パティパダー巻頭法話

No.308(2020年11月号)

宝物に見える汚物

肉体には愛着にあたいする価値は無い Requiem to the body

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Catucakkasuttaṃ(SN 1.29)
四輪経(相応部1.29)

  • Catucakkaṃ navadvāraṃ
    Puṇṇaṃ lobhena saṃyutaṃ
    Paṅkajātaṃ mahāvīra
    Kathaṃ yātrā bhavissati
  • Chetvā naddhiṃ varattañca
    Icchā lobhañca pāpakaṃ
    Samūlaṃ taṇhamabbuyha
    Evaṃ yātrā bhavissati
  • (女神)
    大雄よ、汚泥の性をそなえ
    貪りに結ばれ、満ちている
    四の輪、九の門がある
    どのようにして脱出できるか
  • (釈尊)
    綱と革紐そしてまた
    悪しき欲と貪を断ち
    根をもっている渇愛を抜く
    このようにして脱出できる
  • ※経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    〈サンユッタニカーヤ〉有偈篇1』大蔵出版

大事な身体

人々は身体のことだけ心配して生きているのです。科学の発展、経済成長は身体のためです。身体が大きな病気に罹ったら、人は惜しみなく財産を使って治療しようとします。治らない病気だとわかったら、それは最大のショックになるのです。身体の形を自慢するコンテストなどに莫大な金額を使い、ミス・ワールドという冠をかぶせて大騒ぎします。男性の場合も筋肉自慢のコンテストがあります。オシャレ世界はすべて、肉体のためです。人は高価なアクセサリーで身を飾ります。しかし、貧困で悩んでいる人々を助けるためにはそれほど力を注がないのです。話を省略しますと、身体は人々にとって「神様」なのです。身体が要求することは何でもやります。この肉体にそれほどの価値があるのでしょうか? 罪を犯してまで守る価値があるのでしょうか? しかし、人は死にます。死体を保存して拝むことはしません。埋葬したり、火葬したりします。億単位で金をかけて大事に守った身体であっても、最期に埋葬したら土に戻るし、火葬したら灰になるのです。

肉体至上主義で洗脳されている

最期には必ず灰になる肉体のため、昔も今も人類は全力を尽くしています。人間の知識、技術、地球の資源、すべて肉体を維持管理するために使っているのです。チベットにある面白い習慣を思い出します。チベットの密教仏教では、砂曼荼羅という儀式があります。何ヶ月もかけて、砂でとても美しい曼荼羅をつくるのです。出来上がったら、驚くほどの芸術作品になります。しかし、ただの砂ですから、丁寧に扱わなくてはいけません。間違ってくしゃみでもしたら、作品が台無しになってしまいます。たくさんの人々が何ヶ月もかけて、とても丁寧に描いた美しい曼荼羅が完成したら、短い法要を行います。それから、あの曼荼羅を川に流してしまうのです。曼荼羅はまぎれもなく、プロのラマたちがつくった芸術作品です。しかし、曼荼羅の美しさもプロの芸術家たちの努力の粋も、瞬時に跡形もなく消えるのです。砂曼荼羅の儀式は、人間の生き方を象徴しているように思えます。人間も肉体を拝んで、肉体の要求をなんでも聞いてあげて、肉体のために全力を尽くして、しかし死んだら何の躊躇もなく火葬して灰にします。肉体の奴隷になること以外、他に大事なことがあると誰も思わないのです。肉体至上主義で皆、洗脳されているようです。こころを清らかにするために説かれている仏教の修行には、誰も興味を持ちません。しかし、「瞑想実践すると病気が治る、健康になる、長生きできり、皆に好かれる人間になる、人生が大成功する」などなどの売り文句を言いふらしたら、瞑想実践のために巨大なスポーツ・スタジアムを使わなくてはいけなくなるのです。参加者は一年前から予約が必要になります。言い過ぎのたとえ話かも知れませんが、ポイントは、「肉体至上主義で皆、洗脳されている」ということです。

女神に見えた身体

ある女神が身体のことを観察してみました。女神にとって身体は、高価なブランドの品物で飾って見栄を張るべき素材には見えなかったのです。人間が自分の身体を見ている見方と、女神のそれとは正反対です。試しに、女神には肉体がどのように見えたのかと勉強してみましょう。

四つの輪(catucakkaṃ)

肉体には四つの輪が付いているようです。それならば、身体というよりは車でしょう。車には存在価値も無いし、自慢することもできません。誰かに使用される道具に過ぎないのです。身体を車(馬車か牛車)に見立てる時点で、「かけがえのない尊いものである」という洗脳された考えを茶化していることがわかるのです。それにしても、四つの輪とは何のことでしょうか?

