パティパダー巻頭法話

No.299(2020年2月号)

「知る世界」と「語れる世界」

修行者は認識範囲を破る Effable and ineffable

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Samiddhisuttaṃ (SN 1.20)
サミッディ経(相応部 1.20)より

  • Akkheyyasaññino sattā, akkheyyasmiṃ patiṭṭhitā;
    Akkheyyaṃ apariññāya, yogamāyanti maccuno.
  • 言葉を想う人々は 言葉に根拠を置いている
    言葉を遍知しないなら 死の束縛を受けるにいたる
  • Akkheyyañca pariññāya, akkhātāraṃ na maññati;
    Tañhi tassa na hotīti, yena naṃ vajjā na tassa atthi;
    Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.
  • しかし言葉を遍知するなら 言葉の主体を思うことなし
    かれにはそれが生じぬゆえに かれにはかれを語りうるものなし
    夜叉よ、知っているなら、告げよ
  • Samo visesī uda vā nihīno,
    Yo maññatī so vivadetha tena;
    Tīsu vidhāsu avikampamāno,
    Samo visesīti na tassa hoti;
    Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.
  • 私は等しい、勝る、劣る、と
    思う者はそれにより争う
    三の慢に揺れない者には
    等しい、勝る、ということがない
    夜叉よ、知っているなら、告げよ
  • Pahāsi saṅkhaṃ na vimānamajjhagā, acchecchi taṇhaṃ idha nāmarūpe;
    Taṃ chinnaganthaṃ anighaṃ nirāsaṃ, pariyesamānā nājjhagamuṃ;
    Devā manussā idha vā huraṃ vā, saggesu vā sabbanivesanesu;
    Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.
  • 概念を捨て、慢心に至らず この名色への渇愛を断ち
    結びを断ち、無苦、無欲のかれを この世、あの世、あるいは天界
    あらゆる住処で神々、人間が 求めてみても得ることはない
    夜叉よ、知っているなら、告げよ
  • Pāpaṃ na kayirā vacasā manasā,
    Kāyena vā kiñcana sabbaloke;
    Kāme pahāya satimā sampajāno,
    Dukkhaṃ na sevetha anatthasaṃhita nti.
  • 悪を語により、意、身により
    一切世界のどこにも作るな
    諸欲を捨て、念、正知をそなえ
    無益を伴なう苦に親しむな
  • 和訳:片山一良
    『パーリ仏典 第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』
    大蔵出版より

前回のおさらい

先月号では、サミッディ長老と女神との対話の一部を説明しました。サミッディ長老は大人ではなく若者でした。必死で修行する姿を見た女神が、長老のことを残念に思ったのでしょう。世の中の楽しみがあるのに、それ享受せず修行に励んでいるので、まず若者らしく娯楽を享受してから修行を始めたほうが良いのではないかという考えでした。そのアイデアを偈にのせると、「時間を無駄にするなかれ」という意味になったのです。要するに、「青春は短いから急いで楽しまないと後の祭りになりますよ」ということです。長老の答えは、「時間という考えはよく分からない。時間は隠れている」というものでした。サミッディ長老のこころの中にあったのは、「人はいつ死ぬのか、というその瞬間は分からない。ゆえに、後から修行するということは成り立たない」という意味です。

女神の「青春を謳歌したほうがよい」という考えに対して、長老がブッダから学んだ教えを唱えました。「欲は時間的で儚いものだ。楽しみは僅かで、欲から現れる憂い悩み苦しみ悲しみなどのほうが余りにも多い。ダンマ(法・真理)は直ちに確かめられる、時間の問題を超えている、来たれ見よと言える、涅槃へと導く、理性ある人が各自で体験するべきものである」と。しかし、「自分は出家して間もないので、詳しい説明はできない。もし詳しい説明が知りたければ釈尊に直々に尋ねてください」とも付け加えたのです。

