パティパダー巻頭法話

No.305(2020年8月号)

闇と光

闇は無明、光は智慧 Ignorance and wisdom

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Pajjotasuttaṃ(SN 1.26)
光明経(相応部 1.26)

  • “Kati lokasmiṃ pajjotā,
    yehi loko pakāsati;
    Bhagavantaṃ puṭṭhumāgamma,
    kathaṃ jānemu taṃ maya”nti.
  • “Cattāro loke pajjotā,
    pañcamettha na vijjati;
    Divā tapati ādicco,
    rattimābhāti candimā.
  • “Atha aggi divārattiṃ,
    tattha tattha pakāsati;
    Sambuddho tapataṃ seṭṭho,
    esā ābhā anuttarā”ti.
  • 【女神】
    「世界はいくつの光明があり
    それらが世界を輝かせるか
    われらは世尊に問うために来た
    どのようにそれを知りうるか」
  • 【釈尊】
    「世界に四の光明があり
    ここに第五は知られない
    昼においては太陽が輝き
    夜においては月が照らす
  • また昼夜においては火が
    あちらこちらの場で輝く
    正覚者は輝くものの最勝
    この光は最上なり」
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    (サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版)

暗闇

仏教では、無知・無明を暗闇に喩えます。この喩えは、他の宗教でもふつうの文学の世界でも使われています。どこでどのように使われる場合でも、ネガティブな意味を持つのです。創造論を語る諸宗教では、神様が森羅万象を創造する以前の状態は暗闇であったとされます。神様は、暗闇と光を分離することから活動を始めるのです。

仏教では「無明」が暗闇なので、輪廻転生する衆生は皆、無明という暗闇の中にいるのです。「私たちは暗黒に陥って生きているのだ」と言われると、人のプライドを傷つけるかも知れません。暗闇の中に生まれ、暗闇の中で生きて、暗闇の中で死に、暗闇の中にふたたび生まれるならば、またそれを限りなく繰り返しているならば、誰一人として自分が暗闇に陥って生きていることに気づくはずはないのです。そう言われると必ず、プライドが傷つきます。

なので、仏教が語る「無明」を理解することは、一般人にとって容易いことではありません。仏教の理論である因果法則の循環は、無明から説明が始まるのです。ブッダの時代にも、「無明、無明と言われますが、一体、無明とはなんでしょうか?」と質問されたケースがありました。お釈迦さまの答えは、「苦集滅道という四聖諦を知らないことに無明というのだ」というものです。しかし、これも一般人にとっては納得し難いでしょう。なぜならば、「仏教をわからない人々は皆、愚者扱いされているのではないか?」と、仏教を非難することも可能になるからです。しかし、仏典にはこのような批判の言葉は無いようです。それには理由があります。「四聖諦を知識で理解しても、経典を暗記して語ることができても、それを実践しない人は無明である」と説かれているからです。というわけで、一般仏教徒も暗闇の中で生きているのです。

推測と疑の世界

目の見えない人がいるとしましょう。その人は、外の世界のことをわずかな情報に頼って推測しなくてはいけないのです。自分の身体の形についても、自分が着ている服についても、推測しなくてはいけない。誰かから「あなたは不細工だ」と言われたとしたら、その人は単純にその言葉に頼って怒ったり落ち込んだりしなくてはいけない。また、他の人から「あなたは美しい人だ」と言われたら、その言葉に頼って、喜んだりしなくてはいけない。しかし、目が見えないので、本当の自分は何者か分からないのです。すべての生命が無明という暗黒に生きているので、生き方は目の見えない人と同じです。我々の生き方は、推測と疑の底知れない泥沼に陥っているのです。知る世界のすべては、推測と疑で成り立っています。あたかも、色彩の区別を手で触って決定するような世界なのです。無明がある限り、人は自分に関して、また世界に関して、ありのままの客観的な事実を発見することはできません。何を思っても、それは推測に過ぎないのです。(自分と世界に関するありのままの事実を、ブッダは四聖諦としてまとめて説かれました。ゆえに、四聖諦を知らないことが無明であると定義したのです。)

議論・信仰・迷信

ものごとの是非が実証されていない場合、「こうだと思う」「ああだと思う」のような議論が生じます。また、誰かが力強く、脅しも加えて自分の思いを語る場合、気が弱い聴衆は、相手の話を信じることにします。信じ込んだ概念がその通りか間違いかは、確認することができないのです。結果として、世の中は分からないことだらけになっています。判明している僅かな情報も、その通りか否かは明確ではないのです。それで、「こうすれば、こうなるんじゃない?」といった類の迷信文化も現れるのです。科学の発展とともに、迷信の暗闇が部分部分で薄くなります。しかし、完全には消えません。現代人も迷信が好きなのです。

議論・信仰・迷信はこころの病です。議論すればするほど見解が増えるだけで、真理の発見はできません。真理を隠している無明の壁が、さらに厚くなるだけです。「真理を知る唯一の認識手段は信仰である」と思う人に、真理を教え諭すことは不可能です。迷信も無明の壁を強化します。儀式・儀礼・お祭りだけで成り立っている宗教があります。また、仏教徒だと言われている人々の中でも、真言・呪文などを唱えれば智慧が顕れると思う人々もいます。迷信に頼ると、無明から無明へと陥ることはあっても、真理の発見は不可能です。このように、無明の中に生きている生命は、議論・信仰・迷信という三つの病に罹っているので、なおさら真理は遠ざかっていくのです。喩えで言えば、底知れない泥沼に嵌った生命が、泥沼から這い上がろうと思って、泥の中に穴を掘り続けるようなことになります。

