パティパダー巻頭法話

No.310(2021年1月号)

善友のいることが幸福です

仏道は善友によって成り立ちます Right influence

アルボムッレ・スマナサーラ長老

新年の祝福

新年を迎えることになりました。三宝のご加護により、平和で安穏に暮らすことができますようにと祝福いたします。日々、慈悲喜捨の気持ちをもとにして生活するならば、世でつねに起こる災難の波から身を守ることができると思います。ついでに、人にとって幸福をもたらす最高の宝物はなんなのかと考えてみましょう。

不安と迷信は表裏一体

ブッダの教えに迷信まがいの話がないことは、皆様ご存知だと思います。しかし、人々は迷信的な話を好むものです。生きることは先が読めない戦いです。だから、超エリートの方々にも、一般の方々にも、不安があるのです。こころに不安があるゆえに、迷信的な話も好みます。仏教には長い歴史があるので、その流れの中でいろいろ変化が起きました。本来は解脱を目指して智慧を開発する実践方法だったのに、周りの宗教の影響や、一般人の不安を和らげてあげたいという気持ちが入ったことで、信仰的な要素が大量に流入してしまったのです。宗教独特の性質のすべてが、仏教にも揃っています。そういうわけで、仏教においても、わけがあろうがなかろうが人々を祝福する習慣が根付いているのです。人を祝福しても幸福にならなかったら、宗教としての立場が弱くなります。だから祝福しつつ、「日々、慈悲喜捨の気持ちを忘れないように」と戒めるのです。慈悲喜捨の気持ちで生活するならば、他人からあえて祝福してもらう必要はなくなりますから。

善友は宝物

では、すべての幸福をもたらす最高の宝物は一体なんでしょうか? 答えは善友です。納得いかない? お釈迦さまは、「善友に恵まれたら仏道を完成することができます」と説かれたのです。要するに、善友がいるならば、俗人にも解脱に達した聖人になることができます。俗世間的な幸福については言うまでもありません。新年という考えもあるので、この「善友」について、少し理解を深めてみましょう。

善友・悪友の区別

善友という概念は大切な仏教用語なので、その意味は俗世間で考えるそれと違います。我々は一般的に、人々に「善友・悪友」というレッテルを貼って面白がっています。「あなたは悪友だ」と言いつつも、その人々と仲良くします。悪友と名づけたがる人々は、結局はいちばん親しい人々なのです。善友と名づける人々と、それほど親しく付き合いたくはないものです。結局のところ、俗世間の善友・悪友という概念は、それほど重要な意味を持っていないのです。

仏教の場合は違います。善友とは、人々が苦しみの道から離れる手助けをして、人格向上の道に入れ替えて、解脱に達するまで人を助ける存在なのです。仏教用語で悪友というのは、不善行為・罪を犯す生き方を応援する人々のことです。だから、賭け事の仲間、喫煙仲間、飲み友達、ナンパする仲間、無駄話をする仲間などなどのグループは、悪友のカテゴリーに入ります。そのような仲間に入ってみれば、なんの躊躇もなく悪いことをする勇気が出てくるのです。勉強の仲間、研究グループ、仕事の仲間などなどは、悪友カテゴリーに入りません。悪友ではないが、仏教的には善友とも言えないのです。善友とは、自分の悪をなくすために、善を行うために、協力してくれる人のことです。叱って怒鳴ってでも、友達を悪行為から守るのです。俗世間では、それほど道徳を気にしないのです。だから、善友は稀な存在です。善友は同じ年代・同じ性別になる必要はありません。善友は相手のことを慈しんで、心配します。相手の成長を好んで、こころを清らかにする実践を支えてくれるのです。

この定義を見ることで、「善友は稀な存在である」と理解できると思います。そうなると、人々は善友にめぐりあうことなく悪友たちに混じって生活するはめになります。ゆえに、お釈迦さまは「自分自身が人々の善友である」と説かれたのです。ブッダのしつけを受けることは誰にでもできます。ブッダの教えはすべての人類に完全に開放されています。だから、「善友がいない」と悩む必要はないし、悪に染まった生き方の言い訳として「善友に恵まれるチャンスがない」と嘆く必要もないのです。

善友の讃嘆

仏教徒ならば、自分の修行人生は善友なしに成り立たないと知っているのです。現在は善友よりも、「指導者」という言葉のほうが流行っています。それでも、指導する側は、指導を受ける人々のことを「生徒」とは言わないのです。「修行の仲間」と言うのです。上からものを言う習慣は、仏教的ではありません。説法する時も、聴聞者は仲間であり友人なのです。この習慣は、いまだに守られています。テーラワーダ仏教では、お釈迦さま以外、宗祖様たちはいないのです。

ある日、仏教徒の女神たちが善友について話し合ったのです。その女神たちにsatullapakāyikā
devatāと名づけられています。それは天界の特別な次元という意味ではなくて、「仲良しでよく話すグループ」という意味になります。それぞれの女神は、自分がどれほど善友に助けられたのかと話し合いました。その会話の結論をお釈迦さまに報告することに決めたのです。女神たちは偈をつくって、ブッダの前で発表しました。

女神①

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, seyyo hoti na pāpiyo”ti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、その人は善人になります。悪人にはなりません」と。

この女神は善友とつきあうことで、その人も善人になるのだと詠っています。本人の経験かも知れません。善友にめぐりあえなかったならば、本人も悪に染まって悪趣に堕ちる可能性があったのだろうと推測できます。

女神②

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, paññā labbhati nāññato”ti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、智慧が得られる。そうでなければ得られない」と。