女神のほうにも問題がありました。お釈迦さまの周りには、いつでも威厳に溢れた神々がいるので、近寄って質問することはできません。だから、「サミッディ長老がこの質問をするならば、私がそばにいて説法を聴きます」と約束したのです。サミッディ長老も約束どおりにお釈迦さまのところに行って、女神との対話を報告しました。「ただ、『欲こそが時間的で法・真理は時間を超えている』という言葉の説明はできませんでした。もしかすると、その女神は、いま近くにいるかも知れません」と長老が話すと、女神がサミッディ長老に「私はそばにいますよ。質問してください」とお願いしたのです。今日の話は、このエピソードの続きです。

欲は時間的

欲とは、眼耳鼻舌身意で色声香味触法に触れて楽しみを感じることです。その楽しみはすぐ消えるので、さらに色声香味触法に頼らなくてはいけなくなります。そこで対象に依存するはめになります。欲の刺激を求めているので、生命は欲の罠に嵌ってしまいます。麻薬中毒と同じことです。眼耳鼻舌身意は無常で、瞬間瞬間、変化してゆく。色声香味触法も無常で、瞬間瞬間、変化してゆく。欲から得られる楽しみがあるとしても、瞬間に限った快楽です。そこで人は、色声香味触法を追い求めなくてはいけなくなります。欲を求めて迷走している間に、自分の眼耳鼻舌身意は衰えてゆくのです。この迷走で確実に受ける結果は、憂い悩み苦しみ悲しみ嘆きだけです。ですから、楽しみは僅かで苦しみは多いと言うのです。欲から離れる道は、苦しみを無くす道です。時間の影響は欲にあるので、欲から離れる道においては時間の問題はありません。解脱に達した人の安楽は、時間によって起こる一時的なものではありません。

女神との直接対話

経典の続きはお釈迦さまと女神との直接対話のように見えます。なぜならば、「欲は時間的で法・真理は時間を超えている」というテーマをまったく扱っていないからです。もし、そのテーマであったならば、サミッディ長老の修行にも役立つ可能性があったにちがいありません。しかし、決めるのはお釈迦さまです。釈尊がサミッディ長老の修行生活になんの問題もないと思っているならば、それはそれで構わないのです。経典の中身をみても、サミッディ長老は立派な修行者で、なにか問題を抱えていたわけではないと読み取れます。サミッディ長老を余計な言葉で困らせたのは、女神です。時間を無駄にするなかれ、と言ったのは女神です。もし、女神を叱るべきであるならば、それはお釈迦さまの仕事です。女神のこころの中で引っかかっていた疑問や、理解能力の問題などがあったならば、それに正しく対応することもお釈迦さまの管轄です。というわけで、お釈迦さまが直々、女神に答えるのです。

言葉・概念の範囲

おそらく女神は、仏教について、修行について、いろいろ考えていたでしょう。考えるとさまざまな結論にも達するはずです。生命には眼耳鼻舌身意という認識するチャンネルが六つあります。その認識チャンネルから何でも知り得るといえば、それは間違いです。なぜならば、認識チャンネルには決まったデータしか入らないからです。入る情報データは、色声香味触法です。生命によって感じられる色声香味触法のデータが同一ではありません。たとえば、人間が感じる色声香味触法のデータと、犬猫などが感じる色声香味触法のデータは違います。ですから、人間が何かを知った、犬が何かを知った、と言っても、それぞれ知ることが違うのです。そこで、人が考える時には、自分が感じる色声香味触法のデータに制限されます。人間には、犬が感じる色声香味触法のデータについて、考えることも理解することも結論に達することも不可能です。この問題は、思考者が神であっても同じです。神が考える場合も、自分が感じる色声香味触法のデータに制限されます。

その問題を、お釈迦さまがすべてまとめてみます。生命は認識できる範囲で考えています。それから、さまざまな結論を作るのです。それは、その人に知られる範囲に限られた結論です。ですから、このように説かれます。

知る世界

Akkheyyasaññino sattā, akkheyyasmiṃ patiṭṭhitā;
Akkheyyaṃ apariññāya, yogamāyanti maccuno.

