No.323(2022年2月号)
瞬間と真理
不放逸の人は瞬間を知る The absolute moment
今月の巻頭偈
2. Appamādavaggo
第二章 不放逸
-
Appamādarato bhikkhu
Pamāde bhayadassi vā
Saṃyojanaṃ aṇuṃ thūlaṃ
Dahaṃ aggīva gacchati
-
不放逸を好み、
放逸におそれをいだく修行僧は、
微細なものでも粗大なものでもすべて心のわずらいを、
焼きつくしながら歩む。燃える火のように。
-
Appamādarato bhikkhu
Pamāde bhayadassi vā
Abhabbo parihānāya
Nibbānasseva santike
-
不放逸を好み、
放逸におそれをいだく修行僧は、
堕落するはずはなく、
いつでもニルヴァーナの近くにいる。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より ※一部改訳
不放逸
これまで不放逸の解説を連続して書いてきました。注釈書では仏説に忠実に、「修行することが不放逸な生き方である」と説いています。注釈書は「不放逸という一語に仏道のすべてが集約される」と認めますが、「それはなぜなのか?」という説明まではないのです。ダンマパダの不放逸品を解説することになったので、この大事な単語に仏道のすべてが入っている理由について、説明を試みてきました。
幻想の世界
繰り返すことになりますが、不放逸の世界について、言葉を変えて再び解説しましょう。
我々が「ある」と思っている現象、「存在する」と思っている現象、すべてはこころが捏造する概念なのです。人はこころが作った世界に囚われて、真理を知らぬまま生活しているのです。こころが汚れることも、煩悩が現れることも、幻想に執着して限りのない悩み苦しみを作ることも、その結果です。我々が束縛されている捏造された概念のすべては、面白いことに「過去」に属するのです。
過去とは、存在しないものです。また、人には将来を認識することができないにも関わらず、それに気づいていないのです。平気で将来のことを企画したり、イメージしたりもします。さらに、予言者たちも、将来をうらなう占い師たちもいます。しかし、誰にも将来を認識することはできません。皆がやっているのは、過去に起きた出来事を自分の妄想概念で組み立てて、新しい捏造概念を作ることに過ぎません。将来のイメージだと言っても、それは単純に過去の出来事の新たな組み換えなのです。「過去にはその出来事がなかったので、将来に起こるだろう」と推測するのです。
時という観点で見ると、我々はもっぱら過去の概念のみを使用して生きています。過去は実在しないものなので、「我々の人生は過去の幻覚に閉じ込められている」と言えるのです。
真理の瞬間
過去と将来は実在しないけれど、現在は実在すると言えるのです。問題は、現在の時間間隔です。本当の現在は「今の瞬間」と言うべきものです。一秒であっても、長い時間なのです。一秒はより小さな時間に分けてみることができます。科学世界では「ナノ秒」という概念を使いますが、仏教で語る「瞬間」がナノ秒の概念に合っているかわかりません。瞬間とは、時間の最小の単位で、瞬間の半分は成り立たないのです。真理とは、その瞬間で起こる出来事なのです。
一秒の出来事を瞬間の概念で説明すると、たくさんの出来事の流れを一つにまとめたことになります。瞬間の出来事を認識するためには、瞑想実践が欠かせません。普通の人のこころには、一秒は存在しても、瞬間は存在しない時間単位なのです。人が現在を知るならば、真理を知ることになります。現在とは瞬間なので、「真理の瞬間」と言っておきましょう。
現在を知る修行
不放逸の生き方とは、「現在に起こる出来事を理解するために努力すること」です。これは修行を要する仕事です。例えば、人には一秒の長さの音はいとも簡単に聴こえます。同じ音でも、百分の一秒の音はどんなふうに聴こえるでしょうか? ふつうの耳には百分の一秒の音は認識不可能なので、存在しないことになります。集中力を極度に高めて音を認識すると、音ではなく音波を感じます。音波は音ではないのです。音波が耳に触れると、耳にも感覚の波が起きます。その感覚の波をこころが受け取って、「音」という認識を作ります。ゆえに、音とはこころが作る現象なのです。
