あなたとの対話(Q&A)

友達の作り方、ろくな友達がいない、人間関係のコツ、本音をしゃべっていいの?

パティパダー2008年5月号(129)

・友達の作り方
・ろくな友達がいない
・人間関係のコツ
・本音をしゃべっていいの?

どうすれば友達ができますか?

友達といっても人間関係ですよ。自分から何か与えるものがあって、他人から貰いたいものがあるのです。友達が欲しいということは、「他人から貰いたいもの」があるのです。品物という訳ではありません。得たいものがあるのならば、自分でも何か与えるものがないと関係は成り立たない。だから友達をつくるということは、自分も与える何かを持っているということです。

 例を挙げれば限りなくありますよ。たとえば自分がすごく美しい女性で、あるいは美男でいると、相手の人々はこの美しさを求めるでしょう。見ていて楽しいのだから。どうせ美男美女はもてる。自分には与えるものがあるからです。この美しさで人に喜びを与える。別に、美しさを貸してあげて、自分が不細工になるということはないからね。自分の美しさを見てみんな喜ぶのだから、自分が喜びを与えているのです。
 
 また、すごく口が達者で、次から次へと冗談を滝のように流す人々がいるでしょう。みんなそれを聞いて楽しいのです。それも強いて言えば、他人に喜びを与えているのです。それで友達ができてしまうのですね。
 
 問題は、それほど美男美女でもないし、口下手だという人はどうすべきか、ということです。しかし、先に挙げたのは単なる例です。自分の持っているものを与えればいいのですよ。これから美女になってやるぞと頑張っても、無理だからね。生まれつき口下手だったら、苦労して口達者にならなくてもいい。
 
 たとえば、口数が少ない人はただ黙っている。黙っているという性格を与えてあげる。そうすると、友達ができます。だいたい人々はしゃべりたくてたまらない。でも聞く相手がいないのです。とにかくしゃべりたいという人に、無口な人を組み合せたらどうでしょう。本人にはしゃべる能力はないけれど、よく聞く能力を育てているのです。すると、ものすごく親密な友達関係が成り立ちます。
 
 それぞれが持っているものを与えるのです。時々テレビでも、不細工であることを売って有名になる人がいますよ。その人々がタレントとして契約する場合は、明らかに不細工さを買われているのです。デブで性格悪くて、みんなに嫌がられて、という役を見事にこなしている。それで有名になって、金持ちにもなって幸せでしょうに。
 
 だから友達をつくるということは、それほど難しくありません。お釈迦さまは、「与えることで友達が成り立ちますよ」と、はっきり教えています。ある経典の中で、ある神霊がお釈迦さまに「友達はどうすればつくれますか(kathaṃ mittāni ganthati?)」という質問を出した。お釈迦さまは、「与える者が友達をつくります(dadaṃ mittāni ganthati)」と、たった一行で答えたのです。それが友達をつくるための絶対的な答えなのです。

周りを見渡すと、ろくな友達がいないのです。よい友達の作り方を教えて下さい。

友達をつくる能力がある人ならば、答えてあげたいのです。「友達をつくる能力がいくらでもあって、友達は出来るのだけど、それがろくな人間ではない」というならばね。友達というのは、自分が何か貰いたいからつくるものでしょう。だから、友達を選ぶことは大切な仕事ですよ。友達から何か貰いたくて、友達になっている。そのために、自分が持っている何かを与えているはずなのです。
 
 しかし、薬が欲しいときに毒をくれるような友達は迷惑です。そう言うと、モノのやりとりのように聞こえるかもしれません。しかし、友達というのは「仲が良い」という心のやりとりなのです。モノのやりとりだったら、コンビニのお姉さんも友達ですよ。そうでなくて、友達関係では心をやりとりする。だから、悪い性格を与えてくれるならば、そういう友達は避けた方が無難です。
 
 よい友達をつくる秘訣があります。自分が相手に何を与えているのかと見てみて下さい。自分が悪いことを与えているならば、買うのは悪人ですよ。自分が強盗のやり方を教えるならば、その仲間は盗人になるでしょう。同じように無駄話しかしゃべらないならば、人を悪に導く話しかしないならば、関係が成り立つ友達は決まっています。猥談とか、あるいは麻薬を隠れて服用する方法や密輸する方法を教えるならば、そういうことに興味のある連中しか寄って来ないのです。
 
 自分の友達に出来る人は、自分の与えるものによって決まっています。よい友達が欲しければ、自分が清らかな心でいることです。無駄なことをせず、知識があって、理性的であること。それに優しさ、明るさという性格を持って、その性格を他に与える。その性格を受け取ってくれるのは、よい友達です。慈悲を実践すれば、いくらでもよい友達があらわれると思います。

人間関係を円滑にするコツはありますか?