肉体とは動くものです。動かないならば、ただの物体です。「私の尊い肉体だ」と錯覚を惹き起こしても、肉体が動かなくては何の意味もないのです。車が車として機能するのは、車輪が付いているからです。車輪が無かったら、ただの粗大ゴミでしょう。身体の動きは大きく分けると四つです。それは行住坐臥と言われます。歩くこと、止まること、座ること、横たわることです。その中で、手をふること、まばたきすること、回ることなどの詳細な動きもあります。車にしても同じことです。車輪は回転するだけですが、その結果、車にはたくさんの動きが起こるのです。身体の動きを精密に語る時は、「膨らむことと縮むこと、という二つに限られている」と経典に説かれています。「身体に四つの車輪が付いている」と語ることで、女神は人間が肉体に抱くすべての価値観を却下しました。女神は幻覚で肉体を見ることなく、客観的にありのままに見たのです。

九つの門(navadvāraṃ)

身体に九つの門があると説かれています。豪華なお城であっても、門は四つです。門が九つも建てられているならば、地球上にあるどんなお城よりも立派でしょう。「身体はお城よりも大事だ」と思いたいでしょう。九つの門とは何なのかと調べてから、結論づけましょう。ここでいう「門」とは、「穴」を意味します。身体には九つの穴があります。目に二つ、耳に二つ、鼻にも二つです。それから、口と泌尿器と肛門に一つずつです。次に、「その門から出るものは何か?」と考えましょう。細かく言わなくても、宝物が出ないことは確かです。金になるものは何ひとつも出ません。出るものは、身体を持っている本人さえも嫌がる不浄なもの、つまり汚物です。人は貪って豪華で美味しいものを食べますが、もし胃袋からそれを嘔吐したならば、豪華と思えるでしょうか? 美味しそうと喜ぶでしょうか? 再び取って食べたくなるでしょうか? 九つの門からは、汚物しか出ません。人は肉体が生産する製品を早く身体から捨てたいのです。決して触れたくはないのです。つまり、客観的に観察するならば、「身体とは汚物を生産する工場に過ぎない」という結論になります。地球の財産をかけて、汚物の生産工場を大事にしているのです。女神にとって身体は、尊いものではなく汚物の生産工場でした。

中身はいっぱい(puṇṇaṃ)

身体の外に九つの穴がありますが、身体の中はさまざまな臓器でギュウギュウになっています。身体の中で空きスペースはまったくありません。では、身体の中は宝物でいっぱいでしょうか? 一般人は身体の中身を見たくはないのです。死体を開けてみると、ほとんどの人々は気持ち悪くて目を背けるのです。身体の中身も、不浄なものでいっぱいです。人はものごとをありのままに見たくはないのです。自分の妄想概念にあわせて、現実を無理矢理変えようとします。人が亡くなったら、親族は遺体を葬儀屋さんに任せます。自分では見たくもないし、触りたくもないからです。そこで葬儀屋さんができるだけ誤魔化しをして、上辺だけきれいに見えるようにして、棺に収めて親族に渡すのです。昔は火葬などを親族が行いました。今は、親族は葬儀屋さんの誤魔化しドラマを傍観しているだけです。遺体に「ホトケサマ」と言ったら、すべて解決だと思っているようです。そのおかげで、洗脳されたまま生き続けられるのです。

愛着に陥る(lobhena saṃyutaṃ)

肉体は汚物で出来ている不浄な組織なのに、肉体に対する愛着は想像を絶するものです。もし人が「あなたは汚物に愛着を持っている」と言われたら、激怒するでしょう。誰も「私の身体は汚物で出来ている組織だ」と思わないのです。自分の身体に愛着を持っています。さらに自分の身体を維持管理するためにサポートしてくれる家族・友人などにも愛着を持っているのです。それだけでは飽き足らず、地球の土にも愛着しているのです。単なる地球の土に「財産」という誤魔化しの言葉まで貼り付けているのです。

汚物から生まれる(paṅkajātaṃ)

人間は宝物から生まれません。神様が清らかな魂を持ってきて、肉体にくっつけて人間を作るわけではないのです。人間がどのように生まれるのかと、皆知っているでしょう。それは性行為の結果です。性行為をする場合、精液という汚物と身体の他の液体が混ざるのです。それで精子と卵子が合わさって新たな命があらわれます。精子も卵子も汚物なのです。ですから、仏教用語で「人間は汚物から生まれるのだ」と語るのです。汚物から生まれた身体を持っているのに、人間は自分が尊いと思っています。他を軽視し、差別するのです。自分自身が汚物で出来ている、汚物を生産する工場であるとは間違っても思わないのです。Paṅkaという単語には、汚物の他に「泥」という意味もあります。ここで「泥」という単語を使っていることには別な意味があります。仏教の世界では、解脱に達した人を蓮の花に喩えていることはよく知られています。蓮は泥の中で育つものです。しかし、花は泥から上がって、泥に汚れることは一切なく、美しく咲くのです。蓮の花には泥が付きません。しかし、蓮の花は泥から生まれるのです。そのように、不浄から生まれて、不浄の身体と不浄のこころを持つ人が、仏道を実践することで完全に清らかなこころをつくるのです。つまり、解脱に達するのです。覚者の身体も不浄ですが、こころは蓮の花のように、不浄に汚れることなく美しく輝くのです。

どうすれば洗脳から抜ける?(kathaṃ yātrā bhavissati?)

