智慧の扉

2009年10月号

生きるとは?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

生きることの定義は何でしょうか? 第一の定義、「生きるとは動くこと」です。医者は死亡診断をする時に、動きを見ています。しかし、ただの機械も動いています。そこで、第二の定義が必要になります。それは、「生きるとは感覚」です。すごくシンプルな定義でしょう。私たちは、感じてから考えます。考えるためには、感覚が必要です。私たちが、「心」と言っているのは、実際には感覚のはたらきなのです。

感覚がなければただの物体。感覚があれば生命。そう見れば、世の中に尊い生命も卑しい生命も成り立ちません。違いがあるとすれば、身体の大小だけ。アメーバは細胞一つでも立派に生きています。差別するのはあまりにもばかばかしいのです。

そして、感覚とは「苦」なのです。立ちあがると、立った瞬間から苦の感覚がどんどん溜まっていく。リミットを越えると耐えられなくなって座るのです。感覚は常に苦です。たまたま楽を感じる時があっても、それは「苦がなくなった楽しみ」なのです。だから、楽しみの倍々ゲームはない。苦が無くなることで楽を感じても、すぐその状況が苦になります。お腹が空いても苦しいし、食べても苦しい。そこでまた、苦から逃げようとする。苦を我慢して、リミットに達したら死にます。だから生き続けるためには、苦しみの状態を絶えず他の状態に変えないといけない。

苦しみは消えません。他の苦に変わるだけです。Aという苦からBという苦に引っ越す。そこからさらに、C、Dという苦に引っ越す。引っ越す瞬間に苦が消えるのです。楽とは苦のマイナスのことです。苦をマイナスにするために別の苦を入れないといけないのです。

考えることも苦です。でも私たちはそれを認めたくない。否定するのです。すべての現象が無常だということも否定するのです。「感じることは苦」という事実を認めないでゴチャゴチャ考える。結局、考えることはすべて、間違いになるのです。

ヴィパッサナー冥想では、間違いに過ぎない思考を止めることにチャレンジします。実況中継で、よけいな思うことを全部カットする。そうして、本当に知るべきこと、無常・苦・無我・縁起といわれる真理を知るのです。