二番目の女神は、勉強家のような気がします。善友にめぐりあったことで、仏法という真理を知ることになったのです。俗世間の知識ではなく、真理にもとづいた智慧が顕れたのです。もし、善友に恵まれなかったならば、人生は無知なままで終わった恐れがあったのだろうと推測できます。

女神③

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, sokamajjhe na socatī”ti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、憂いの中にいても憂うことはない」と。

また、推測です。この女神は人間でいた時、悲しい出来事に遭遇して憂いに陥ったのでしょう。その時、善友があらわれて真理を語り諭したのだと思います。憂い悲しみの状態を乗り越えて、安穏な精神になることができたのでしょう。ゆえに、善友にめぐりあったことで憂い悲しみを乗り越えることができたと詠ったのです。

女神④

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, ñātimajjhe virocatī”ti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、親族の中にあって輝く」と。

この女神が人間でいた時は、親族の中でリーダー的な存在であったと推測します。インド文化では、女性に社会的な立場がなかったのです。女性の智慧は指二本程度だと言われていました。要するに、頭が悪いという意味です。そのフレーズを作ったバラモン達は、女性たちがその二本指の智慧で、人間を生かしてくれていることを忘れているようです。二本指であらわされているのは、塩加減をチェックする能力です。その能力を軽視してはいけないのです。すべての人間は、女性が作る料理で健康に生きています。しかし、「私たちが居なかったらあんたがたは早死になりますよ」と反論する勇気は女性たちになかったのです。男性を優先する文化が、女性の力を抑えていたからです。そこで善友にめぐりあい、仏教の真理を知ったのです。女性にも、阿羅漢になる能力が男性と平等にあることを理解したのです。それからは、男性たちの間違いも諭す勇気を持てるようになったでしょう。勇気を身につけたその女性は、親戚の間で輝いていたのです。

女神⑤

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, sattā gacchanti suggati”nti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、人々は善き世界(天界)に趣く」と。

この女神のエピソードはわかりやすい。善友にめぐりあうことがなかったら、俗世間の一般女性として生活して亡くなる運命だったのです。女性は一般的に、愛着などの感情が強いものです。家族に強く執着してしまうのです。家族のためなら、悪行為でも犯します。人間を生んで育てる生命体なので、女性は愛着・執着という感情に厳しく束縛されるのです。しかし、業は性別を気にしません。悪行為には悪果です。その行為を犯したのが男性か女性かは関係ないのです。そのように見ると、女性には生得的なハンディがあるのです。それは子孫に対する愛着です。家族に対する愛着です。人間を生んで苦労して育てて、苦労して家族を守って、その結果、死後、悪趣に陥るというならば、話はあまりにも残酷です。

女性には、とりわけ救いの道が必要なのです。しかし、宗教は女性を助けてくれません。男女差別は宗教が作ったものです。女性は不浄な存在であると、ユダヤ教でも言っています。「アダムが神に逆らったのはイヴの誘惑のせいである」と聖書は物語るのです。女性に育ててもらった人間が、なぜ女性を軽蔑するのか、理解し難いことです。この女性は、善友にめぐりあって仏教が語る正法を知ることになったのです。こころを汚すことなく、生活する方法を理解したのです。その結果、死後、天界に生まれました。善友にめぐりあったお陰で、自分は天界に生まれることができたのです。

女神⑥

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, sattā tiṭṭhanti sātata”nti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、人々は揺らがない喜びを持つ」と。

この女神は、前の五人よりも精神的に優れていたようです。善友にめぐりあって、正法を知ることになって、精神の安定に達したのです。つねに喜びを感じる精神に変わった、ということです。ふつうの人間の気持ちは瞬時に変化して、揺らいでしまいます。一般人には、精神の安定は縁のない話です。この女神は、他の人々に稀な経験である精神の安定に達していたのです。一般的な言葉でいえば、「幸せいっぱい」ということです。

発表の終了

女神たちはブッダの教えに従い、「善友とはいかに大切な宝物であったか」と、各々の経験にもとづいて語りました。女神といえども女性なので、誰の言葉が最優秀賞なのかと知りたかったのです。お釈迦さまの立場では、皆よく自分の経験をふまえて善友を讃嘆しているので、同点なのです。それでもうるさい人が順番をつけたがるならば、経典の順番にしたほうがよいのです。六番目の女神が、よりよい幸福な結果を得ていたような気がします。

お釈迦さまのまとめ

お釈迦さまは、「皆の言葉とも見事でした」と語ったのです。しかし、女神たちは善友にめぐりあうことの最大の結果を経験していなかったのです。善友とつきあう結果は、相手が死後、天国に生まれるように協力してあげる程度のことではないのです。善友は、人々が苦しみを乗り越えて解脱に達するように導くのです。善友にめぐりあうことがなければ、人は解脱に達しません。お釈迦さまは最後に、女神たちが忘れていた、あるいは経験していなかったポイントを偈に入れて語ったのです。

“Sabbhireva samāsetha, sabbhi kubbetha santhavaṃ;
Sataṃ saddhammamaññāya, sabbadukkhā pamuccatī”ti.
「つきあうのは善友たちだけにしなさい。親交するならば善友たちにしなさい。
結果として正法を知ることになるので、一切の苦から解脱する」と。

(SN1-31 Sabbhisuttaṃ 相応部1-31「善友たちと共に」経 和訳:スマナサーラ長老)

今回のポイント

  • 仏道は善友によって成り立ちます
  • 単独人生は成り立ちません
  • 他の人間とのつきあいが欠かせない
  • 幸福をめざすならば影響を受ける人間を善友にします
  • 善友以外の人々に慈しみで接します