外に音が有るか無いかは、確かめられないことです。集中力を高めて音を認識する場合は、「空気の振動をこころが音として認識したのだ」と知るのです。「その〈音〉という認識に執着する価値はない」と理解します。音に基づいて様々な感情を作り出す、一般人の捏造(papañca)の流れも起きません。「〈音〉とは因縁の組み合わせで瞬間に起こる出来事に過ぎないのだ」と理解するのです。ですから、現在を知ること、真理を知ることが修行の結果になります。これは、俗世間では起こり得ない出来事です。
不放逸を好む
ブッダの教えを理解して納得する方々は、幻覚・幻想に閉じ込められて生きる生き方をやめたくなります。現在を知ることに努力するのです。そこで「幻覚を破って真理を知りたい」という強い意欲が必要になります。「すべては無常だ」と言っただけで、ただ理解しただけで、こころの闇は消えません。「真理を自分自身で必ず体験してみる」という意欲が起きて、その目的をめざして努力する修行者のことを「不放逸を好む人」と言うのです。
放逸を恐れる
すべての生命は、放逸に耽って生きています。捏造概念に閉じ込められた生き方をしているのです。人間の世界で説明するならば、人は思考すること、妄想することが好きなのです。こころが楽しくなるものを追い求めて生活するのです。楽しくない、納得できない出来事に遭遇しても、何かの言い訳を考えて納得するのです。それから、また楽しみを追い求めます。
そんな世界にあって、修行者は「思考・妄想・感情に耽って生きることほど危険なことはない」と思うのです。真理を発見したければ、真剣に実践しなくてはいけません。俗世間的な生き方に塵ほども価値があると思うならば、修行の妨げになります。だからこそ、放逸を恐れる修行者はブッダが説かれた出家の生き方を真面目に実践するのです。
煩悩を焼き尽くす
不放逸を実践して、現在に起こる出来事のみを認識できるようになったら、煩悩が起きなくなります。現在という時間を、瞬間を認識できるところまでレベルアップしなくてはいけないのです。その過程で、まずは粗っぽい煩悩が消えていきます。それから、微細な煩悩が消えていくのです。瞬間を認識できる人には、無明という闇が消えるので、二度と煩悩が生まれなくなります。解脱者は、亡くなるまで瞬間を認識し続けているのではありません。瞬間の世界は、俗世間には通じないのです。解脱者は世間の概念を使用してふつうに生活します。しかし、煩悩は起きないのです。
堕落しない
不放逸を実践して成功したならば、瞬間を認識することができたならば、覚者なのです。覚者は、俗世間の認識次元も、真理の世界も、知っています。いったん真理を知った方は、再び真理を知らない人に逆戻りはしないのです。
これは例え話で説明したほうがわかりやすいでしょう。自分の子供がクマのぬいぐるみを大事にしていると思ってください。子供はぬいぐるみに名前をつけて、実際に生きている存在のように話しかけたりするのです。寝る時は、「一緒に寝ましょう」と枕のそばに置いて眠りにつきます。親は決して、「この子はバカだ、頭がいかれている」とは思わないのです。それどころか、子供の世界に合わせて、親もぬいぐるみのことを生き物のように扱ってあげます。しかし、その親は決して、子供の妄想の世界に堕落することはないのです。ぬいぐるみはただの品物に過ぎないと知っています。そのように、解脱者も、俗世間の価値観に合わせて話したり行動したりするが、その世界に堕落してしまうことはあり得ないのです。
はじめて蜃気楼を見る人は仰天して驚きます。蜃気楼を目指して、思わず走り出すかも知れません。それからその人は、蜃気楼の仕組みを理解して、錯覚に過ぎないことを発見します。「蜃気楼は光の屈折によって起こる現象である」と理解した後でも、相変わらず蜃気楼は見えるのです。しかし、蜃気楼に対する執着はまったく起きなません。そのように、解脱者が俗世間に合わせて生活しても、堕落して再び煩悩が起こることはあり得ないのです。
今回のポイント
- 人は過去が現在だと勘違いしています
- 捏造の世界は破りにくい
- 現在を知るためには修行が必要です
- 現在とは瞬間です
- 真理は瞬間で発見します
- 解脱者は堕落しない