パティパダー巻頭法話

No.300(2020年3月号)

死神が背中を叩いた

修行は死ぬ覚悟で行うもの Received the last call from the death

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Sattisuttaṃ(SN 1-21)
剣経(相応部1-21)

  • “Sattiyā viya omaṭṭho,
    Dayhamānova matthake;
    Kāmarāgappahānāya,
    Sato bhikkhu paribbaje”ti.
  • “Sattiyā viya omaṭṭho,
    Dayhamānova matthake;
    Sakkāyadiṭṭhippahānāya,
    Sato bhikkhu paribbaje”ti.
  • 【女神】
    剣が触れているように(槍に刺されたように)
    頭上が燃えているように
    欲貪を捨て、念をそなえ
    比丘は遍歴するがよい(比丘は修行するがよい)
  • 【釈尊】
    剣が触れているように(槍に刺されたように)
    頭上が燃えているように
    有身見を捨て、念をそなえ
    比丘は遍歴するがよい(比丘は修行するがよい)
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より
    >※丸括弧内はスマナサーラ長老の補足)

素直な人が覚れる

修行は真剣真面目に行わないと、解脱という結果になりません。お釈迦さまは、「人が素直な性格であるならば、解脱に達しますよ」と仰ってあります。裏を読めば、素直でない人はお釈迦さまの直々の指導を受けても解脱に達しないことになります。お釈迦さまは、覚りをひらく能力をもっていない人々に修行を推薦して困らせることはなさらなかったので、ブッダの指導を受けた人々は皆、100%覚るという結果になっているのです。素直とは、人の性格の一部です。学ぶ時、何かを実践する時、教えたとおりに理解すること、指導されたとおりに実践することが「素直」になります。教える内容を自分の考えで変えたり、自分の好みに合わせたりすると、「素直」ではないのです。指導を受ける場合でも、「私にとっては、あなたの言う方法よりは他の方法が合ってますよ」また、「今まで実践したやり方と合併してやります」などの気持ちは、「素直」ではないのです。ただし、こちらにも問題があります。教えることが正しいものではない場合、指導は正しくない場合、素直な人が被害を受けます。オウム真理教は記憶に新しい実例です。弟子入りした若者たちは素直でしたが、師匠は無知な犯罪者だったからです。しかし、仏教の場合は、教えも修行方法も完全無欠であると明確に繰り返し繰り返し説かれています。正等覚者の話であるならば、素直に聞くことと、素直に実践することが正しい態度なのです。ここで言いたいポイントは、素直な性格な人々も、他人に騙されないように気をつけなくてはいけない、ということです。

修行者の心構え

生半可な気持ちで修行しても、解脱に達しません。煩悩を断つこと、執着を捨てることは、簡単な作業ではないのです。それは生命の本能を変えることになるからです。存在欲が生命の本能です。それを無くしなさいと言われたら、理性のない人の頭の中で、「死になさい」と解釈してしまうのです。一部の優秀な仏教学者でさえ、「煩悩は無くせるものではない」と議論することもあったのです。しかし、経典からデータを出して自分のアイデアが正しいと立証することが出来なかったのです。では、修行者の心構えとは何でしょうか。簡単に言えば、「死ぬ覚悟」で修行に臨むことです。お釈迦さまが「苦行は無意味だ」と発見して、自ら選んだ中道で修行に入った時の気持ちがこのように語られています。

「このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。」(スッタニパータ四四〇偈 ※経典和訳:中村元『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫)

この意味は、「死ぬ覚悟で修行に入った」ということです。解脱に達しないまま修行を諦めるくらいならば、死を選ぶのです。仏教徒はこの経典を参考にして、お釈迦さまの偉大なる性格を讃嘆することで満足しています。しかし、修行に励む皆、同じ心構えで精進しなくてはいけないと、自分自身に当てはめてはみないのです。

