あなたとの対話(Q&A)

愚痴話の転換術、苦手な人とのつき合い方、仲間との距離感、無神論だけどオバケは怖い。占いは信じる、裁判員制度について

パティパダー2009年1月号(137)

・愚痴話の転換術
・苦手な人とのつき合い方
・仲間との距離感
・無神論だけどオバケは怖い。占いは信じる
・裁判員制度について

他人の長い愚痴話を聞かされることが多いのです。相手の気分を害することなく、話を意味あるものにすることが出来るでしょうか?

内容にもよりますが、意味のある話に変えることは出来ます。一つのヒントですけど、いつでも「それでどうなるの」とずうっと訊いてみたらいかがでしょうか。「それでどうなるの? それであなたはどうしたいの」という具合に、話に有効性が出てくるように、ずっと相づちを打ってみる。それで話は短くなると思います。それならば、相手が怒り出すということはないでしょう。だいたい常識的な人だったら、そういう愚痴話を言ってきた場合も、質問を出すことで上手く相手の頭を整理してあげることはできます。精神的におかしい人の場合は全然効き目がないですけどね。

学校のクラスや会社の同僚など、どうしてもつき合わなければならない人の中にも、主義主張が全く合わない人、センスが合わない人、性格的に折り合いが悪い人が必ずいます。そういう「苦手な人」とどうつき合うべきですか?

つき合わない方がいいのではないですか。「どうしてもつき合わなくてはいけない」というのは、本人の妄想でしょ? これは「誰とでもつき合わなければいけない」という余計な妄想から出てくる問題です。つき合うことの出来ない人とは、苦労してまでつき合う必要はないのです。
 
 会社にしても、学校にしても、我々はすべての人々とつき合っているわけではないのです。人間には、何人とつきあえるかという容量があります。それは能力的なことだから、どうにもならないですよ。「二人だったらつき合えるけど、四人は無理ですよ。疲れてエネルギーが切れてしまう」とかね。そういうポテンシャルみたいなものが各人にあるのです。
 
 たとえば政治家の方々など、何百人とも平気でつき合えるでしょう。名前もほとんど覚えているし、あの能力は奇跡としか言いようがない。かといって我々凡人たちには十人の名前もろくに覚えられないのですから、あくまで個々の容量とポテンシャルの問題です。
 
 ですから、自分の容量も超えてつき合う必要はない。会社にしても、学校にしても、仲良くコソコソとつき合う場合は、もう人数が決まっています。他の人々とはそれなりに接点を持つだけ。電車に乗っているようなもので、用事があったらしゃべるけど、そうでなかったら黙っている。掃除のときに、「あんた雑巾かける? だったら私は上の黒板をきれいにするわ」というぐらいの、一般的なつき合い方で充分だと思います。とりわけて仲良く、個人的につき合う場合には、容量の問題があります。これはもう、どうにもならない。「とにかく、たくさんの人々とつき合わなければいけない」ということはあり得ないし、自己破壊になります。人間として成功したければ、自分の容量、ポテンシャルに合う範囲の人々とつき合えばいいのです。だから答えは、「そんなに強迫観念がなくてもいい」ということ。

つるんでいる仲間から嫌われたくないし、仲間はずれになりたくないと思っている。でも最近、仲間の付き合いが煩わしい。仲間との距離の取り方を教えてください。

どちらかにするしかないですね。つるんでいる仲間ならば、完全に嫌われるということはないですよ。お互いの性格を認めて、仲間になっているのだから。お互いに文句を言い合ったり、「つき合いが悪いぞ」とか言われたりするのは当たり前です。そういうことを認めた上での仲間でしょうに。
 
 そんな中でも距離感というか、自分の世界を持ちたいという気持ちは、誰にでもあるものです。もし自分の世界がまったくないのであれば、結構ヤバイです。自分の世界、自分のアイデンティティがなくなったら、もう人間ではない。仲間といるときだけアイデンティティが出てきて、仲間を離れると何もできなくなるという状態はものすごく危険なのです。何をしでかすか分からない生き物の集団になってしまいます。だから、なかなか折り合わなくても、いろんな問題があっても続いている仲間こそが、いちばん健康的な仲間だと言えるのです。つるんでいる仲間からしばしば嫌われたり批判されたりするのは、いい関係の証拠ですよ。

死んだらそれでおしまい、生きている間に好きなことをしなければ、と思っています。でも幽霊は怖いです。星座占いや血液型や風水、本気で信じていないはずなのに、頭に情報を入れると、なんとなく気になってしまいます。これって、どういう心理ですか?

