ジャータカ物語

No.119(2009年11月号)

荒馬物語

Sahanu jātaka(No.158) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時、乱暴な二人の比丘について語られたお話です。

そのころ、祇園精舎に一人の、怒りっぽくて、気が荒く、すぐに暴力的に振る舞う比丘がいました。祇園精舎から少し離れた田舎の方の寺にも、同じように気が荒く、粗暴で、ちょっとしたことで人をどやしつける比丘がいました。

ある日、田舎の気の荒い比丘が祇園精舎にやって来ました。彼の性質を知っている沙弥たちや若い比丘たちは、乱暴な者同士が出会ったらどれほど大変なことになるだろうといういたずら心から、田舎から出てきた気の荒い比丘を、祇園精舎の気の荒い比丘のところに連れて行きました。

ところが、二人の乱暴者は、会ったとたんに、にこやかに互いの背中を抱き合って、ひどい喧嘩をするどころか、手や足や背中をさすりあって親しくしていたのです。

比丘たちは、法話堂で、このことについて話をはじめました。「友よ、あの怒りっぽい比丘たち二人は、他の人に対しては、ちょっとしたことで苛立ち、すぐに乱暴な行動を取ろうとする。しかし、乱暴者同士が二人でいるときは、互いに仲良く、機嫌良く、親しみあっていた。」

するとそこにお釈迦さまが来られ、「何を話しているのか」と比丘たちにたずねられました。比丘たちがお応えすると、お釈迦さまは、「比丘らよ、あの二人が怒りっぽい性質であることも、互いに仲良くすることも、今だけのことではない。過去においても、あの二人は、他の者に対しては粗暴で暴力的であった。しかし、二人でいる時は、互いに仲良く親しみあっていたのだ」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。

 

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンとして生まれ、その国の大臣となって、王に仕えていました。菩薩は、世俗のことだけではなく、出世間のことにまでわたって、すべてのことにおける王の師であり、王にとってなくてはならぬ相談役として信頼されていました。

しかし、ブラフマダッタ王は、少しばかり欲が深いことで知られていました。

ある時、北国の馬商人が、五百頭の馬を連れてバーラーナシーを訪れ、商いのために城にやって来ました。馬商人が来たという報告を受けた王は、いつものように菩薩を呼ばず、他の大臣に馬の買い付けを命じました。前回までは、馬の買い付けも菩薩に任せていたのですが、菩薩が馬を値切らずに買い入れるので、国王は不満だったのです。

お城では、マハーソーナという名の、気が荒く、乱暴で喧嘩ばかりする馬を一頭、飼っていました。

王は他の大臣に馬の買い付けを命じ、「馬に値を付けるときは、まずマハーソーナを馬商人の馬たちの中に放しなさい。マハーソーナが噛んだり蹴散らしたりして馬たちを傷物にしたならば、良い馬も安く買い叩くことができるであろう」と指示を与えました。

馬の買い付けを命じられた大臣は、王から言われた通りのことをしました。馬商人は、そのひどい仕打ちを不快に思い、その不正なやり方を菩薩に訴えました。

菩薩は「あなたのところには荒馬はいませんか」と馬商人に訊きました。

「おります、旦那様。今こちらには連れて来ていませんが、国の方には、スハヌという名前の、とても乱暴で気性の荒い馬がいます」

「では次に来るときは、そのスハヌを連れて来なさい。今度、馬の群れに荒馬を放たれたなら、スハヌを群れに放てば良いでしょう」

「わかりました」

馬商人は、菩薩に言われた通り、五百頭の馬と共にスハヌを連れて、再びバーラーナシーにやって来ました。

国王は、馬商人が来たと聞くと、「前回と同じ様に、馬商人の馬たちの中にマハーソーナを放して馬を買い叩け」と言って、大臣に馬の買い付けを命じました。

暴れ馬が馬たちの中に放たれると、馬商人は、すぐにスハヌを群れに放しました。マハーソーナとスハヌは、お互いを見たとたんに立ち止まり、互いに体をなめあったり一緒に遊んだりして、トラブルは全く起こりませんでした。

