智慧の扉

2014年4月号

慈悲の冥想は『祈り』ですか?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じる慈悲の冥想は、初期仏教における「祈り」であると解釈されることがあります。しかしそれは誤解です。慈悲の冥想とは、希望・願望を込めて祈ることではなく、真理として、当たり前、当然のこととして、「生命は皆、幸せであるべきだ」と認めることなのです。

 どんな生命であっても、幸せになりたい、殺されたくはない、貶されたくないのです。それは、幸せを目指して生きている生命の基本です。要するに生命の憲法、人権・権利なのです。権利というなら、別に祈る必要はないでしょう。認めるだけです。認めて、侵害しないようにすることです。しかし困ったことに、生命という存在は、自分の権利は守りたいのだけど、他人の権利はまったく気にしない、という特徴を持っています。

 幸せに生きる権利はすべての生命に平等にあるのだと、知っておくべきです。しかし、その事実を知ることは、普通は難しい。知っているのは、自分の権利だけです。だから「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じることによって、自分と同じく、あまねくすべての生命には幸せに生きる権利があるのだと、心に叩き込まなければいけないのです。

 慈悲の冥想の特徴は、他の冥想と比較すると分かりやすいと思います。「死随観」という冥想がありますが、「すべての生命は死に向かって生きている」ということは、当たり前のことでしょう。その当たり前のことを念じるのです。誤魔化さずに、しっかりと現実を認められる心を作るのです。

 その場合は「私は死にたくない」(生存欲)という無意識の勘違いを攻撃するのです。気持ちとしては死にたくはないかもしれませんが、法則としては、死に向かって生きているのです。その事実を認めることで、心を成長させるのです。「祈り」は、まったく関係ありませんね。

 慈悲の冥想も同じことで、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というフレーズは「一切の生命に生きる権利がある、私はそれを素直に認めます」という意味合いなのです。祈りではなく、智慧を起こす正しい冥想なのです。