光の世界

光とは、智慧であり、解脱の世界なのです。目の見えない人に、目が現れたような世界です。智慧が顕れたと同時に、今までこころにあったすべての議論・信仰・迷信・推測・悩み・落ち込み・舞い上がり等などのすべての問題は、跡形もなく消えます。色彩を手で触って判断する必要が無くなるのです。目の見えない人には、「これは緑色の服です」と言わなくてはいけないのです。相手はその言葉を信じるしかありません。手で触ってみても、自ら色の区別を確かめる方法は無いのです。目に視力が現れれば、すべての問題はその時点で終わりです。智慧が顕れた人にはすべての悩み苦しみが消えて二度と現れないのだと、また智慧が顕れた人は堕落することは不可能であると、為すべきことは為し終えたのだと、仏教は語るのです。目の見えない人と色の区別問題を喩えとして考えるならば、「智慧が顕れることですべての問題が終了するのだ」と推測することもできると思います。

暗闇を破るプログラムは仏道と言う

ブッダは信仰と迷信に頼らず、確実に智慧が顕れるプログラムを解き明かしました。無明から煩悩という様々な精神病が現れるので、仏道はその病を治療しながら、無明という病の根本原因を取り除くことにするのです。道徳、戒律、瞑想実践、精神統一などなどの仏教で語るすべての修行方法は、無明という暗闇を破る目的に照準を合わせているのです。戒律を守って仏教徒になるのは単純なことで、誰にでもできます。しかし、それにはそれほど価値はありません。守る戒律はただ一つであっても、それによって無明の闇を無くすことを目指しているならば、その戒は尊いのです。お釈迦さまはこの区別を示すために面白い工夫をしています。世に常識的にある道徳には、sīla【スィーラ】と言います。同じ道徳項目でも、無知を破ることを目指して、智慧が顕れるように工夫して実践するならば、ariyasīla【アリヤスィーラ】と言うのです。Samādhi【サマーディ】・定も、samādhiとariyasamādhi【アリヤサマーディ】の二つに分けています。

ありのままに知る

ありのままに知ること(如実知見)ができる人は、無明の闇を破るのです。このように言われると、誰にでも出来そうな気がするでしょう。また、一般人は「ありのままに物事を知っているのだ」と自慢までしているのです。人のこころはバイアス・先入観・固定観念・マインドコントロールなどで壊れて病んでいるのだと言われると、気分が悪くなるでしょう。当然のことです。マインドコントロールにかかっている人は、自分がマインドコントロールされているのだと知らないのです。

人は物事をありのままに知る訓練をしなくてはいけないのです。ブッダは師匠で、仏教は授業内容です。仏教徒は皆、信仰者ではなく学生なのです。学ぶことが終了して卒業した人は、「無学」と呼ばれます。ありのままに知る訓練のスタートは、気づき(sati【サティ】)の実践なのです。

女神の問い

仏教は光明の世界であると、一般的に言われています。智慧と光は、同義語として仏教の世界で日常茶飯事に使っているのです。「光とは仏教である」と思われるほど、この単語は一般的です。そこである女神が「光は何種類あるのか?」と考えたのです。俗世間の光と仏教の光(智慧)を混同したので、分からなくなったようです。「光は何種類あるのか?」と現代人が訊かれても、戸惑ってしまうでしょう。昔と違って現代人にとっては、見える光も見えない光もあるからです。結局、その女神は釈尊に質問しました。「世を光らせる光は何種類あるのでしょうか? ブッダに尋ねます。知る方法を教えて下さい」と。

ブッダの答え

「光は四種類です。五番目はありません。昼、太陽が光る。夜、月が光る。それから、火などで現れる光もある。それには昼夜の差は関係ない。ブッダは最上の光である。ブッダの光を超える光はありません。」女神の戸惑いを知ったお釈迦さまは、物質的な光と智慧という光を混同していた女神の思考パターンに合わせて答えました。相手の考え方を無視して、自分の考えを押し付けることは、正しい対話形式ではないのです。

ブッダという光

智慧は光であると、上述しました。ブッダは人なので、「光である」と表現すると、信仰を用いて誤解に陥る可能性があります。光は四種類であるという、「光(pajjota)」の意味は微妙に異なります。この場合は光と言うより、「照らす」という意味を取っているのです。太陽も月も、地球を照らします。火の光も、電気などの光も、周りを照らします。輪廻転生して限りなく無明の泥沼に回転して苦しむ生命に、ブッダが智慧の光を照らします。ゆえに、ブッダこそが唯一無上の智慧という光なのです。しかし、このフレーズも誤解する可能性があります。「如来が光を照らしてくれるから、生命は救済されるのだ」と誤解すると、ブッダも他宗教と同じく信仰型の救世主になってしまうのです。しかし、考えて下さい。目が見えないならば、いくら強烈な光で照らしても役に立つでしょうか? ブッダの道は、人に目を開く方法を教えることです。指導どおりに治療を受けて、人は自分で目を開くのです。

今回のポイント

  • 無明は闇です。智慧は光です
  • すべての生命は闇に住んでいます
  • 無明がある人に限って悩み苦しみがあるのです
  • ブッダは人に智慧の眼を開く方法を教えます
  • 人は自分で闇を破らなくてはいけないのです