智慧の扉

2017年12月号

戒律の本質とは

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 戒律のことを、みなさん宗教的なタブーのように思っているみたいです。ことさらに戒律の項目を数えたりして、犯してはならない決まりの数を競っている。しかし、そのような態度は仏教の戒律と相いれません。例えば五戒にある「殺生してはいけない」という項目は、ただ命を取らないというだけの意味ではないのです。戒律の本当の意味・意義は、智慧が現れることにあります。生命は皆平等であると発見し、「生命の生きる権限は犯さない、犯してはならない」という智慧が現れることが戒律の完成なのです。同じく、「嘘をついて生命を騙すことは生命の権限・尊厳を奪う行為だ」という智慧に達することが仏教の戒になるのです。お釈迦さまが説かれた戒律とは儀式でもタブーでもないし、項目の数のことでもありません。そうではなく、性格の変換・智慧のひらめきをもたらすものが本物の戒律です。
 
 お釈迦さまは、「戒律のかわりに慈悲喜捨を実践しなさい」とも仰っています。「慈」というのは友情です。友達になると楽しいのです。ですから、友達のように何でも話せて、仲良く・楽しくいられるような態度で接する。そういう態度なら、どんな人とでも付き合えます。夫婦や兄弟たとえ隣の家の人であっても仲良くなれる。隣の家のワンちゃんとも友達になれます。何の問題もありません。もし隣の家のワンちゃんを「愛しなさい」となれば、感情が絡む嫉妬や支配欲が生まれ困ったことになります。メッター・友情であるならば、人間だけでなくワンちゃんにも通じるものなのです。二番目のカルナーというのは、困っている人に対しての憐れみ。「助けましょう」「早く良くなってほしい」という気持ちです。この気持ちは、どんな生命であろうが通じるものです。このように、慈悲喜捨もまた、実践することで性格の変換・智慧のひらめきが現れるのです。
 
 仏教という教えは、宗教や信仰とは関係ありません。ものすごくオープンです。人間であれば誰にでも智慧を開発できるのです。戒律を形式的にとらえて項目に拘ると、文化的な問題も出てきます。しかし、戒律・道徳とは形式の問題ではなく「心」の問題なのです。ゆえに智慧の開発のために欠かせない条件とされているのです。智慧ある人は、不殺生戒を実践するうえで「一切の生命の尊厳は守られるべきだ」と、しっかり納得している。そこが大事なポイントなのだと憶えておいてください。