智慧の扉

2018年3月号

ストーリーという「苦」の根源

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 過去とは、過ぎ去った時間の流れではありません。ひとが生きてゆく流れが過去です。仏教的に理解して欲しいのは、過去とは行為の流れだということです。私たちが気になるのは「自分の過去」であって、歴史的過去ではないのです。客観的データである史実は問題を起こしません。しかし、史実を感情(怒り・嫉妬・憎しみなど)で調理することで、あらゆる問題が現れるのです。私たちは貪瞋痴を起こした経験、喜び楽しみ感動などの感情漬けになったデータだけをしっかり憶えています。ですから、子供たちに算数など教えたければ、ちょっと工夫して子供を興奮させないといけない。興奮(煩悩)と一緒に入ったデータは脳に定着するのです。客観的な事実ではなく、感情という主観で調理することで、生命の「知る世界」が現れます。私たちは生まれてから一度たりとも、あるがままの事実を知らないで生きているのです。

 私たちが思い出すことは、起きたとおりの事実ではなく、個人が作るストーリーです。各個人が自分のストーリーを持っているから、他人のストーリーを気にしない、認めない、異常だと思ってしまうのです。この主観的なストーリーの導きで生きようとすれば、現実と齟齬を起こして失敗します。当然、不幸に陥ります。

 自我は幻覚ですが、皆がその幻覚に囚われています。この自我という幻覚が、事実を勝手に変えて、合成・捏造して、そのうえ「現実だ」と誇示するのです。私が感じた音を気に入った。心地よい音だった。その音を、気持ち悪い、うるさい騒音として認めることも、認識を変えることも不可能です。全ての情報に対する認識を、自分自身で変えることはできません。それぞれの人に決められた反応が起こるのです。したがって、「私の知る世界」がそのまま事実にすり替わります。眼に色というエネルギーの流れが触れて、感覚の流れが生じます。そちらには、美しい風景も、感動させる花もありません。認識する人は瞬時にデータを捏造するので、見たのは「美しい風景」に決まっている! そこで「我は知る。ゆえに私こそ正しい」という生き方が現れるのです。

 私たちがリアルな過去だと思っているのは、史実ではなく、主観・感情で捏造した経験と判断の塊です。捏造された個のストーリーなのです。ひとが過去を参考にしたり、過去に惹かれたりすることは、自分で掘った苦しみの落とし穴に自ら落ちるのと同じです。ゆえに、生きることは「苦」と言わざるを得ないものになっているのです。