パティパダー巻頭法話

No.199(2011年9月)

生きるという泥沼

自力で這い上がるべき 生きるという泥沼 Diligence rescues your life

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIII NĀGA VAGGA
第23章 象の章

  1. Appamādaratā hotha
    Sacittamanurakkhatha
    Duggā uddharathattānaṃ
    Panke sannova kuūjaro
  • 不放逸をば尊びて おのが心を守れかし
    沼にはまりしクンジャラが 泥より身をば拔く如く
    自己を引拔け難所から
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 327)

泥に足を取られたボス象

コーサラ国王の象軍にパーヴェッヤカという名前の象がいました。彼はただの象ではなかったのです。他の象よりも巨大な体格で、怖いもの知らずの性格でした。象軍のボスとして必要な調教を受け、象軍の仲間たちから信頼され、期待されていた象だったのです。やがてパーヴェッヤカは年寄りになり、身体が弱くなりました。ある日、彼は大きい湖に入りました。しかしその時、湖にはそれほど水がなく、湖底は泥でいっぱいでした。パーヴェッヤカの身体は、自分の重みでじわじわ泥の中に沈んでしまったのです。しかし体力がないので、泥の中から這い上がることができなかったのです。(象の身体は巨大ですけど、水の中に入ったら浮くのです。しかし、泥にはまってしまうと、自力では抜け出せないのです。それで命が終わります。)

調教師の救出プラン

有名で人気のある象が泥にはまったことを知って、人々が集まってきました。皆、大騒ぎをしましたが、パーヴェッヤカを助けだす方法はなかったのです。このニュースは王様の耳にも入りました。王様が象軍の調教師を呼び、「何とかしてパーヴェッヤカを助けてあげてください」と命令しました。調教師は方法を調べましたが、人間の力では助けてあげられないことが分かったのです。そこで、彼は兵舎に入って戦争に行く準備を始めました。戦争に軍隊が動く場合は、先頭に軍楽隊が行くのがふつうです。軍楽隊は太鼓を叩いたり、法螺貝やトランペットを吹いたりして、かなり大騒ぎします。そうやって、大音量で敵軍を心理的に脅そうとするのです。調教師は軍楽隊に湖の周りに集まってもらいました。それから軍楽隊に、力いっぱい音を鳴らして戦争の歌をうたうようにさせたのです。

子供の頃から戦争の訓練を受けていたパーヴェッヤカは、軍楽隊の歌に発奮してしまいました。わけも知らず戦うことを教えられていたので、プライドが沸き上がってきたのです。「私は年寄りで、体力もないから、これで命が終わるだろう」と思っていた落ち込みが突然消えて、我を忘れてしまったのです。パーヴェッヤカは踏ん張って、見事に泥中から這い上がりました。周りの人々は大歓声を挙げたのです。

お釈迦様の感想

これは大ニュースになったので、比丘たちの耳にも入ったのです。比丘たちはお釈迦様にも報告しました。お釈迦様は、パーヴェッヤカが自力で泥の中から這い上がったことについて、ご自分の感想を述べられたのです。
「比丘たちも不放逸になって自分の心を守ることに励んで、煩悩という泥の中から這い上がるべきです」
という言葉でした。

いつでも他人に頼りたい

お釈迦様には、象の姿から人間が見えたのです。人間の歩む道が見えたのです。人間はつねに、他人に頼りたくなるものです。他人が何でもやってくれると、期待するのです。自分で努力するべきだという考えは、それほど好きではないのです。人は自分に必要なことを他人がやってくれることを期待しますが、他人に自分を喜んで助ける気にさせることも下手なのです。私たちの行動や言動は、他人を嫌な気持ちにさせるのです。他人に助けてもらうどころか、皆の攻撃の中で生きていなくてはならなくなっているのです。
「それなら、皆に喜んで協力してもらうための方法を教えてください」という気分になるでしょう。仏教は「慈しみ」という一言でその方法を教えているが、慈しみの内容はぜんぜん自我中心的で自己の利益のみを目指す方法ではないので、あまり実行したい気分にはならないのです。それでも、慈しみを実践して、他人が喜んで助けてくれるような生き方を実現すれば、充分だと思われますか? この気持ちの裏を見て欲しいのです。