これは曖昧ということです。その人はただ自分の感情で、優柔不断に曖昧なままで生きているということであって、しっかりしないのです。「死んだらそれでおしまい」とちゃんと分かって言っているわけでもない。単なるいい加減な感想でしょう。しっかりしている人ならば、「まだ死んでいないから、死んだ後は分かりません。死んでから、あなたに教えてあげるよ」とでも言えばいい。死んだらオシマイだと思っているのに、「幽霊は怖い」というのは、やっぱり矛盾していると思います。風水やら何やら、あやふやな情報に惑わされて気になってしまうというのも、性格の問題です。優柔不断ということです。

 死んだらオシマイと思いつつも幽霊が怖いと思うのは、結局、「もしかすると死後があるのではないか」という考えも頭のなかであるからです。互い違いの思考、矛盾的な思考をすると、性格はあいまいで、役に立たないことになるのです。人生はあいまいでは済まないのです。会社に行こうか止めようか、電車に乗ろうか止めようか、ご飯食べようか止めようか、などの疑問はふつう生じないでしょう。一分単位で、何をするべきかはっきりしているのです。無意味な矛盾だらけの妄想をする人は、かわいそうに、人生に負けてしまうのです。あいまいな状態は脱して、もっとしっかりした方がいいのです。
 
 それから、占いで将来が分からないことは、はっきりしています。占いの世界で占い師が言っていることは、ただ性格の批評なのです。それなら誰にでも言えます。「もっと明るくしなさい」とか、「あなたのラッキーカラーはピンク色だよ」とか、そんなもの、見たら大体分かりますよ。その人にどんなモノが似合うかということは、性格を見れば分かる。だったら、一〇〇パーセント当たる占い師がいますよ。占ってもらいたければ、自分の母親に訊くのです。子供の性格は見事に知っているのだから、堂々と言ってくれると思います。

 人間というのは、占ってみるとやっぱりいい気分になります。「しっかり頑張りなさいよ、上手くいきますよ」と占い師から励まされると、やる気になります。その現象は人を応援することだから、決して悪くないのです。しかしその場合でも、完璧な占い師は、自分の母親か父親なのです。父と母のどちらでも、仲良くワガママをしゃべれる方でいい。訊いてみれば、あなたのことを完璧に占って、見事に応援してくれるはずです。

一般の市民が刑事裁判に参加して判決の内容を決める裁判員制度が始まりました。私たちはどう考えて、どのように対応すべきでしょうか?

国の法律に逆らうことは、個人にはできません。法律に素直に従うことも、仏教的な生き方の一つです。法律を破ることも、調和を壊して社会に迷惑をかけることになるので、強いて言えば罪なのです。しかし法律とは権力者が造るものだから、決して完璧ではないのです。権力者が国民の繁栄と平和を真剣に考えてつくる法律ならば、従うしかないのです。

 時々、権力者たちが自分の都合で、自分の権力を維持する目的で、自分を応援しない国民を裁く目的でつくる法律もあります。それは正しいとは言えないのです。正しくないと明確に見える法律に対して、反対することは罪とは言えないのです。なぜならば、反対運動をやる人は大勢の人々の繁栄と平和を考えているからです。国家が自分たちの信仰に合わせて法律を定める場合もあります。それは、信仰が違う人々にとってはたいへんな迷惑です。人権侵害です。というわけで、法律ならなんでも従うべき、という立場でもないのです。
 
 正しくない、国民のためにならない、普遍性のない法律が定められたら、当然、反対することが、よい運動になるのです。しかし、人権侵害をする法律であっても、法律とは「個人が定める」ものにはならないのです。ですから、個人が反対しても、その個人が法律を犯したことになるだけです。反対するならば、みなで団結して反対しなくてはいけないのです。多数派が反対するならば、その時点で法律は無効です。
 
 裁判員制度についても、言えることは、以上と同じです。日本の国家が単純にアメリカの真似をしたかったならば、たいした法律ではありません。しかし、人を裁く場合は、事実にもとづいて客観的に正しい判断を行いたいと、法律はまったく知らない人から見ても有罪に決まっていると言えるように、正確な判決を下す目的で作った法律であるならば、反対する意味は見当たりません。
 
 しかし、そもそも人間がやることだから、完璧にうまくいくという保証はないのです。裁判官は感情で、主観で、判断することを抑えたいのですが、裁判員たちが国民の感情に、マスコミの根も葉もないワイドショーの話に、個人的な好みに、左右される危険性もあるのです。ニュースを読む限り、アメリカの裁判ではその手も使うのです。
 
 では仏教的に、判決をします。自分の好み・思考をまったく導入しないで、客観的に裁判で明らかになった証拠だけを参考して、被告人は有罪になるのか、無罪になるのか決めることはあくまでも客観的な判断です。それで量刑が死刑になったとしても、決してある特定の人間を殺す目的で判決を下したことにはならないのです。

 例えばこのように考えましょう。ある人が人を殺す。自分がそれを目撃する。自分の証言で犯人を捕まえることができたとする。その人が死刑になっても、それは自分の罪になりますか? 死刑にする目的で証言すれば、罪になります。証言しないで逃げることも、たくさんの人々に不安を恐怖感を与える行為になるので、それも罪です。「証言を求めた時、事実を語らないでウソを言う人が、卑しい人間である」と釈尊は説かれたのです。
 
 というわけで、召喚状が来たら、行くしかないのです。行ったならば、自分の仕事を完ぺきにこなすしかないのです。