あなたとの対話(Q&A)

宗教儀式のこと セックスのこと

世の中にはさまざまな宗教儀式がありますが、たとえば護摩を焚いたり音を出したりする儀式などでは、何かふわっとしたような非日常的な感覚を感じることがあります。これらをどのように考えればよいでしょうか。

全般に宗教儀式のいいところといえば、人間が普段とらわれている世俗的な事柄、たとえば食べて楽しむ、歌って楽しむ、踊って楽しむ、人と話して楽しむといった世俗的な生き方から心を離してみるという意義があります。また、儀式儀礼を遂行する中で、多くの人々が関わってさまざまに準備し、それぞれが役割を持って仲良く進めたりしますね。神社などのお祭りでも、みんなでお金を出し合って、何日も神輿をかつぐ訓練をして参加する。これらは経済活動ではありませんし、普段のように何らかのお金の見返りを期待して行う活動ではありませんから、人間にとっては何かいい結果があるものです。そのような点では、悪くない儀式儀礼もあります。

だからといって、すべての宗教儀式がいいといってしまうのは大変危険です。宗教的な儀式、儀礼は十把一絡げに考えるのではなく、ひとつひとつ別々に考えていかなければなりません。宗教儀式・儀礼には、ほとんど無意味なもの、また逆に社会に害を及ぼすものもたくさんあるからです。

たとえば滝行というのは、ちょっと不自然だといえます。というのも、元気な人には悪くないのですが、歳をとっている人、体に病気のある人、また心臓に病気のある人などが滝行などやってしまうとどうなるでしょう。大変なことです。

さらに、世の中にあってはならない儀式儀礼もあるのです。お釈迦様はそれらをきちんと区別して、批判するものは厳しく批判されました。たとえばインドでは、動物の生け贄を神様に差し上げる盛大な儀式があります。また、カーストを作って人間を差別する。このようなことについては、お釈迦様はものすごく反対されました。どうして人間の間に差別をもうけるのかと厳しく批判されました。人間であれば、生まれたときの行動も同じだし、女性の月のものも皆同じ、陣痛も同じ、全部同じなのになぜ差別をするのかと。また、男女差別も否定されました。

フィリピンでは、イエスが受難した記念に、人々が石などで自分の胸を殴って血だらけになるような儀式があります。そうすることで自分もイエスと同じように受難するのだというのです。また十字架に釘身体を打ちつけることもします。

ヒンドゥー教でも体中に針をさして糸をつなげ、何時間もいるような祭りがあります。それで、終わったとき何ともない、痛みも感じないというので「神の力」といったりする。これらはものすごくばかばかしいくだらない儀式といえるでしょう。

また、占いに頼りすぎるのもよくありません。遊びではよいのですが、占いなどというものは何の根拠もないのです。結局は自分が、自分の力でやり遂げるしかないのです。東南アジアの国々では占い専門の新聞があるほど占いが盛んですが、遊びを越えて人々が頼り、占いが社会を支配しているような状況は、社会的には邪魔な存在といえるでしょう。

ですから、ひととき世俗的な生き方から離れて違う世界を味わうという意味で、儀式儀礼は悪いことではないが、その手法はやはり良いものを選ばなければならないのです。たとえば人助けの働き、ボランティアなどでもこの「世俗的な生き方」から離れた世界を味わえるのです。また仏教では、ふつうの人々には、芸術も否定していません。音楽や絵画をやることもかまわないのです。

その流れで考えますと、セックスはどうなのでしょうか。仏教ではどのように考えているのでしょうか。

在家の人々のセックスについて、仏教では特に何もいっていません。よこしまな行為はするなといっているだけです。仏教で性行為をどう見ているかといえば、子孫を作る行為なのです。愉しむための行為ではないのです。性行為が楽しみであるのは、DNAの働きです。子孫を作り育てるというのは大変な苦労なのです。ですから何の楽しみもないと、作らないおそれがありますね。それでちょっとした「あめ玉」を与えたわけです。しかし、もらうあめ玉よりは、その後すべき仕事の方が何十倍も大きいのです。夫婦が一生仲良くして、子供が独立するまでがんばるということは大変なことなのです。そこまで親には責任があります。そんなわけで、仏教ではフリーセックスは禁じられています。法的にきちんとした自分の相手でなければ性行為はしてはいけないことになっています。そこで夫婦が仲良くして、子供をちゃんと育てることは、仏教では一つの善行為だといっています。

ですが、仏教は一夫一婦制でなければならないとはいっていません。その国の法律で、旦那一人で奥さんを3人もらえることになっているならそれでよい。
また別の国で、女性一人に旦那が3人いてもいい法律になっているならそれでよい。それから、結婚を神の前で約束する宗教もありますが、結婚は宗教的な行為ではないのです。
不思議なことに神の前で約束する国に限って離婚が多いのです。私たちの国では離婚はほとんどありません。ずいぶん昔ですが、あるヨーロッパ人が、スリランカの結婚事情を書いたことがありました。この国には結婚式もなく、相手を気に入ったらとにかく家を作っていっしょに暮らす。親も何もいわない。それでもし旦那さんが家の面倒をちゃんとみなければ、奥さんは腹を立ててすぐ実家に帰ってしまう、子供を連れて帰ってしまうと書いたのです。結婚もないのだから離婚もありませんね。農業社会なわけですから、男性にとっては、奥さんの労働力がなければ大変なのです。奥さんに逃げられてしまったら何もできないから、とにかくがんばるのです。ですから、お互いの苦しみも楽しみも理解し合ってうまくいくのです。

ただし瞑想中は、セクシュアルなことは邪魔になるんですね。瞑想とはものにとらわれない別世界を作るものであり、セックスというのはものすごく相手にとらわれる行為です。そのときには徹底的に外の世界に支配されてしまうのです。ですから出家者には男女関係は禁じられています。

ものにとらわれない自分の心を守るために、行動としての、男女関係が禁じられているということですか。

そうですが、行動として男女関係を持たないことはそれほど難しいことではありません。大事なのは行動よりも心の状態です。相手と関係を持たなくても、欲のあるまま戒律を一生懸命守ろうとするあまり、女性の姿が目に入っただけでもかえって心が汚れ、どんどんコントロールできなくなって精神的な病気になってしまう恐れもあるのです。だいたいやるなといったら余計やりたくなってしまうのが「心」というものです。

そのように当然起こってくるであろう精神的な問題も、仏教では計算済みです。たとえば男性の出家者が女性の信者に説法を頼まれても、密室では決して話してはならない、もう一人、大人の男性がいなければならないといったさまざまな戒律が厳しく定められています。女性に触れたら毒蛇に触れたように感じなさい、女性の声を心地よいと聞くのではなく災いの元だと思って聞きなさいなどの話もあります。一瞬ぎょっとするようなこれらの教えも女性を馬鹿する観点で作られたきまりではなくすべて、心を守り、修行の成功を目指すためなのです。女性の出家者についても、性に関しては男性の出家者と同じように厳しい戒律が定められています。

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