言葉を想う人々は 言葉に根拠を置いている
言葉を遍知しないなら 死の束縛を受けるにいたる

知る世界とは、認識できる世界です。眼耳鼻舌身意で感じる世界です。ひとにとって、これが知る世界なのです。知る世界に言葉を載せて語ることも可能です。知る世界のすべてを表現できるとは思えません。しかし、人々はいったん知る世界を言葉にすると、語られたものが知る世界のすべてを表現しているのだと思ってしまいます。(知る世界のすべてをそのまま表現できるのだろうか、という疑問は持っていない。)だから、人間は言葉で表現されている考えを信じるし、執着もするのです。言葉で表現できる範囲はどのようなものかと知り尽くさない限り、生命は死の束縛から抜けられないのです。

言葉

このポイントを難しいと感じる必要はありません。分かりやすいように説明します。眼耳鼻舌身意で感じたものを概念・アイデアに変えます。それを言葉に載せて、他人に語ります。しかし、「感じたものをすべて語れるのか?」という疑問は抱かないのです。試しに、饅頭を食べてみましょう。では、その味について語ってみてください。饅頭を食べたことのない相手にも、その味をそのまま理解できるように語ってみてください。そこで、饅頭の味とそれについて語った言葉の間に大きな差があることがわかるでしょう。

では、次のステップに進んでみましょう。われわれは言葉を断固として信じているでしょう。言葉に表現できたものはそのとおりだ、事実だと思っているでしょう。聖書なら神の言葉でしょう。その言葉が断言的に正しいと、神を信じる人々は思っているでしょう。われわれは仏教徒だから、ブッダの言葉を信じているでしょう。ブッダの言葉を読んで、「仏教がわかった、よく理解できた」と思っているのではないでしょうか? しかし、言葉は本来、「すべてを語れない」というハンディを持っているのではないでしょうか? ブッダの教えを、言葉を通じて理解できたとしても、こころの煩悩が消えてないならば、その人は輪廻転生するのです。お釈迦さまはそのことを簡単に説かれます。「言葉に引っかかっている人々は、まだまだ死王の束縛を脱していない」と。

言葉の範囲を超える

Akkheyyañca pariññāya, akkhātāraṃ na maññati;
Tañhi tassa na hotīti, yena naṃ vajjā na tassa atthi;
Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.

しかし言葉を遍知するなら 言葉の主体を思うことなし
かれにはそれが生じぬゆえに かれにはかれを語りうるものなし
夜叉よ、知っているなら、告げよ

日本語訳を入れましたが、読んでも理解できないところがあるので、意訳する必要があります。ここでは、意訳もやめて、噛み砕いて解説していきます。Akkheyyañca pariññāya
言葉で何を語れるのかと知り尽くすことです。語れるのは眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れる、感じる範囲だけです。眼耳鼻舌身意とは、知る人です。知る人とは、五取蘊です。ここで起きている事実は、「五取蘊で色声香味触法を感じた」ということです。語れる範囲はここまでです。しかし、そこに語る人はいません。なぜならば、「語る人」とは五取蘊だからです。

真理に達した人は、その現象の流れを知り尽くしています。要するに、真理に達した人は、語ってはいても「語る人がいる」と思っていないのです。真理に達した人は、語れる範囲も知り尽くしています。語れる範囲は、眼耳鼻舌身意で色声香味触法を感じる範囲に限られると知っているのです。そういうわけで、yena
naṃ vajjā na tassa
atthi真理に達した人を示すために適した言葉は存在しません。「女神よ、あなたはこれを知っているのか?」とお釈迦さまが訊きます。「ブッダの弟子たちが目指している涅槃・解脱という境地は、言葉の範囲を超えているのだ」と説かれたのに、女神はどうかわかりませんが、サミッディ長老にはそれがわからなかったのです。

サミッディ長老が、さらに説明してくださいとお釈迦さまにお願いします。もしかすると、女神の代わりに質問したのかもしれません。

言葉の世界がつくる煩悩

Samo visesī uda vā nihīno,
Yo maññatī so vivadetha tena;
Tīsu vidhāsu avikampamāno,
Samo visesīti na tassa hoti;
Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.

