想をがんばっているのですが、どうも「もっと良くなりたい、もっと良くなりたい」と思うようになってきました。これは欲でしょうか。こういうのが考え方として良いのかどうかがわからないのです。

その場合は「もっと穏やかなこころでいたい」と思った方がいいんじゃないですか。「良くなりたい」というのは、ちょっと曖昧です。「良い」とはどういうことなのか、はっきりしないのです。だからより具体的に、「自分のこころはより穏やかで、激しい波を立てないように、平安な気持ちになる方向に自分が向上するように」とはっきりさせるのです。それなら危険はありません。

仏教で目指すのは自己の人格向上ですが、「自分が良くなる」ということを、外の世界と見比べて考えないことです。外と比べると間違いやすいのです。つい「あいつより良い人間になってやるぞ」などと思ってしまったりするのです。そういう気持ちをもつこと自体が悪いのです。他人のことは置いておいて、自分を観察し、「今の自分はまだ十分ではない。自分は今よりもっと穏やかで清らかなこころになろう」と思った方がいいと思います。

人格を向上するためには、人の役に立つ生 き方をすることが必要でしょうか。

人間は、個人では、何の力もありません。個人主義で生きていると、大したことはできないし、かなりストレスがかかります。かなり惨めになります。いろいろな批判もされます。

自分を捨てて活動している人は、苦しくありません。楽しく生きられるし、成功もできます。だから仏教では、個人主義をやめて、人の役に立つ生き方をすることを奨めます。会社も社員に「自分を捨てて働け」と言うかもしれませんが、それはただの個人主義で、単に「俺が儲かるために献身的になれ」というだけの利己的な思考にすぎません。

仏教で奨めるのは、「私がやっていることは人の役に立っている。皆の役に立てばいいんじゃないか」という、「私」を後回しにする生き方です。そうやって生きると並ならぬ力が出てきます。仕事もとてもうまくいきます。決して惨めにはなりません。「自分の能力が人の役に立って良かった」という気持ちでがんばると、全く疲れないし、たやすく成功できます。

個人主義ではない生き方をしようと決めた人は、「これは人の役に立っているんだ」ということを、ずっと自分に言い聞かせた方がいいのです。やる気がなくなったら、その瞬間に言い聞かせるのです。こころはしょっちゅう変わります。すぐわがままになってしまうのです。30分間仕事をしたら、20秒単位でわがままになるかもしれません。それは別にかまいません。わがままになるたびに、「人の役に立っているんだから」と気持ちを立て直し、また元気になればいいのです。

そうすると、その生き方自体が善行為になります。わがままを抑えて欲や怒りを抑えようとがんばることが、善行為なのです。善行為には良い結果が必ずついてきます。その結果は自分のものになります。ですから「自分のためではない」と仕事をする人は、「自分のため」を獲得するのです。「俺のため」とやっている人は、何も得られません。

現代社会では、皆、「自分のため」という生き方をしているから、生きるのは苦しくて大変だと思います。私は色々実験してみるのですが、ほんのちょっとのことでも自分のためだけにやると、すごく気持ちが悪いのです。たまに実験しただけでもあれほど嫌な気持ちになるのに、一生自分のためだけに生きている人はどれくらい苦労しているのか、想像もできない程です。ずっと苦しんでいるから気づかないかもしれませんが、ちょっとだけでも「人のために」と生きてみると、いかに楽で楽しいかわかります。その上に、いかに自分に能力があるのかということもわかるのです。

では我々が、嫌いなもの、苦しいものを、「価値がない」と思っているかというと、まったく逆です。「イヤなものだ、苦しいものだ」と思ったとたん、かなりの価値を入れてます。本当に「価値などない」と思ったら、イヤだとも苦しいとも思わないはずなのです。そこをごまかすと、自分のこころの弱みに気づくことさえできないという、とんでもないことになります。我々は嫌いなものに対して「憎むべき、避けるべき、潰すべき、攻撃するべき」と、すごいエネルギーを出してがんばるでしょう? 自分が、嫌いな人、憎んでいる人から本当に離れているどころか、ぴったりとついているんです。イヤなことは、すごくしつこくこころで持ち運ぶのです。決して忘れません。好きなものを忘れられないこととまるっきり同じです。ただ、味の差だけです。納豆とソフトクリームは味が違いますが、どちらも食べ物であることには変わりがないでしょう。そんなものです。

だから、好きなもの、楽しい経験も、嫌いなもの、苦しい経験も、自分がこころで大事に護っています。それをブッダが「無知」とおっしゃっています。自分を苦しめるもの、自分を奴隷にするもの、自分のこころの能力をドンドンなくして全く機能しないところまで小さくするものにそんなにも価値を入れているならば、「無知」と言うしかないのです。

「人のために役に立つ」ということは、よく考えると難しいように思います。人の役に立つつもりで、かえって間違ったことをしてしまうこともあると思うのですが、そこはどうしたらいいでしょうか。

