パティパダー巻頭法話

No.307(2020年10月号)

見つからない「生きる目的」

生命は煩悩によって生かされている Forced to live

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Mahaddhanasuttaṃ(SN 1.28)大財経(相応部 1.28)

  • “Mahaddhanā mahābhogā, raṭṭhavantopi khattiyā;
    Aññamaññābhigijjhanti, kāmesu analaṅkatā.
  • “Tesu ussukkajātesu, bhavasotānusārisu;
    Kedha taṇhaṃ pajahiṃsu, ke lokasmiṃ anussukā”ti.
  • “Hitvā agāraṃ pabbajitā, hitvā puttaṃ pasuṃ viyaṃ;
    Hitvā rāgañca dosañca, avijjañca virājiya;
    Khīṇāsavā arahanto, te lokasmiṃ anussukā”ti.
  • (女神)
    「大きな財あり、大きな富あり 国土を有する王族はまた
    愛欲に飽きることがなく 互いに強く貪り求める
  • 生存の流れに随順し 貪り求めるかれらのうちで
    誰がここで渇愛を捨てたか 誰が世界の不貪求者か」
  • (釈尊)
    「家を捨てて、出家し 子、家畜、愛しいものを捨て
    また貪と瞋を捨て 漏を尽くしている阿羅漢
    かれらは世界の不貪求者なり」
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    (サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版)

目的を持って生まれる

みな「自分は大事な目的があって生まれてきたのだ」と思っているようです。しかし、「あなたの生きる目的な何でしょうか?」と訊かれても、答えられる人はほとんどいません。生きることに目的があると思うのは、「自分の命はかけがえの無いものである」と絶対的価値を入れているからです。お釈迦さまも「この世で第一に愛しいものは自分自身である」と説かれています。命には究極の価値があると、みな当たり前のように思っているのですが、話は現実的なものにはなりません。それに微かに気づく人々は、「私は何のために生まれたのか?」と自問自答するのです。さらに自分のアイデンティティを探し求めます。面白いことは誰一人も、「何のために生まれてきたのか」という自覚を持っていないことです。誰も生きる目的を知らないならば、みな一斉に「生きる目的なんかは誰も知らないのだ」と決めたほうが良いのに、そうする勇気もありません。いつでも「発見できないが、何か目的があるはず」と期待しているのです。「生きることに目的は一切無い」と決めるならば、もっと楽に生きられると思います。そうなったら人は、それぞれ自分なりに達することができる何らかの目的をつくって、それに挑戦して生きるでしょう。その場合は次から次へと、新しい目的を作ることも可能です。一つの目的に達したら、次の目的に進む人生になります。しかしオチは、何をやって生きてきても、みな老いて死ぬことです。達した俗世間的な目的は、一つとして死にゆく人の役に立たないのです。

なぜ生きる目的を探すの?

将来に達するという時間設定の目的が無ければ、なかなか生きる勇気が出てこないのです。「先が無い」という概念は、人間に強烈な恐怖感と不安を作ります。それは耐え難い苦しみです。「あかるい明日がある」というフレーズを歌いながら、人は生きることに挑戦するのです。あかるい明日を目指すべきであるならば、現実的に生きる今は、苦しい嫌なものになります。「今日こそあかるく充実感を味わいながら生きようではないか」と思う人々は、稀でしょう。生きることは現実的に苦で虚しいからこそ、あかるい明日の計画を立てなくてはいけないのです。「生きることは虚しいのだ」と一般常識的に考えると、人は落ち込んでしまいます。無責任に生きる人間になる可能性もあります。「生きることは虚しいのだ」という現実を、一般常識を超えた角度から観察しなくてはいけないのです。それなのに、俗世間では、「虚しい」という事実を無いことにして、明日達するべき目的に向けて力いっぱい頑張るのです。

人生はあらかじめ定められているのか?

