根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 8

仏教と仏教の違い

アルボムッレ・スマナサーラ長老

私たちはいま現在二十世紀の最後の部分を生きているわけですが、考えてみるとこれは実は大変な時代なのです。というのも、十年前、いや五年前にくらべても情報網の驚異的な発展でいまはニューメディアと呼ばれる時代で、世界中の情報が一瞬のうちに入ってきて、まるでそれは地球上の排泄物がぜんぶ流れこんでくるような様相を呈している有り様です。さまざまな情報がお茶の間で手にとるように分かることは一見大変便利で、いい時代のように錯覚しますが、実は情報公害とでも言えばいいのか、私たち人間には入ってくる情報のどれが正しくてどれが間違っているものなのかの判断がなかなかつかないで困っているという事態もまた多く出てきているのです。

特に日本はマスコミが非常に発達していますから、世界中の出来事がリアルタイムにテレビなどで報道されます。ニュースや事件ならまだありがたいのですが、例えば、今は心の時代だからとかなんとか理屈をつけて、チベットの山のなかで修行僧を映し出しては、これが密教であるとやられる。違うチャンネルでは、中国の深山幽谷で悟りを開いたとかいう僧を紹介して真の仏教はこれだなどと特集番組を組む。見せられる人たちはもちろん専門家ではないので、一知半解な頭のなかへ次々といろいろな情報が詰めこまれ、いったいどれが本当なのか、どれを信じていいのか、自分だけの判断では情報の交通整理が出来なくなってしまうのです。物はあるけれど、いったいその物の実体は何なのか分からなくなってしまい、極端に言えば頭のなかはパニック状態なのです。

いちばん大切なことは、我々は何を信じて、どう生きるべきかということであり、何のために生きるのかの回答を得るために情報を求めているのに、これではますます混乱してしまいます。しかも、間違った選択によって社会問題までひき起こす結果も生まれてきてさえいるのですから、こうなると我々はマスコミのおもちゃという由々しき立場に追いやられているということもできるでしょう。これからの我々は、何とかして情報を自分で判断する能力を身につけなければ、目の前に来ている二十一世紀を生き抜くことが出来ないのではないかとさえ思います。ただ発展していくことを凄いと思うのではなくて、情報過多の時代性に危険を感じるべきなのです。

なぜこういうことを申し上げたかというと、仏教とブッダの教えに対してもいまこの日本で、また世界のあちらこちらで、さまざまな情報が飛びかい、これから謙虚にブッダの教えを学ぼうとしている多くの人々の頭を混乱させているからに他なりません。正しい仏教とは-、正しいブッダの教えとは-、情報過多が真実を歪めている現状のなかで、私たちが心して正しい道へと嚮導きょうどうしていかなくてはいけないとしみじみその責任の重要さを思うのです。

どんな宗教もそうでしょうが、もし仏教を信仰してその教えを実践しているならば、どういう方法が自分にふさわしいのかを判断するということは極めて大切なことです。

まず、仏教は釈迦牟尼仏陀が説いた教えであるということです。当たり前のことのように思われるかもしれませんがこれが基本です。そして、仏教にはこの釈迦尊の教えと世の中で仏教と呼んでいる二つに分けて定義するべきです。なぜ二つに分けるのでしょう。それはこの世の中のいろいろな場所で信仰されている仏教をみると、あきらかに釈迦尊の教えとは思われない、つまりそれぞれのリーダーと目される人が自分なりの解釈や編集や訂正を加えて、独自の宗教として作っている。
それを私はべつに悪いことであるとは思いませんが、リーダーが作ったその宗教を信奉する現代人は自分に情報処理能力がない故にそれもまた仏教であると信じこんでいる、これは違うと知るべきだと思うのです。先程仏教は釈迦尊の説いた教えという認識が基本であると言いましたが、この基本の情報さえきちんと認識していれば、どんな宗教を信仰したとしても、つねにこの基本を判断のメルクマール(物差し)としていれば、判断を誤ることは決してないのです。自分の信仰している仏教団体の根本真理はすぐ分かるでしょうから、それに釈迦尊の教えを照らしあわせてみる。釈迦尊の教えを知っている人であれば、仏教に似ている教えを見抜く目は必ずあるはずです。また、他の宗教であろうとも、釈迦尊の教えを知っていれば、その宗教が自分にとってどういう必要があるかどうかを判断する恰好の目安になるはずです。そういう意味においても、正しい情報処理能力というものが現代人にとって必要不可欠であるかとがお分かりでしょう。

とくに現代は、精神世界への勧誘が一種のブームになっているようですが、精神世界を追い求めていくと、たいていは超能力という世界に魅せられていってしまうのです。超能力の世界は一歩間違うとそれこそ取り返しのつかない大変危険な状態になる可能性がありますから、その意味から言ってもきちんと何でも区別して判断できる能力を身につけなければなりません。そこで、ブッダの教えを考えてほしいのです。遠い昔にこの世に現れたブッダが何を教えたかったのか、この根本的な、かつ最重要の問題にいまの仏教はきちんと答えていないのです。