誰も気づかない

「怠け」の危険性

それは他でもない、「怠け」です。怠けは人の精神の芯なのです。怠けは我々を全面的に支配しているのです。新しい品物などを開発するときの判断基準も怠けです。より使いやすい、より便利な品物を開発したい。部屋のカーテンも自動で開閉できる、帰宅する前にケイタイで冷暖房を入れたり、風呂にお湯をはったりすることができる。そうやって住んでいる建物を全面的に自動化する企画を、インテリビルという名前で誤魔化しているのです。いかに怠けるのか、ということがポイントなのです。インテリジェントビルというよりは、怠けビルです。しかし怠けにはツケがあります。怠けることができると、生きることが退屈になるのです。苦しくなるのです。それでさまざまな楽しみを開発して、脳に刺激を与えなくてはいけなくなるのです。娯楽に耽ると、脳の開発もストップになります。怠けると、身体の成長もなくなるのです。怠け主義は、直接、身体もこころも退化へと後押しする。怠ける人はこの危険性に気づかないのです。

宗教は怠け思考の産物

生命の怠けは、つい最近、突然、現れたものではないのです。はじめから人類は怠け者だったのです。昔の怠け者は、「雨を降らしてくれ、豊作にしてくれ、敵に勝たせてくれ、病気を治してくれ、子孫を増やしてくれ」などなど、何でも他人からやってほしがったのです。しかし、考えてみてください。昔の原始人にあったその怠けが、現代人にないと言えるでしょうか? 怠けはなくなるどころか、神という妄想概念を発達させてしまったのです。科学研究により。神が存在しないということを発見するたびに、新しい解説を駆使して妄想概念を蘇らせてあげるのです。他人に頼る、という怠け病が頂点に達したら、一切は神がやってくれると信じるようになります。仏教文化の場合、個人は何もする必要がなくなるのです。阿弥陀様に、「南無阿弥陀仏」というショートメッセージを送信すれば充分です。お願いする必要さえもないのです。「お願いします」というのは、長くて面倒くさいから、そのフレーズもカットする。南無阿弥陀仏というフレーズもさらにカットして、「ナマンダーブ」となっている場合もあります。将来はさらに怠けて、阿弥陀様へのショートメッセージは「ナ」だけになるかもしれません。ひとつ注意したいこともあります。もし阿弥陀様が皆から来るショートメッセージを自動的に迷惑メールフォルダーに入るようフィルターをかけていたら、どうしましょう。誰も返信メールをもらったという話がないので、ショートメッセージはすべて迷惑メールフォルダーに入っている可能性が高いのです。

自分で頑張れば結果は確実

皆様の笑いを取るつもりはないのです。怠けがどれほど我々を支配しているか、ということを理解して欲しいのです。お釈迦様は「自分で頑張りなさい」という立場を説くのです。それには理由があります。すべての生命は自分のことしか気にしないのです。すべての生命は自分の幸福のために必死なのです。他人のことを構ってあげる余裕はないのです。生命の法則から見れば、他人に助けてもらう、ということは成り立ちません。対照的に考えれば、助けてもらうケースはいくらでもあります。助けがなければできない、というケースもいくらでもあります。しかし、何でも助けてくれる、という法則はないのです。それから、自分で頑張ってみたほうが結果は一〇〇%確かです。人が金を恵んでくれるよう待つよりは、自分で仕事をしたほうが手に金が入る確率は高いのです。

生きることは自分にしかできない

私たちはいろいろなところで人々に助けてもらうが、生きることは自分でやらなくてはいけないのです。母親はおいしいご飯を作ってくれるかもしれませんが、食べることも、消化することも、新陳代謝することも、自分の身体がやらなくてはいけないのです。教師がいくら真剣に教えてあげても、生徒は自動的に知識人にはならないのです。知識人になることは、生徒個人の努力の結果です。ですから、能力のない教師に教えられることになっても、自分で努力する生徒なら、よい結果を出します。世の中を正しく観察するならば、幸不幸は自分の努力によって成り立つということは、あえて言わなくても明白な事実なのです。怠け主義者は「自分で頑張ればなんでもできる」と思うことは、傲慢な態度だと、自我だと、神に対する冒涜だと、説教するのです。「私には何もできません。一切は神様の恵みです。」と思うことが、道徳的でとても謙虚な生き方だと、支離滅裂なことを言うのです。神は全知全能なり、という考えは道徳的な概念ではなく、怠け病が不治の病にまで悪化したという意味です。

泥から脱出する方法はシンプル

人間は煩悩という泥沼に嵌っている象です。沼から引きあげることは、他人にはできません。ですから、「負けるものか」とプライドを持って努力して、煩悩という泥の中から這い上がらなくてはいけないのです。這い上がる方法は、多岐にわたっている複雑なものではありません。不放逸(appamāda)というたった一つの方法なのです。不放逸とは、「気づき」のことです。

今回のポイント

  • プライドを持つことも必要です
  • 他人に頼ると期待外れになる
  • 幸福は自分の努力の結果です
  • 不放逸は解脱の道です