「人の役に立つ」ということを、あまり大きく考えてはいけません。私は大げさなことを言っているわけではないんです。いつでも自分の周りにあること、簡単にできることをやればいいのです。どんなことでも、相手のことを考えてやることはできます。

例えば植木鉢で花を育てることでも、花もそこで一生懸命に生きてるのだから、「どうですか、水でも必要でしょうか、寒くないですか」と、相手を思って世話をする。そうすると、花を育てるだけで、喜びが出てきます。あるいは、電車に乗っていても、人に迷惑をかけないように、なるべく小さく座って余分に場所は取らないようにする。そんなことは普通なことで、えらいことを考えてやっているわけではないですが、その瞬間でも、どこかで喜びがあるのです。手を洗う時でも、適切な量だけ水を使って、洗い終わったらさっと栓を締めておく。そういうふうに、やることやること、考え方をちょっと変えて、自分主義を控えて行動する。それだけなんです。ちょっとしたことなのだから、例はいくらでも、無数にあります。

「こんなことで実際にどこまで世間の役に立っているのだろうか」などと考える必要はありません。そんなのはよけいな妄想です。それよりも、自分がすごく穏やかな気持ちで生きていられることこそが大切です。歯を磨いても、「自分は必要な適切な水の量しか使ってないぞ」といい気分でいる。その「いい気分」でいる喜びを忘れないようにするのです。

なぜ、1時間でも、1分でも、苦しくてイヤな気持ちでいる必要があるのでしょうか。その時間がもったいないでしょう? 寿命というのは短いのです。しかも、じりじりと減っているのです。だからどんな一秒も貴重なのです。苦しんでイヤな気分でいる時に死んだら、地獄に落ちてしまうかもしれません。いつも穏やかな気持ちでいたならば、いつ死んでも安全です。

楽しく生きるのは簡単です。どんなことでも、ほんの少々の気持ちの持ち方で、有意義に生きられるのです。

落ち込んでいる人が身近にいて何かしてあげたいと思う時、どういうことをしてあげればいいでしょうか。

ではこちらからちょっとした質問を出します。相手が泣いている時、どれを選びますか?

(1) 自分もいっしょに泣いてあげる。
(2) 「そうでしょう、悲しいでしょう」などと、泣くのを応援する。
(3) 「バカ者、いい加減にしろ、泣いたらただじゃすまんぞ」など、泣くことに反対する。
(4) 私は微笑んで、相手の微笑みを期待する。

人は、感情的なアプローチとして、この中のどれかを選んでいるのです。よく日本の社会で見えるのは、(1) の「自分も泣いてあげる」という選択ですね。多くの人は、それこそが優しさで、美しい、すばらしいことだと思っています。 (2) の泣くのを応援することもよく見かけます。

本当は、(1) も、(2) も、問題を悪化させることはあっても、解決することはできません。(3) の説教型もけっこう多いのですが、相手はもう泣いているのだから、怒っても仕方がないのです。

(4) だけは世間ではなかなか見かけられませんが、ブッダの推薦は (4) なのです。「私は微笑んで、相手の微笑みを期待する」―― 相手の悪い影響を受けず、逆の良い影響を与えてあげるという生き方です。

泣いている場合を例に挙げましたが、これは、人が怒り憎しみで苦しんでいる時、何かがうまく行かなくて落ち込んでいる時などでも同じことです。例えば人が怒っている場合、 (1) 「私も怒るぞ」と一緒に怒る。 (2) 「その通り、その通り、誰でも怒るよ」と応援する。 (3) 「バカ者、なぜ怒るんだ。怒りはダメじゃないか」と攻撃する。 (4) 「まあ怒るのはわかるけれど、私ならそのくらいでは怒らない。怒っても何もいいことはないし、苦しいだけだよ。何とかして笑いましょう」と相手に巻き込まれない。その四とおりの態度がありますね。この場合も、正解は (4) です。

この「相手の悪影響を受けずに落ち着いている」という態度は、色んなことに当てはまるのです。例えば人がウソをついているとします。では私もウソをつく?  あるいはもっとウソをつきなさいと応援する? あるいは「なぜウソなんかつくんだ」と相手を攻撃する? そのどれも正しいとは言えません。だから (4) を選ぶのです。「人はウソをついている。だからこそ 私はウソをつかないぞと自分を戒める」というのが、道徳的な生き方なのです。

たいがいの人は皆、不道徳的な生き方をしています。だからこそ私は道徳的に生きるように、「努む、励む、戒める、努力する、挑戦する、試してみる」――― これは「戒め」(sallekha-sutta、中部経典8)という経典に出ている単語を適当に並べました。この経典には仏教徒の歩むべき道が、しっかりとまとめられています。善行為は、励まないとできません。挑戦しないとできません。何とかやってみようとがんばらないと無理なのです。

ブッダの道は勇気が必要です。「皆がやるから」という弱気な態度でいては、仏道を歩くことはできません。お釈迦さまは、善いことをする時は態度を大きくしなさい、弱気では何もできません、とおっしゃっているのです。

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