あなたとの対話(Q&A)

ガマンはやめて忍耐しよう

パティパダー2007年7月号(119)

仏教で「忍耐」という言葉は、どういうことを言っているのでしょうか。我々は「ガマン」ということは知っています。知っているだけじゃなくて、いろんな場面で実際にガマンをしています。忍耐というのは、ガマンすることでしょうか?

皆さまがたはガマンは経験しているが、「忍耐」という言葉を聞くと、尻込みしたくなるのではないかと思います。宗教用語だから修行の一部に違いないと思われるかもしれません。ガマンと忍耐が同じ意味であるならば問題はありませんね。しかし、同じ意味ではありません。似ているようで、似てないのです。
 
 言葉の定義として、「正しいガマン」と「正しくないガマン」と二つに分けたところで、「正しいガマン」を「忍耐」と言うことにしておきましょう。なぜかというと、ここで「ガマンはしなくてもよい。しかし忍耐はしなくてはいけない」と言っておきたいのです。
 
 我慢という漢字から見ると、ガマンは「わがまま」という意味ではないでしょうか。ご存じのように、わがままはいけないことだから、ガマンは「してはいけないこと」になるのです。今はその意味ではなく、やりたくないにも関わらず何かをやる場合の気持ちを表現する言葉になっていますね。
 
「やりたくはない。しかしやらなくてはいけない」と思う場合に、ガマンしてやる。そこには怒りが絡んでいるのです。しかも、これはふつうの怒りと少々違って、たちの悪い怒りなのです。それを覚えておきましょう。
 
 怒りのせいで簡単に仕事をしてしまうケースは、いくらでもあります。たとえば、子供たちが、競技で勝ちそうな友達に対抗心を燃やして「コイツには負けたくない」と力を出し切って勝ってしまう。その場合の衝動は怒りです。会社でも、同じように怒りを燃やすことで仕事するケースは常にあります。対抗心で怒りで仕事をする人は、「自分はガマンしている」という気がまったくないのです。ガマンしてないのです。やりたくて堪らなかったのです。
 
 たちの悪い怒りは、その仕事がやりたくないのにどうしようもなくやらざるを得ない場合に出るのです。実際にやっている仕事に対して怒っているので、投げやりになったり、手抜きになったり、失敗したりする可能性が大いにあります。うまくいったとしても、精神的に疲労が溜まります。対抗心(怒り)で仕事をすることさえも悪いのに、ガマンの怒りはさらに輪をかけて悪いのです。
 
 欲も、よく同じはたらきをするのです。勝ちたくて競技に出る。儲かりたくて仕事をする。試験に合格したくて勉強する。もてたくてお洒落をする。これは欲の単純なはたらきです。「ガマンして受験勉強さえすれば合格できるでしょう」「歯を食いしばってこの仕事をこなしちゃえばボロ儲けできるぞ」というのは、欲につられたガマンです。この欲は、たちが悪いのです。何をしでかすか、わからなくなるのです。目的のために手段を選ばず、何でもやってしまうのです。
 
 無知でガマンする場合もあります。理解はできないが、必死で闇雲にテキストを暗記する。仕事の内容と流れを理解していなくても、とにかく言われたとおりに何とかやってみる。お茶を飲むことも隣の人に冗談を言うこともなく、トイレもギリギリまでガマンして仕事を続ける。これも立派なガマンです。パターンを作って、そのパターンの通りに、何も考えず、何の楽しみも充実感も感じず、「終わり」と言われるまでやるようなケースです。
 
 それら貪瞋痴の「ガマン」はとても善くないものです。ガマンをして何かをやり遂げても、結果として充実感、喜びは感じないのです。かえって精神状態がどんどん悪くなるだけです。
 
 では、忍耐とは何でしょうか? 忍耐に貪瞋痴は関係ないのです。忍耐は理性のある人がするものです。この世で何一つも水が流れるようにスムーズに起こるはずがないのです。何かをするということは、何か障害になるものを乗り越えることでもあります。単純な例で考えましょう。料理を作る。材料は自動的に料理になってはくれません。乗り越えなくてはならない障害、問題がたくさんあります。それらをひとつひとつ乗り越える、そのこと自体が料理を作ることなのです。そのように、障害に、問題に、立ち向かうことが忍耐なのです。田植えに行ったら、田んぼに陽が強烈に当たって暑かったとする。暑いから部屋でクーラーをつけてテレビを見るぞというのは、話にならないのです。その日は田植えをしなくてはいけないのです。ですから、暑い陽射しを気にしない。それを「陽の暑さを忍耐した」というのです。勉強をはじめると眠くなる。スポーツの練習をするとへとへとに疲れる。会社に行くために朝早く起きることになるし、電車は乗れないほど満員になっている。などなど、何をしようとしても、トラブルがついてくるものです。
 
