パティパダー巻頭法話

No.82(2001年12月)

どう生きればいいの?

曖昧に生きることを避けるための4原則 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

私たちは、どのように生きていけばよいのでしょうか。誰でも気軽に訊く質問ですが、簡単に答えるのは難しいと思います。この気軽な質問にお釈迦さまが示した一つの考え方について考察してみましょう。

まず第1に、『卑しい行為はすべてやめましょう』とおっしゃっています。
単純でわかりやすいことだと思われるでしょう。しかし「卑しい行為とは何なのか」を明確にすることは、それほど簡単なことではありません。一般的な話として見ると、世の中では、いろいろなことを「卑しい行為」だと見做しています。そこで、ある人が悪いと思うことを、多くの人がそうは思わない可能性も当然出てきます。そうなると、実際に生きている私たちにとってはどうしたら良いかがわからなくなって、卑しい行為の定義が曖昧になってしまいます。仏教の場合は、人の生き方が曖昧にならないように、厳密に言葉を定義するのです。人は、自分が持っている信仰、主義、哲学、生き方にかかわらず、良いことも悪いこともするのです。世の中に起こるすべての悪いことは貪瞋痴が原因で起こるのだ、というのが仏教の定義です。

ひとつの行為が良いか悪いかを判断するためには、その人の信仰も哲学も主義も関係ないのです。その行為をした人のこころが、貪瞋痴の衝動で動いたならば、その行為は卑しい行為になるのです。ときどき、貪ってがんばった結果、豊かになったとか、怒って敵に対して反撃した結果、平和が戻ったという場合もあります。でもそれらの例は、欲はあったほうが良い、怒りがあっても良いという結論にはつながらないのです。なぜならば、欲や怒りで行動して、たまたま以前より良い結果を出しても、必ず副作用も起こるからです。ある国を「敵だ」「悪い人々だ」と思って怒りで爆撃して、その場で解決したように見えても、後から予測も出来なかった問題が次から次へと生まれるのです。ですから一時的によい結果が見えても、貪瞋痴に操られる行為は、基本的には卑しい行為だと思ったほうが自己管理になるのです。

また世の中では、貪瞋痴などのこころの状況とまったく関係なく、さまざまな行為が卑しい行為だと決められています。お釈迦さまは、世間の人が悪いと思っている行為をすべてやめて、世の人々に迷惑をかけないよう、仲良く出来るようにとおっしゃっています。常識的な人々が悪いと思うことを、自分の主義や宗教に基づいて正しいと解釈し、行為してはいけないのです。たとえばある宗教では、犯罪者を公開処刑するべきだと言っているかもしれません。でも世の中は、それは残酷な行為で、見る人々に精神的なショックを与えるものだと思っているのです。その場合、その宗教の方々は、自分の主義にしがみつくより、人々の気持ちを考えて、公開処刑など止めたほうが良いのではないかと思われます。また文化や国、民族によって、いろいろ決まりがあります。それらの人々といっしょに行動する場合は、その社会が悪いと思う行為を自分でも止めることが、お釈迦さまが教える正しい生き方です。

そういうわけで、卑しい行為であると判断するためには、次の二つの基準があります。
⑴ 絶対的な基準は、貪瞋痴の衝動です。
⑵ 世の中において常識で悪いと決められているものです。
(これは流動的です。時と場合により変化します。疑問が生じたならば、⑴ の絶対的な基準に頼るのです。たとえば、ある時ある国が「戦争するのは当然だ」と決定するかもしれません。皆が決めたのだから私も人を殺しても良いのかと疑問が生じたら、⑴の基準で、怒りの行為は絶対的に悪いと決めればよいのです。)

2番目の教えは『怠ってはいけない』ということです。
これは、世の中で物質的に豊かになるのが目的でおっしゃっているのではないのです。ついつい私たちは、世の中の誘惑に負けてしまいます。知らないうちに様々な娯楽に耽って、人間としての義務をきれいさっぱり忘れるときもあります。財産、名誉、権力、人気ばかりを追って、それに目が眩んで、やみくもに生活している場合もあります。「人生は戦いだ」と皆が賢そうに口ずさんでいます。本当にそう思っているならば、瞬間瞬間の人生を大事にするはずです。怠けたり耽ったり誘惑に負けたりしないはずです。貪瞋痴やその他の感情に負けることなく、常によりよい人間になるために努力することを、お釈迦さまは勧めています。常に目が覚めた状態で生きている人に、智恵が生まれてくるのです。この智恵が、こころの汚れである貪瞋痴を二度と生まれないように消すのです。

3番目の教えは『世の中のさまざまな間違った思考に操られないで生きる』ということを勧めるのです。
現代は情報化社会といわれています。いかに早く情報を入手できるかということで、ほとんどのビジネスが成り立っています。昔は、良い品物を作るとその商売は倒産しなかったのですが、今のビジネスの生命線は、情報戦略の勝ち負けによるものです。マインドコントロールしやすい宣伝を作れば、あるいは先に情報を流しておけば、その商品は売れます。そういうわけで、情報伝達の目的は、事実を伝えるということから、人をいかに誘惑するかということに、方向転換してきているのです。わかりやすくいえば、世の中の情報をそのまま事実だと信じることはできないということです。ですから、皆が信じているのだから、今流行っているから、最新情報だから等々という他人の意見に簡単に乗せられないように注意する必要があるのです。物事を自ら判断できるよう、世の中の情報に簡単にマインドコントロールされないよう努める必要があります。

4番目の勧めは『世の中のゴミを増やすなかれ』ということです。
これは、現代のゴミの問題ではありません。昔から人の生き方というのは、ゴミを増やす生き方でした。金を儲ける、財産を作る、家族を増やす、建物を作る、権力や人気などを得る、知識を増やす…このようにゴミの収集家として頑張って生きていても、最後にはゴミだけを残して、何も持たずに死ぬのです。何も持たずに裸で生まれる人が老いて死ぬときの状況を考えてみると、捨てられないゴミの山に囲まれているのではないでしょうか。ですから、老いぼれても気楽に死ねないのです。生きている間にこころを育て、こころを清らかにしたならば、あるいは善行為をしたならば、それだけが自分の持ち物になるのです。人生ではゴミを積むのではなく、徳を積むことです。

今回のポイント

  • 卑しい行為をすべてやめ、常に努力すること
  • 邪見や情報にマインドコントロールされないこと
  • ゴミを増やすだけの人生をやめること

経典の言葉

  • Hīnaṃ dhammaṃ na seveyya – pamādena na samvse,
    Micchā ditthim na seveyya – na siyā loka vaddhano.
  • 卑しい行為をするなかれ。怠けるなかれ。邪な思考を抱くなかれ。
    世俗のわずらいを増やすなかれ。
  • (Dhammapada 167)