智慧の扉

2018年8月号

ゆるすこと、捨てること

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「ゆるす」と「捨てる」の違いはなんでしょう?「捨てる」ことに成功すると、「ゆるす」ということは成り立たなくなります。ゆるすということは、捨てることに挑戦する前段階、準備なのです。スポーツをする前にストレッチをするような感じです。ゆるすという場合には、自我があることが前提になります。自我があって、「気に入らない、なんだこれは」と、心の中で様々な葛藤が生まれるのです。

 誰であっても生命は不完全で、過ちを犯してしまいます。だから、そんなことで私に怒る権利はない、お互い様でしょうということで、ゆるすという心を作るのです。大体、「ゆるせない」と思うのは態度がデカいのです。とても頭が悪いということになります。ゆるせないという人は、本人はカッコつけてそういう態度でいるのですが、極端に無知で、愚かで、下らない人間になっているのです。

 人間の人格が成長すればするほど、ゆるすという態度になるはずです。ある映画の中でいいフレーズがありました。人を虫けらのように残酷に殺す人がいて、それを止めさせるため、本当に強い人とはどのような人格なのかと教えてあげたのです。そのフレーズが「私は強い、だからゆるす」という内容でした。そのポイントは、とても立派です。ゆるすことができるならば、すごく立派な人格者であるという証拠なのです。

「捨てる」ということは、一切は無常であると理解し、自我が錯覚であると発見した人のアプローチです。その人の心から、執着という感情が消えているのです。捨てる人は、すでにゆるす・ゆるせないということ区別の次元を超えているのです。そのように二重構造で考えてみてください。捨てるとは、解脱を意味します。ゆるすとは、慈悲を意味するのです。慈悲よりは解脱の方が上になります。