私は等しい、勝る、劣る、と
思う者はそれにより争う
三の慢に揺れない者には
等しい、勝る、ということがない
夜叉よ、知っているなら、告げよ

言葉・概念にひっかかっている人々の弱みについて語った偈です。言葉・概念を使うと、そこに残念ながら、語る人が当然必要です。「私が思う。ゆえに私がいる」という有名なフレーズと同じです。思うならば、人がいるのです。ひとがいると推定するならば、等しい、卑しい、などの慢がついてきます。等しい、勝る、劣るという慢が起こるこころは、揺れ動くのです。もし語る人がいないならば、こころに揺れ動きは成り立ちません。これも聖者のこころの状況を語ったところです。聖者の世界では、「私がいない」のです。凡夫の世界・無知の世界では、「私が思う。ゆえに私がいる」になってしまいます。結論として言えるのは、こころの中に言葉があるならば、そのこころは汚れていることです。これについてあなたは知っているのか、と女神に訊くのです。

サミッディ長老がさらに説明をお願いしたので、お釈迦さまは次にこのように語ります。

聖者発見は無理

Pahāsi saṅkhaṃ na vimānamajjhagā, acchecchi taṇhaṃ idha nāmarūpe;
Taṃ chinnaganthaṃ anighaṃ nirāsaṃ, pariyesamānā nājjhagamuṃ;
Devā manussā idha vā huraṃ vā, saggesu vā sabbanivesanesu;
Sace vijānāsi vadehi yakkhā ti.

概念を捨て、慢心に至らず この名色への渇愛を断ち
結びを断ち、無苦、無欲のかれを この世、あの世、あるいは天界
あらゆる住処で神々、人間が 求めてみても得ることはない
夜叉よ、知っているなら、告げよ

皆、修行者に「あなたは覚っているのか?」と訊きたがります。「あなた」と称するべきものがどこにも実在しないならば、どう答えれば良いのでしょうか? 質問された相手が聖者なら、もしかすると、「あなたって誰のことですか?」と逆に訊き返すかもしれません。「それって、色蘊? 受蘊? 想蘊? 行蘊? 識蘊?」と。結局、質問した人には聖者を見つけることができなくなるのです。もし、「あなたは覚っているのか?」という質問に「はい、そうです」と答えが返ってきたならば、その人は覚ってないに違いありません。

この問題について、お釈迦さまが説明した偈になります。聖者は、すべての概念を捨てています。慢などが生まれるはずもありません。聖者は、ナーマとルーパに対する渇愛を一切捨てているのです。ふつうの人が自分の知る能力をどこまで伸ばしても、「聖者」という何者かを見つけることは不可能です。生命が自分の認識範囲を極限まで拡張したところで、知れる範囲は色声香味触法の範囲内です。言葉を替えると、ナーマ(こころ)とルーパ(物質・からだ)の範囲に過ぎません。修行者がナーマ・ルーパの範囲を超えたら、知る範囲の一切を超えているのです。「そのことを知っているのか?」と、お釈迦さまは女神に訊きます。

そこで、サミッディ長老が自分の理解をお釈迦さまに報告するのです。

気づきを実践する

Pāpaṃ na kayirā vacasā manasā,
Kāyena vā kiñcana sabbaloke;
Kāme pahāya satimā sampajāno,
Dukkhaṃ na sevetha anatthasaṃhita nti.

悪を語により、意、身により
一切世界のどこにも作るな
諸欲を捨て、念、正知をそなえ
無益を伴なう苦に親しむな

サミッディ長老は、このように語りました。身口意の一切の悪を止めること。なにものにも執着しないようにと、気づきを実践すること。苦しみの世界への執着を断つように励むこと。

結論として言えるのは、瞬間瞬間、気づきと正知を実践するならば、概念を超えた解脱の境地に達することができる、ということです。この経典は、あえて難しく語られているのです。それは、理解できず困るような内容を語ることで、修行者を認識の制限という壁に意図的に直面させるためです。最後に、「慈しみのこころで素直にサティを実践しなさい」という戒めを述べて、経典は終了するのです。

今回のポイント

  • 知る世界とは六根の感覚です
  • 語れるものとは知る世界のことです
  • 解脱は知る世界を超えることです
  • 聖者について語れる言葉は存在しない