そのように思う人々もいます。自分は定められたプログラムどおりに生きれば良いと思って、安心しようとするのです。しかし、このような考えは、悪い環境に生まれた人々、精神的・身体的弱みを持って生まれる人々にとっては残酷な話になります。とはいえ、何も定められていないのだ、すべて不確定だ、という話にも問題があります。よく見ると、人間も他の生命体もそれぞれのパターンがあって、そのパターンに合わせて生きているのだと発見できます。日本に生まれる人は、日本人共有のパターンに人生を合わせる。ドイツに生まれる人のパターンは、日本人の生きるパターンとはある程度で変わります。もっとも、日本に生まれた人も決まったパターンを捨てて、例えば西洋人の生きるパターンに合わせることは可能です。

けれども、この生きるパターンはそれほど根深いものではありません。自分好みで変えられます。この問題に取り組むために、枠を拡げて見なくてはいけないのです。仏教が真理を語る場合は、この枠を極限に拡げます。生命、有情、衆生、sattāという言葉を使っているのです。生命という枠には、梵天・魔天・神々・人間・畜生・餓鬼・地獄の生命すべてが入ります。生きる目的を考えるならば、極限に拡げたこの枠の中で答えを見出さなくてはいけないのです。

命の定め

これから、生きる目的を「生命」という枠で考えてみましょう。そうすると、共通のパターンを見出だせます。「定め」という言葉は仏教的ではないのです。なぜならば、生命の共通パターンであっても、それは変えられるからです。生命の共通パターンを発見することは、一般常識で生きている人々にはできないのです。ですから、真理を発見したブッダが出した答えを理解することにしましょう。

無明

生命は、生きることで精一杯なのです。自分の命を支える仕事にすべての時間を費やしてしまいます。「生きる目的は何?」と探す前に、「生きるとは何?」と調べなくてはいけないのです。それが順番です。生きることで精一杯の人には、「生きるとは何?」と観察する暇はありません。だから、誰一人も「生きるとは何?」と知らないのです。その状態にお釈迦さまが「無明」というのです。生きるとは何かとわからないまま、でも必死で生きようとしています。手段を選ばず、生き続けるために頑張っているのです。そこで、生命が生かされている基礎パターンが見えます。それは無明です。無明の衝動で生きようとしているのです。梵天も神々も同じです。

煩悩

生きるためにエネルギーが必要です。こころを刺激させて、このエネルギーを作ります。肉体が壊れないように保つために栄養が必要です。どんな苦労をしてでも、身体を支える栄養を探すためのエネルギーはこころが与えてくれます。仏教用語で「煩悩」と言うのです。数えれば千五百くらい煩悩があります。しかし、各生命体に働く煩悩はそれぞれ違います。人間の次元であっても、煩悩の働きに差があります。例えば、人間に欲があります。犬にも欲があります。とはいえ、人間の欲と犬の欲は同質であっても同様ではないのです。生命という大きな枠で考えると、千五百の煩悩を貪瞋痴という三つに集約して見ることもできます。そこで結論を考えましょう。すべての生命は、無明と貪瞋痴の衝動で生きています。言葉を変えると、煩悩によって「生かされている」のです。生きるとは、煩悩があらかじめ定めたプログラムに合わせて活動することです。悪く言えば、みなロボットなのです。

煩悩が煩悩を作る

生命は貪瞋痴の衝動で生きているのです。生きるためにエネルギーは貪瞋痴が与えてくれます。人の場合を考えましょう。貪瞋痴があるから、勉強したり仕事をしたり金儲けをしたりする。それから、結婚して家族も作る。さらに社会に認められ称賛されることもやろうとする。自分の生きるパターンの妨げになるものを壊したり抑えたりする。このように生きてきて、人はさらに貪瞋痴を積み上げるのです。例えば、欲があるから仕事をする。仕事をすれば収入を得る。得た収入に欲を抱く。収入を得たからと言って、欲が消えたわけではありません。かえって欲が増えただけです。そうなると、さらに収入を増やしたくなります。希望どおりに収入が得られない場合は、落ち込んだり悩んだりするのです。それらは怒りの煩悩です。怒りはさらなる怒りを生みます。だから、落ち込み始めたら、それを原因としてさらに落ち込むはめになるのです。煩悩とは、生命が生かされるエネルギーです。ふつうのエネルギーなら使えば減るはずですが、煩悩は新たな煩悩を作るので、この循環には終わりがありません。循環の中で生きる生命に、「じゅうぶん、満足、満たされた、終わった、二度といらない」などの気持ちは無いのです。この命の流れは、個体の死によっても終わりません。お釈迦さまは命を司るエネルギーに「渇愛」という言葉も使っています。これは命の共通パターンです。