人間はあまりにも勘違いばかりで、錯覚に潰されて、洗脳されて、肉体にこの上のない価値を入れて、切っても切れない執着を持って生きています。人間は罠にかかっているのです。身体は汚物であると理解する能力すら無いのです。脳みそには「身体は何よりも価値あるものだ、何としてでも守るべきものだ」というアルゴリズムが入っているから、肉体を肯定する話なら理解できるが、「肉体は不浄である」という話は脳に処理することすらできない。女神はこの罠から抜ける方法をお釈迦さまに尋ねたのです。これはブッダにしか答えられない質問です。

ブッダが説く解決策

肉体が不浄であることはどうにもならない事実です。「不浄」という単語を使っているのは、戒めのためです。人間は「肉体が何よりも価値がある清らかで尊いものである」と錯覚を惹き起こして生きているのです。この問題はヨーガを指導する師匠たちの間でもよく見られます。ヨーガとは、こころを育てる・こころの汚れを落として智慧を開発するプログラムです。仏典でも、修行にyogaという単語をたまに使います。しかしヒンドゥー教のヨーガ世界では、魂がもともと全知全能で清らかなものであると思っています。ただし、現時点では魂が汚れているのです。ヨーガを実践して汚れを落とさなくてはいけません。とはいえ、こころ清らかにすることには誰も興味を持たないのです。ですから、「ヨーガを実践して健康な身体をつくろう」という話にしたのです。それでヨーガは世界的に売れる商品になりました。要するに、罠から抜けたのではなく、罠を正当化してしまったのです。そのために「清らかな肉体に清らかな魂が宿る」というコピーもつくりました。残念なことですが、清らかな肉体などどこにも存在しないのです。ということは、清らかな魂もまた「ウサギの角」に類した話に過ぎません。仏教以外は、この矛盾を解決していないのです。

まず、肉体は不浄であると理解すること。それで、肉体に対する愛着が薄くなります。しかし、身体が汚物だと突き詰めて考えると、嫌な気持ちに陥って怒りの煩悩をつくる可能性もあります。ですから、「肉体は地水火風である」と理解するのです。地水火風はすべての物質を構成するエネルギーです。川も海も森も地水火風です。地球も太陽も地水火風です。そのように客観的に見ることができると、肉体に対する愛着が無くなって「捨・upekkhā」という状態になります。

勝負はこころにある

肉体に当たっても意味がありません。苦行しても意味がありません。肉体はただの地水火風です。問題はこころにあります。錯覚はこころが惹き起こしたのです。愛着・恨み・憎しみなどなどを惹き起こしたのは「こころ」です。ですから、仏教のヨーガは、菜食主義になって運動することではありません。こころの問題を解決する道です。女神に答えたお釈迦さまは、こころを清らかにする道を教えます。Chetvā naddhiṃとは、恨みを断つことです。これには順番があります。まず人は怒ります。それから、その怒りを忘れずに憶えておきます。頭の中で妄想して、繁殖させるのです。それが「恨み」になります。怒りと恨みをまとめたら、強烈な怒り・激怒という感情になります。お釈迦さまは「何としてでも、恨みを含む激怒を断ちなさい」と説かれるのです。Chetvā varattaṃ革紐を断つことです。革紐はふつうのロープと違って力強いものです。ここでは紐という言葉で「束縛・煩悩」を意味しています。一般的には、「渇愛」という単語を使うところです。人間は肉体に対して渇愛を持っています。だから、肉体をいじるのではなく、「汚物には愛着を持つ価値が無い」と理解することで渇愛を断つのです。それから、こころの弱みについて、さらに語られています。Icchāとは、希望すること、期待することです。

結局は希望・期待も肉体のために行っているのです。これは、こころを清らかにしたい、煩悩を無くしたい、解脱に達したい、というような希望とは違います。修行者は、肉体に対するすべての希望・期待を断つべきなのです。Lobhaṃとは、誰もが知っている欲のことです。Pāpakaṃは、その他の不善感情です。修行する人は、その都度その都度あらわれる煩悩を戒めていきます。しかし、貪瞋痴はさまざまな形であらわれます。解脱を目指す人は、煩悩をすべてまとめて観察したほうが結果は早いのです。煩悩を集約した単語として再び「渇愛」という言葉が出てきます。最初は「革紐」という単語を使いましたが、最後に専門用語をもちいて、「渇愛を根こそぎに断つべきである(Samūlaṃ taṇhamabbuyha)」と説くのです。このプログラムを実行する人こそが、罠から抜けるのです(evaṃ yātrā bhavissati)。

今回のポイント

  • 人間は肉体のために力を尽くしているのです
  • 肉体は価値のある物体ではありません
  • 肉体は汚物で出来ている汚物の生産工場です
  • 修行とは肉体をいじめる苦行ではありません
  • 渇愛を無くす人が自由になります