一言で答えるならば、相手の気持ちを損なわないように生きてみれば如何でしょうか。相手が誰であろうとも、気持ちを損なわないように生きてみるのです。あるいは「あの人に会って楽しかった」という気分を常につくる。自分が関係を持っている人々と会っている時間は、そんなに長くはないのです。たとえ夫婦にしても、一緒にいる時間は短いでしょう。だから誰であれ、我々はほんの短い時間しか直接関係を持ってないのです。その短い時間、相手に不幸せな気持ちをさせないで、ちょっとニコッとさせてあげよう。そういう態度でいれば、自分はずうっと一日中、二十四時間、ニコニコしていることになるのです。だから自分にとってもすごく気分がいいし、ストレスがたまらないのです。なかなか乗ってこない人と付き合う場合でも、「もっと面白いギャグを言わなくちゃ」という工夫をすることになるから、自分の能力をアップできます。
 
 もうひとつ大事なことがあります。たとえ夫婦であっても、兄弟であっても、別々な人間であることを忘れてはならない。自分の子供さえも別な人間です。人間関係というものは、明らかに家族よりも離れた個人同士の関係です。個人には個人としての尊厳があります。プライバシーというものもあります。我々は相手が誰であっても個人としての尊厳を厳密に守らなくてはならないのです。人のプライバシーを尊重しなくちゃいけないのです。自分の子供が小さい時は、子供には何のプライバシーもないのです。しかし、ものごとが解るようになってくると、本人にそれなりの自由を与えている、という気持ちを伝えなくてはならないのです。人間関係を円滑にするためには、「尊厳を守る」ということは不可欠なのです。

本音ではこうだろうということでも、人から軽蔑されたくないから、口に出せないことってありますよね。人間というのは、なるべく本音を出して生きた方がいいと言われるのですが、実際は、本音を言っちゃうと、また人から軽蔑されてしまう。だから、言わないというのが普通の人の生き方になっています。仏教的には、本音をズケズケしゃべるのはよくないのでしょうか?

そもそも、本音とは何でしょうか。逆に私が訊いてみたいのです。自分の使う言葉に気を付けて、「本音って何なのか」と確認したほうがいいと思いますよ。本音とは、「本当の自分の気持ち」ということでしょう。それが恥とか、そんな一概に決められますか。
 
「本当の自分の気持ち」には二種類あります。ひとつは感情で思ったこと。もうひとつはちゃんと論理的に考えて出てきた答えです。ただ「本音」と言うのではなく、物事はちゃんと明確にしなくければいけないのです。
 
 そこで、その本音が「感情の本音」であるならば、これは絶対しゃべるべきじゃない。なぜならば、感情というのは欲と怒りと無知ですからね。だいたい感情が本音になったとき、人間は絶対言ってはいけないことをズケズケしゃべっているのです。たとえば、怒りが出てくると嫌味を言ったり、他人を貶したりと、いろんな汚いことをする。それが感情の本音なのです。欲が出てきたら、目をまん丸くして、口を開けて、もうズケズケしゃべっている。すごく恥をかいているのにそのときは全然遠慮しない。
 
 だから感情というのは恥ずかしいもので、自分で抑えなくてはいけない。でなければ悪いことをする羽目になる。誰かを好きになっても、付き合いたいと思って相手に自分の欲をむき出しにしたら、もう逃げられますよ。結局は自分の目的にも達しない。怒って人を罵って押さえ込もうとしたところで、かえって相手に強烈な怒りを植え付けて、手強い相手にしてしまうだけなのです。それも結果的には負けですよ。だから感情の本音はコントロールして抑えた方がいい。絶対に言ってはいけないのです。
 
 しかし一方で、論理的にいろんなものを観察、考察したことによって、自分に「自分の意見」というものが出てくる。それは人に言うべきです。もしかすると、他人の意見と比べたところで却下になるかもしれません。自分に考えられないデータを相手が考えていたのだから。それも自分の勉強にもなる。論理的に考えた本音を言って批判されたら、その批判もしっかり吟味して理解する。そうやって立派な人間になれるのです。
 
 しかし世の中では「自分が考えたこと・本音は全然言わないほうがいい」という立場なのです。そのような決まりをつけてしまうと、人間関係はあくまでも形式的な社交辞令になってしまって、とてもつまらないのです。さみしいのです。やはり思ったことを、感じたことを、素直にしゃべる相手がいたほうが楽しいのです。でも、そこで問題があります。私たちの心の中を人に知られたら、たまったものではないのです。なぜでしょうか?

 心の中ではろくなことを考えていないからです。心の中は妄想したい放題なのです。本音をしゃべりだしたら、いっぱいに溜まった「おまる」の蓋を開けたようなことになります。ではどうしましょう。清らかな有意義な理性的な思考でいるように、精進することです。妄想は悪行為です。よい思考は善行為になります。こころの中身は、誰が調べても驚くほど美しいものであるならば、本音をベラベラ喋られるのでしょう。人としゃべる時は、ストレスはまったく感じないのです。そのうえ、自分も善行為をする立派な人間になっているのです。これが、自分に対しても、他人に対しても、よいことなのです。