女神の疑問

命のパターンについて、ある女神がお釈迦さまに尋ねたのです。

人間の中でも、一番たちが悪いのは王です。王は国のすべての生命よりも豊かで金持ちです。国は全体が王様の所有物です。国民は汗水たらして働いて、王をさらに豊かにします。国の全財産が自分のものになっているのに、王の欲だけは満たされることが一切ないのです。できることなら隣国も攻めて、自分の所有物にしようと目論みます。その欲を満たすために、国民が犠牲にならなくてはいけないのです。権力を拡大したい、国土を拡げたい、収入を増やしたい、などなどの欲にはキリがありません。逆に言うと、国民よりは王が元気です。力いっぱいです。一般人と桁違いの貪瞋痴に生かされているからです。

大きな財あり、大きな富あり 国土を有する王族はまた
愛欲に飽きることがなく 互いに強く貪り求める

女神の問い

煩悩の衝動で、ロボットのように人(王)は生きているのです。「いくらあっても、さらに欲しい」と思って、生きることに頑張っています。「満足、満たされる」という気持ちは、この人間どもに縁が無さそうです。愛欲の奴隷で生きるこの戦いには、終わりが成り立たないのです。ですから、理性のある人がやるべきことは、愛欲を止めることです。しかし、人間の生き方を見ると、愛欲を増やす罠に嵌っているだけで、愛欲を減らす方向へ生きる人は見当たりません。「そのような人がいるのか?」と、女神は問うたのです。

生存の流れに随順し 貪り求めるかれらのうちで
誰がここで渇愛を捨てたか 誰が世界の不貪求者か

ブッダの答え

大胆な革命を起こさなくてはいけない。パターンを破らなくてはいけないのです。世間は「財産は良いものだ、子孫は良いものだ、感情の刺激は楽しいものだ」と言い張っているが、そのような考えは知識でも理性でも発見でも何でもありません。人間というロボットに埋め込まれた感情のアルゴリズムに合わせて反応しているだけです。それを破らなくてはいけないのです。この意味を具体的にわかり易く言うならば、家族を捨てることです。財産を捨てることです。家を捨てて出家することです。愛欲と怒りを捨てて、無明を破るのです。煩悩という衝動が、こころに一切無い人間になってみることです。その覚者に、「もっと頑張らなくては、もっと儲けなくては」という衝動が消えるのです。

家を捨てて、出家し 子、家畜、愛しいものを捨て
また貪と瞋を捨て 漏を尽くしている阿羅漢
かれらは世界の不貪求者なり

反社会主義ではない

ブッダの答えは、表面的に「反社会的」に見える恐れがあります。それは、生きることの定義の問題です。人間にとっては、人間の命だけが命です。すべての哲学・思想は、人間という枠の中に制限されています。仏教は「生きる目的は何でしょうか?」ではなく、「生きるとは何?」という問題に答えを探すのです。そこで枠を極限に拡大して、「生命」という概念を使うのです。そうすることで、すべての生命は無明と貪瞋痴のプログラムで動いている個体であることが見えてきます。あらかじめ定められたアルゴリズムに合わせて反応するロボットなので、始めからカッコ悪いのです。決して「尊い命」ではありません。だから、革命を巻き起こして、貪瞋痴のプログラムを壊して、自由にならなくてはいけない。その境地こそが「解脱」なのです。

今回のポイント

  • みな生きる目的を探す
  • 目的が無いと理解すると「生きることは苦である」と発見する
  • 生命は一向に達しない「あかるい明日」を目指す
  • 理性のある人は貪瞋痴のプログラムを削除する