女神の発表

ある女神が、解脱を目指す修行者の心構えを知っていたのです。それを自分なりの言葉に入れ替えて、ブッダの前で発表したのです。

①Sattiyā viya omaṭṭho 槍に刺されたような気持ちで

Omaṭṭhaとは、頭の上からお尻まで槍を刺すことです。昔あった刑罰「串刺しの刑」の場合は、槍の上に罪人を乗せるのです。その場合はお尻から上に槍が貫きます。その状態はパーリ語でummaṭṭhaと言います。槍を人の上から刺したならば、人は僅かな時間で死にます。その人に、財産をどうしよう、我が子に逢いたい、などなどのことを考える余裕は無いのです。それぐらいの気持ちで、覚悟で、修行に励まなくてはいけないのです。Sattiという言葉を「剣」として訳する場合もあります。その場合は、ストーリーのイメージを変えなくてはいけないのです。処刑人は刀を振り上げているのです。振り下ろした瞬間で、人が真っ二つに切れて死ぬのです。修行者に残る時間は、刀が振り下ろされるまでの僅かな時間のみです。要するに、人はいつ死ぬか誰にもわからない。いまの瞬間にでも、死ぬかもしれません。明日まで生きられるという保障は一切無いのです。それを理解して修行に励むのです。

②Dayhamānova matthake 頭上が燃えているように

頭上が燃えているならば、あなたはコーヒーを一杯飲んでからそれを消すのでしょうか? あるいはトイレに行って用を済ませてから頭の火を消すのでしょうか? なんの言い訳も通用しません。ただちに頭上の火を消すべきです。このような覚悟で修行者が実践に励むべきです。

③Kāmarāgappahānāya 欲貪を捨てるために

Kāmarāgaは煩悩リストの第一に来る項目です。どんな人にもわかりやすい感情です。眼耳鼻舌身の刺激に、愛着を持つことです。人は誰だって、自分の肉体が可愛いと思っているのです。肉体の感覚を優先にするのです。坐って瞑想する時、足が痛くなったら瞑想を止めて身体を可愛がってあげる。眠気が入ったら、修行は後回しにして寝ることにする。それも肉体を可愛がることです。こころがサマーディ状態に成長しない障害が五つあります。一番目はkāmarāga欲貪です。

ここで一般人の考えは、「こころ清らかにしたければ、最初に欲貪を断つべき」ということになります。煩悩リストの第一なので、それを断つことが最初の仕事になるでしょう。女神も同じ考えで、頭上に火が付いたような感じで欲貪を断つべきである、と考えたのです。

④Sato bhikkhu paribbaje 念をそなえ、比丘は遍歴するがよい

仏道は気づき(sati)の実践です。女神はそれを正しく知っているのです。Paribbajeは、遍歴するがよい、と訳されていますが、その訳を少々変えなくてはいけないのです。Paribbājaka遍歴行者という単語は、一般的に、宗教宗派に関係なく「修行者」の意味に使われるのです。仏教で使う単語は、pabbajjāです。ですから、paribbajeの意味は、「修行するべきです、励むべきです」ということになります。言葉を替えてみると、driver(運転手)がdrive(運転)するべきです、というようになります。Paribbājakaがparibbajatiをするのです。遍歴ではなく、修行するのです。遍歴は修行の中の一つの行為です。

女神の発表をまとめると、「今、死ぬかも知れない、という覚悟で修行者が気づきの実践をして、欲貪を断つべきです」という内容でした。

ブッダの答え

「今、死ぬかも知れない、という覚悟で修行に励むべきです」とは、お釈迦さまが常に教える言葉なのです。ですから、女神の偈の一行目、二行目はお釈迦さまもそのまま使っているのです。気づきの実践を教える四行目も同じなので、変わっているのは三行目だけです。

