智慧の扉

2017年3月号

「わがまま」を修行に活かす

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 俗世間でも、ブッダの教えでも、一般的に「わがままは良くない」と戒めています。しかし、誰にでもあるこの「わがまま」という精神を修行に使う裏技があるのです。いつでも自分の幸福を第一に考える、という方法です。

 具体的なやり方はこうです。例えば、誰かとしゃべっていて、どんどん腹が立ってきたとする。そこで、「あっ、ここで怒ったら、わたしが不幸になる。なんでわたしが不幸にならなくちゃいけないの? よし、怒らないぞ」と、思いっきり「わがまま」になってみるのです。相手が何を言っても怒ってやるものかと、あえて「自己中」になるのです。そうやって、わたしは悩みたくない、わたしは怒りたくない、わたしは嫌な気分になりたくない、わたしは落ち込みたくはない、わたしは不幸になりたくはない、というふうに、なんでも自分の幸福を優先して行動してみるのです。

 自分の幸福、自分の安らぎを第一に考えて生きること。人間関係に気を使って、他人に振り回されているわれわれにとって、これは結構な修行になります。特に日本社会は、同調圧力が強いとされていますからね。でも誰かから、「あの人は本当に気持ち悪いね」と言われて、「ほんとキモイ奴だね~」と同調したところで、不幸になるのは誰ですか? 他人の悪口に乗っかって、こころを汚した自分でしょう。ですから、「誰にも操られるものか、いつでもこころを穏やかに保って生きるぞ」と決めなくてはいけないのです。

 周りのみんなが、根拠なく自分の悪口を言っていたとします。ふつうはそれで気を病んでしまうでしょう。しかし、「どうぞ勝手に言ってください。わたしは穏やかにいますよ」と決めれば、何のこともなく穏やかにいられるのです。

 ということで、「わがまま」を使って修行することも可能なのです。自分の幸福を一貫して目指す。他人に同調することで、微塵もこころを汚さないようにする。人間関係のストレスでちょっとでも気持ち悪くなったら、「こころを汚したら、わたしが不幸になるだけです」と気づく。そういう修行です。

 ブッダのガイドに従って、「わがまま」「自己中」を貫いていくと、やがて「わたし」という自我意識が消えてしまいます。こんな逆説的なアプローチによっても、「無我」の真理に達することができるのです。