 仕事には、当然ある障害と予測できなかった障害という二つがあるのです。それら二つを乗り越えることこそが仕事であると理性に基づいて思い、文句を言うことも弱音を吐くことも言い訳をすることもなく自分の仕事をこなして成功を収める。それが忍耐なのです。
 
 ですから、病気になった人は、その苦しみをガマンしてはならない。その人は、その苦しみを忍耐するのです。ガマンする人は罪を犯す。不幸になる。忍耐する人は善行為をしている。人格を向上させている。幸福になる。
 
 よく言われることがあります。優しい人々になら「幸福でありますように」と慈しみの実践をできるが、悪人に対してはどうしても「幸福でありますように」と言えない、と。そこに明確に忍耐のはたらきが見えてきます。善い人・親しい人に対して「幸福でいてほしい」と願うことは当然で、誰でもやっていることです。極悪人でさえ、親しい同士なら互いに幸福であってほしいと思うのです。それは修行ということにはなりません。敵に対してでも、親しい人と同様に、何のわだかまりも感じず、「幸福でありますように」と言えるならば、それが本物の慈しみです。忍耐がない人は、嫌いな人に対してわだかまりを感じる。忍耐がある人は、このわだかまりが慈悲の実践を邪魔する障害であると知って、それを乗り越えるのです。
 
 決して忍耐してはいけないケースもあります。悪行為をしたくなった時です。悪行為であっても、様々な障害を乗り越えないとできるものではないのです。悪への障害を忍耐すると罪を犯してしまいます。
 
 一切の善行為は、忍耐なしには成り立たないのです。

仏教では、悪いことをするな、善いことをしろとおっしゃってます。貪・瞋・痴が悪いことだとすると、「怒らない」ということは、そのままで善行為だということになりますか?

「怒らないこと」だけではない。貪らないことも、無知でいないことも、そのまま善行為です。怒らない、貪らないと聞くと誤解が生まれます。貪らず、怒らず、ボーっとしていても善行為でしょうか、と。ボーっとしているのは無知の感情なのです。だから善行為になりません。
 
 生命は基本的に貪瞋痴の衝動で生きています。生きている場合は、皆、オートモードで貪瞋痴で生きているのです。それが我々にとって「自然」に感じる状態です。
 
「自然」に不貪不瞋不痴にはならないのです。貪りがない時、怒りがない時、痴がない時、ふつうと違う力を感じるのです。不貪不瞋不痴になるためには、自然に流れる貪瞋痴の感情を切らなくてはならないのです。善行為になるのは、その切る力なのです。
 
 たとえ話でいうと、ある人が、泥の沼の上で丸太をつなげて、その上にいるとします。その人の動きに合わせて下の泥が上にあがるので、けっこう汚れます。きれい好きなその人は、下の泥が上にあがらないようにと色々工夫します。泥の沼は悟りを開いてない人の煩悩(貪瞋痴)のたとえで、丸太は生きる努力のたとえです。気をつけないと、泥にまみれて終わるどころではなく、泥の沼に落ちる可能性もあります。これがふつうの人間の生き方です。きれい好きな人は、泥に汚れないように工夫します。自分の努力で貪瞋痴に汚れないようにしていると、泥の沼に落ちる恐れはほとんどないかもしれません。しかしその人は、泥が上にあがらないように色々と努力し続けなくてはいけないのです。ですから、貪瞋痴が生まれないようにすること、不貪不瞋不痴であること自体が、善行為になるのです。
 
 要するに、怒らないことは善行為です。しかし、怒らないということは、「何もしない」という無為無策ではありません。

そうすると、くどいようですが、「悪いことをするな、善いことをせよ、こころをきれいにせよ」というブッダの教えがありますが、善行為をしたいと思うと泥の沼の上で限りなく注意して慎重の上にも慎重にして生活することになるわけですね。それはちょっとできそうもない気がします。実効性に欠けている言葉ではないかと思ってしまいます。

ブッダの智慧で、すべての教えを完全に集約して語られているのだから、理解するのはとても簡単です。しかし実践しようとすると、たいへん難しいと感じるものです。人生は失敗だらけですから、善いことをしようとしても、失敗の連続になります。
 
「そんなものだ」と言い訳してしまうと、人間は一向に解脱に達しないのです。幸福になれないのです。そこでお釈迦様が、やりやすいコツをひとつ教えているのです。「たった一つだけ護りなさい」と。そのたった一つとは「こころ」です。こころだけ貪瞋痴で汚れないようにする。それで、すべての行為はおのずと善行為になるのです。やがてこころから貪瞋痴が落ちてしまうので、解脱にも達するのです。