有身見を断つ

③Sakkāyadiṭṭhippahānāya 有身見を捨てるために

お釈迦さまは、「欲貪を断つために励むべき」という言葉を変えるのです。一般人は、リストの第一から断つべきだと思うかも知れませんが、真理の発見者であるお釈迦さまは、先に有身見を断つことを説かれるのです。煩悩を10のリストにする場合、一番目に来るのは有身見です。このリストは「十の束縛dasa-samyojana」と呼ばれます。この順番は、解脱に達する順番に合わせているのです。解脱は、預流果から阿羅漢果まで四段階です。誰でも最初に預流果にならなくてはいけないのです。気づきの実践をして、①有身見sakkāyadiṭṭhi、②疑vicikicchā、③戒禁取sīlabbata-parāmāsaの三つの束縛を断つことで預流果になります。面白いことは、①有身見sakkāyadiṭṭhiを破れたら、②も③も破れてしまうのです。

私がいる

有身見とは、「私がいる」という実感のことです。それは現象の流れで起こる錯覚です。光の屈折が蜃気楼を見せるように、眼耳鼻舌身意の感覚の流れが、「私がいる」という錯覚を作るのです。「私がいる」から、すべての煩悩が起こるのです。「五根の刺激を楽しみたい」という欲貪も、「私がいる」から成り立つものです。「私が」楽しみたいのです。お釈迦さまの説かれたとおりに、気づきの実践をする修行者は、欲を無くそう、煩悩を無くそう、解脱に達しよう、などの大それた妄想・希望・期待を作らないのです。感覚の流れに気づきを入れることで、精一杯です。妄想する余裕がないのです。そこで修行者が、妄想を中止して気づきを実践するならば、「私がいる」という実感が現象の流れで起こる錯覚であると、ものの見事に発見するのです。それが、有身見を断ったことです。その修行者は、現象が因縁によって流れることであると知っているのです。ですから、疑は完全に消えるのです。儀式・儀礼・お祈り・断食・滝行・苦行などでは絶対覚りに達しないとも知っているのです。気づきの実践以外、こころ清らかにする道、解脱に達する道は存在しないと知っているのです。ですから、もう戒禁取はないのです。というわけで、有身見を断つことが修行者の宿題です。欲貪を断つことではないのです。女神が賢い存在であったことは確かですが、発表は一般人の考えです。

欲貪は悪くないの?

欲貪は煩悩です。「悪くないの?」ではなく、「悪い」のです。しかし、修行は精密で科学的な実践なのです。こころの成長には順番があるのです。ですから、お釈迦さまが一般人に、有身見を断つことを推薦するのです。説法なされる時も、永久不滅の実体がないことを力説するのです。涅槃はこんなものである、という神話物語はしないのです。

預流果に達した人が、一来果に境地に挑戦します。一来果に達した時、欲貪と瞋恚という二つの煩悩が薄くなります。薄くなるとは、繁殖能力が消えることです。欲は欲を育てる。怒りは怒りを育てる。恐ろしい繁殖能力を持っているのです。一来果にも欲貪と瞋恚はありますが、繁殖能力が消えたのです。ですから、そのうち自然に無くなってしまうのです。欲貪と瞋恚の寿命が尽きて無くなる時は、子孫を作れないので、そのまま消えるのです。その状態を不還果というのです。そこで問題になるのは、「預流果に達しても欲がありますか?」ということです。煩悩のリストを参照するならば、あると答えなくてはいけない。しかし、一般人の欲とは性質が違います。一般人がご飯を食べて美味しいと感じたら、繰り返し、同じ美味しいご飯を食べたくなるのです。それを探し求めるのです。必死になるのです。預流果は「このご飯はけっこう美味しいね」というところで止まるのです。

気をつけましょう

たとえ仏教徒であっても、自分好みの修行を企画したくなります。森に住む、托鉢のみで生活をする、人が立ち入らないところに住む、菜食主義になる、などなどです。一見、悪く見えないのです。自分で決めたことだから、真面目に実行したくもなります。しかし、仏教徒はブッダの指導から逸れてはならないのです。ブッダが道を完全に語っているのです。今月説明した女神との対話でも、一般人の考えとブッダの考えの違いが見えてくるのです。

今回のポイント

  • 性格は素直でないと覚れない
  • 自分勝手に煩悩と戦う必要はない
  • 煩悩を断つ順番は釈尊が説かれています
  • 自分好みの修行を企画しない