2500年以上経っていても、もし暇のある方が丁寧に釈迦尊の語った言葉を忠実に写し取ったとしてそれを読むとしたら恐らく光輝く現代的な鼓動が聞こえてくるに違いありません。釈迦尊は、堅苦しいルールなど一切言ってはいません。葬式はこうせよとか、祈り方の方法とか、法要の必要などそんな信仰のシステムなど全くの無視です。もしそういうことが釈迦尊の教えの根本と考えている人がいたらそこからもう間違っています。そういうシステムは、後世の宗教関係者が勝手に作ったものです。釈迦尊の教えは、まさに自由そのものでした。だれでも自由に勉強したり、批判したり較べたり、何でも出来なければならないというのが釈迦尊の考え方の基本になっているのです。

釈迦尊はこう仰言られる。「自分の話していることは決して時代に左右されるものではない。時代によって古くはならない、普遍的な教えである」どんな時代を迎えようと、どんな人間であろうともいつでもだれにでも理解が出来、実践できる教えであることを強調されるのです。

どういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。釈迦尊は、自分はただ真理を語っているだけだと言っているのです。真理そのものはだれが語っても、いつの時代でも変わるはずがないというものです。真理を語る場合、また真理を知る場合に絶対的な法則が出てきます。例えば、ある宗教団体が「我々の宗教団体に人らなければ尊い教えを得ることは出来ませんよ」と言ったとしましょう。しかし、真理が絶対である以上、そんな制限はニセものであるということになります。なぜならば、科学上の真理が人の目から隠すことが出来ないように、仏教の真理、というか人間の心の真理もまた隠すことは不可能なのです。真理は、だれがどんな角度でどんな立場から見ても必ず一つ見つかるはずです。ですから、真理の前には何の怖がることも、恐れることもないのです。A なるひとが見いだした真理と、B なる人間が掴んだ真理とが違ったり、矛盾があってはそれは真理とは言えないのです。ですから、自分のところの宗教の教える真理は他の宗教とは違うのだというのでは、信仰する側は困ってしまうわけです。しかも、批判も、比較もすべて自由である! こんなことをいう仏教が現在あるでしょうか。どこの宗教をとっても、「どうぞ私のところの宗教を勉強して思う存分批判してください。哲学や倫理学、道徳などともどうぞ比較して検分してください」などと言う宗教が存在しますか? どちらかと言えば、現代の宗教というと入信した信者だけを優遇する秘密主義的なところがあり、そういう意味では閉鎖的で、宗教本来の存在理由から離反していると言わねばなりますまい。

仏教の有名な言葉に、Ehipassikaという表現があります。「来てください、見てください、自由に」といった意味で、束縛をしないということですね。いまの宗教は、信者として束縛をしているでしょう。私のところの宗教はこういうことをしなければいけないとか、こういうことは絶対にやってはいけないとか、いろいろな制約を設定していますね。その代償? として、幸せな生き方が出来ます、みんなが仲良く生きられます、心の安寧と平安が得られます、というのはまだいいとしても、果ては病気が治りますか、お金持ちになれますとか、もっともっと偉い人間になれますなどという個人の利益をちらつかせ、また信者のほうも仏教を信奉すれば、そういう自分の人生における得(徳ではなく)が身につくと、誤った情報によって踊らされているというところが現状でしょう。こういうのはまともではないということを、釈迦尊は言われているのです。真理を知りたければ、まず自分でものごとの真贋を見抜き、解釈し、判断できる能力をもったまともな人間になることである、と。

とくにここで私が言いたいことは、もし釈迦尊の教えを仏教と定義するなら、日本をはじめ中国などで仏教と呼んでいるものは仏教でないということです。最澄の興した天台宗、空海の真言宗、法然の説く浄土宗、親鸞の説く浄土真宗、日蓮の説いた日蓮宗など、ふつうのひとはみんなこれを仏教と思っていますがそれはとんでもない大間違いだということです。これは当時の新興宗教であって、分かりやすく言えば最澄宗、空海宗、法然宗、親鸞宗、と解釈すべきなのです。仏教は読んで字の如くブッダの教えです。釈迦以外にはだれも説けない教えなのです。マスコミもこういう正しい情報は提供してくれません。しかも、現代ではすべてが受け売り文化です。自分で勉強しなくても、わざわざ修行など苦しい思いをしなくともチャンネルをひねれば情報が飛び込んでくる時代です。この受け身の文化が実は、ものごとの本質を見抜くことを出来なくする元凶だったのです。

釈迦尊の言われる、まともな人間であるためのもっとも大切なことは、この体験ということなのです。真理を知りたければ、釈迦尊の説かれることを自ら実践する以外方法がないのです。釈迦尊の教えは、頭で聞くだけの観念的な教えではないのです。実践して自分で、「ああ、そういうことなのか。なるほど、よく分かった」と実感できるものこそ真理であるというのです。しかも、真理は時代の変化に動かされることもないし、人間の違いによって左右されるものでもない、絶対のものであるからこそ、2500年以上経過した今でも、だれもが釈迦尊の教えを不変なものとして学ぶことができるのです。ですからあなたもぜひ釈迦尊の教えをご自分の体験として確認してほしいのです。あなた自身がまともな人間であるためにも。