パティパダー巻頭法話

No.16(1996年6月)

他人ばかり観たがる心

客観的判断と主観的判断 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間がものごとを、自分中心に主観的に考えるというのは、その個人の固定観念に基づいたものです。ですからいつでも正しく判断できるわけではありません。ある人がいいと言うことを他の人が悪いと思うのは、その人の個人的な判断によるものです。それが客観的にいいものか悪いものかを決めることは非常にむずかしいことなのです。みんな互いに違う固定観念や概念を持って自己中心に自分だけの世界を作ります。言い換えれば我々は、自分だけの殻を作ってその中に入り込んでいるのだと言うこともできます。社会の中で我々は互いにコミュニケーションをしていると思ってはいますが、誰一人自分の殻から外へ出て人の心と直接触れようとはしないのです。誰もがみんな自分という殻を持っていますから、極論で言えば誰一人として互いにコミュニケーションを取ってはいないし、理解もしていないのです。自分だけの殻に閉じこもっているというふうに認めたくはないので、他人と良くコミュニケーションしているのだ、人と心を通じあわせているのだと思いこんでいるだけです。もし互いに理解できるようになるならば、この世は何も対立のない幸福な社会になるでしょう。

人は他人が違う意見や判断を持っていることを知っていても、それが自分の意見や判断に合わない場合は認めようとしなくなります。そのかわりに、自分の殻の中でできあがった「型」のなかに相手を強引にでもはめようとします。相手側も、自分の概念の型にこちらをはめようとしていますから、対立が生まれます。これらはある特別な話ではなく、すべての生命の構造なのです。そのうえその構造は、いつでも最終的には自分が正しいという結論を導くようになっているのです。

それは体のシステムでも同じです。体は、今何を取り入れるべきかを自分でプログラムしています。たとえばビタミン、タンパク質、ミネラルなどということを決めていて、私たちが鰻を食べようと肉を食べようと、何を食べても吸収するものは変わりません。

このシステムは体にとっては自分を守るためにいいシステムですが、心にとっては違います。
心は本当は、互いに理解し対立なく平和で幸福に生きていきたいと思っています。その場合、心はオープンな方がいいのですが、実際は心はからだよりもっと閉鎖しているのです。

たとえば我々は見たり聞いたり味わったり感じたりしています。それによって外の世界を正しく認識していると思っています。でも事実は反対です。心は自分のプログラムで判断して、自分の好みに応じて認識しています。たとえば、誰かがあなたの頬に指で触れるとします。指で触れられるという物理的な行為は全く同じなのに、ある人に触れられるととても気持ちいいと認識し、また別の人に触れられると気持ち悪いと認識してしまうのです。それは心が最初から、この人に触れられたい、この人に触れられたくないと判断しているからなのです。気持の良いことか悪いことかはあくまでも主観的な判断であって、客観的な事実ではないのです。人間の生き方はすべてそういうシステムに基づいていますから、生きるということは常に対立的な行動を生み、それによってあらゆる悩み苦しみが生まれてくるのです。心が求めている幸福な生き方とはほど遠くなります。

幸福で平安な生き方をするためには、心の中の問題を解決するしか方法がありません。

心の殻を破るべきです。自我というとても小さな枠の中に働いている心を、枠を破って制限なく働けるようにすべきです。

人間の心はありとあらゆる区別をしています。人と人の間の区別、国と国の間の区別、宗教の違いによる区別…様々な区別によって自分の心を狭くしているのです。一切の主観的な区別概念を取り払って心が自由に活動できるようにすることが、すべての苦しみを乗り越えることになります。では心が苦しみを作るプロセスは、どうすれは治せるでしょうか。

それは自分を観ることから始まります。穀の中に閉じこもっている人は、客観的に外の世界を観ることができないとしても、その気になれば自分の心の殻のなかは観ることができるはずです。でも人間は、自分の心のなかの状態を観ようとはしません。それは自分の心の自我の殻を作る構造(自分の立場)が正しいと思い込んでいるからです。
たとえば、ある人とつきあって喧嘩になって苦しみが生まれてきたら、その間題をそこで解決しないで、喧嘩にならない気持ちのいい人を探し回ります。
ある音楽を聴いて好きにならなかったら、別のジャンルの音楽を探し回ります。
そのようにいつも外界で幸福を求めます。

しかし問題は実は心の中にあるのです。自分の主観的構造が正しいと盲信しているからです。前にも申しましたように我々は外の世界を正しく認識していない、しかも自己という殻がある限りそれは不可能なことなのです。もし客観的に何かをありのままに知りたいと思うならば、それは自分の心自体を観るより他の方法はありません。自分の心の中を観ることですので、客観的に徐々に見えてくるはずです。
たとえば人が怒っていると判断したとき、その人は怒っているかもしれないしそうでないかもしれません。またどれくらい怒っているかもはっきり分かりません。しかし自分が怒っているとき自分の怒りを観ると、その怒りの状態ははっきり見えるのです。自分が怒りで燃えている場合に幸福であふれていると勘違いすることはまずないでしょう。

外の世界、特に他の人間のことについて色々判断したり観たがったりすることは自己を清らかにする道ではありません。人は、したことしなかったこと、人の過ちなど、よく気になったり批判したりしますが、それは自分の心を清らかにするためには効果はありません。噂好きな人、人の批判ばかりする人だと嫌われるだけでしょう。人の行為の善悪判断ばかりして自分の苦しみを余計に増やす必要はありません。ただ自分の心の状態を観てこれを徐々に清らかにすれば良いのです。自分の心の中に生まれる欲、怒り、嫉妬、怠惰などを観ながらそれらを取り去ることです。自分の行動について良いか悪いかと見分けることです。それを進めれば、徐々に自分で自分の心をだますことなく、ありのままを観られるようになるし、自己という殻が破れるようになります。それによって心の自由を味わい、すべての苦しみを乗り越えられます。

今回のポイント

  • 心は物事をありのままに認識できないようになっています。
  • 心は固定概念で、好き嫌いの観念に基づいて物事を認識しています。
  • 外の世界よりは内なる世界を客概的にありのままに観ることは可能です。
  • 一切の区別概念を超えて、自己という枠を破るために自己観察は欠かせないのです。
  • 他人のことより自分のことに気付きましょう。

経典の言葉

  • Na paresaṃ vilomani – na paresaṃ katākataṃ
    Attanāva avekkhaeyya – katāni akatāni ca.
  • 他人の過ちや、したことしなかったことなど、観る必要はない。
    自分を観るべきです。何をしているか、何をしていないのか、と。
  • (Dhammapada 50)