馬の買い付け役の大臣の報告を受け、二頭の暴れ馬が仲良く遊んでいるのを見た国王は不思議に思って、菩薩にたずねました。

「二頭の荒馬たちは、他の馬に対しては乱暴に振る舞い、噛みついたり蹴散らしたりして相手を傷つける。しかし、彼ら荒馬同士はすぐに仲良くなって、互いに体をなめあい、穏やかに、楽しそうに遊んでいる。これはいったいどうしたことか」とたずねました。

菩薩は、「王様、この二頭は性質がよく似ています。似ている者同士は気が合うのです」と答え、次の詩を唱えました。

ソーナとスハヌは似た者同士
ソーナはスハヌのごとく、
スハヌはソーナのごとく
乱暴で、恥を知らず、
常に手綱に噛みつく
邪(よこしま)な者は、邪な者と和し
不善な者は、不善な者と和す

そのように詩を唱えた菩薩は、「王様、王たる方は強欲であってはなりません。他人の財産を損なうような仕業(しわざ)は、国王にふさわしくありません」と、王を戒め、商人の連れてきた馬たちに値を付けさせて、適正な値段で馬を買い付けました。馬商人は、もらうべき代価を得、満足して帰って行きました。

その後、王は、菩薩の戒めに従って生活し、その業によって、生まれるべきところに生まれ変わっていきました。

お釈迦さまは、「その時の二匹の荒馬は乱暴な二人の比丘であり、ブラフマダッタ王はアーナンダであり、賢明な大臣は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

今月の教訓

自分の性格はどのようなものかと調べてみる興味はないが、他人の性格はいかがなものかと知りたいと、ほとんどの人は思っているのです。他人のことを放っておいて、自分の性格を客観的に分析して知ることは何よりも大事ですが、その興味がないのでどうしようもないのです。また、調べてみても、自分の都合により、自分の性格を高く評価して正当化するにきまっているのです。それで他人の性格を調べようとしても、自分の主観で判断するので、他人に対しても誤解してしまうのです。それで、ゆるやかな人間関係を築くことは出来なくなるのです。

他人の性格を判断するために必要な大事なポイントをこのジャータカ物語が示しているのです。それは、似た者同士は仲良くする、という法則です。一人ひとりの性格は分かりにくいが、いったん何人かがグループを組んだところで、力強くなって遠慮なく行動するのです。そこで自分の性格を知りたいと思う人は、そのグループの性格と似ているのだと判断すればよいのです。酒好きな人は、決して下戸とは仲良くしないのです。何にでも怒って怒鳴りつける人が同じ性格の人と会うと、たいへんなことになるだろうと思うのは勘違いです。誰とでもケンカする人は、似たような人に出会うと見事にマッチするのです。我々が「あの人は相性がいい」という場合は、自分が気に入っている、という意味なのです。自分の性格に合っているという判断なのです。実際付き合ってみると、うまくマッチングするならば自分の判断は正しかったと言えるのです。しかし、相性がいいと思って付き合ってみたら嫌われてしまった、という結果になったならば、判断が間違ったことです。

この論理は、子育ての場合に役に立つのです。自分の子の性格は、たとえ親であっても分からないものです。それで、その子はどのような仲間と友人関係を結んでいるのかと調べれば、それが我が子の性格なのです。もし悪い仲間に入っているならば、「うちの子はとても優しい人間なのに、悪い仲間に引きずられているのだ」と仲間を犯人に仕立てるのは勘違いなのです。自分の性格も合っているから、自分で進んでその仲間に入ったのです。いままで環境が悪くて、悪いことができなかっただけです。あるいは、気が弱くてできなかったのです。気に入っている仲間に入ったら気が強くなるし、気ままに生きるために環境もそろっているのです。我が子は本来、悪い性格なので、どのように躾すればよいのかと考えればよいのです。

この世はいつでも、似た者同士でグループを組んで生きているのです。悪い人々は仲間を作って強くなるので、悪さは消えません。善い人々も仲間を作っているが、悪い人間を改良することはできません。ですからこの世は、性格的には発展しないのです。この問題を解決して、この世を徐々によい世界になるように進化させるために取るべき態度が、お釈迦さまによって説かれているのです。それは、気に行った仲間を探す、のではなく、自分より優れた人々の仲間に入ることです。自分も成長するし、よい人間のグループが強くなっていくので、社会によい影響を与えることもできるのです。