根本仏教講義

4.死んだらどうなるか 1

死んだらどうなるか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「人は死んだらどうなるのか」「人間に来世はあるのか無いのか」…宗教が常に取り上げてきたテーマですが、この質問に対する答えは「わかり得ない」というのが誰にとっても真実だと思います。このテーマを論ずる人は誰も死んだことがないわけですからわからないのがあたりまえなのです。これから、このテーマでお話ししたいことはたくさんあるのですが、まず答えが「わかりません」であることを、頭に置いておいていただきたいのです。

世の中には色んな宗教がありますが「亡くなったらそれで全部終わりですよ、何もなくなってしまうんですよ、恐怖ですよ」という宗教はひとつも無いんですね。不思議ですね。死んだらどうなるかなんて生きている人には体験できないことなのに様々な宗教が皆、死後のことについて見解を持っているというのは不思議なことです。たまに現代のお坊さまで「来世はないんですよ」とおっしゃる方もありますが、概ねはどんな宗派の話を聞いても私たちの上座仏教にしても日本の色々な大乗仏教の各宗派にしても、「死んでも何とかなる」と言っています。また仏教以外の宗教、ヒンズー教やキリスト教や他の宗教を見ても皆、死後の世界を延々と論じているんですね。「本当にわかってるんですか? 私にはわかりませんが」と聞いてみたくなります。どんな宗教もが死後をこれはど語るのは、人間はやっぱり、死んだらそれで全部終わり、何もなくなって、全部ゼロになるだけ…とは信じたくないからなんです。

とりあえずこんな風に考えてみましょう。私たちはやっぱり、死んでそれで終わりたくはないんです。それは皆わかっていることなのです。色々な宗教をしている人たちも、人間が死んでしまったらそれで終わり、ということにはなりたくないと思っているということだけはわかっているのです。それで色々な教義を作って我々のこのせつない願いを何とか慰めてくれるというわけです。

たとえばヨーロッパのキリスト教的な考え方はというと、神様さえ信じておけば亡くなった人々は皆、天国という特別な場所に行けるのだというものです。そこにはすべてのものが揃っていて、もう二度と死なないし、大変楽しく楽に生活できる。逆に神様を信じていなかったら、その人々は皆地獄に落ちてしまう、落ちて、永遠の苦しみを味わいつづけているんだというんですね。そう聞くと、我々はやっぱり死んでも死にたくないし、仕方なく神様のことを信じ永遠の喜びを味わうためにがんばらなくちゃいけない、ということになるんですね。

では次に、イスラム教の人々から話を聞くと、アッラーという神がいて、その神様以外誰ひとりとして信じたら絶対許さないんだそうです。唯一の神以外、何者をも信仰したらもうそれは絶対許さず、地獄に落ちてしまうのだそうです。その点から見れば、日本人は皆地獄に落ちてしまいますね。いくらがんばってもだめですね。日本人の中にはイスラム教徒の方もいますけれど、日本人の悪い癖だかいい癖だか、そこら辺に神社があるとすぐ頭を下げちゃうし、とても美しい年輸を刻んだ大木を見たら、「ああ、神木だ」といってまた礼をする、朝、美しい空に太陽が出てくると、合掌したり礼をしたりしない日本人はまずいませんよね。それでは、アッラーの神の怒りに触れてしまいます。だから地獄に落ちたくなければ、それを全部やめなくてはなりません。今から覚悟しておいた方がいいですね(笑い)。

日本の皆様方は、やはりそういう美しいもの、自然の堂々たるもの、そういうものには心から感謝するか礼をするという習慣がありまして、良いことかもしれませんが、残念ながらイスラム教徒の人々からみれば地獄に落ちてしまうんですね。

東洋の世界にある宗教は、そのような過激なこと、大胆なことは言いませんからいくらかはのんびりつき合うことができます。「仏様を信じなければ地獄に落ちます」だとか「阿弥陀さまを念仏しなかったら必ず地獄に落ちます」などとは言わないんです。その点、ヨーロッパ的な宗教よりは多少優しいところはありますが、そう言われることもちょっとした「慰め」になるのかもしれませんから、どちらがどうだとは言い難いですよね。

本当のところ、死んでしまったらどうなるのか疑問は増すばかりですが、最初から申し上げているように「わからない」んです。試す方法はひとつだけあります。自分で死んでみることです。しかしその方法にはちょっとした欠点があって、死ぬ方々はたくさんいるんだけれど、誰ひとりとして教えてはくれないんですね。
ひとりも教えてくれないのに、我々はなぜか、信じているんですね、死後の世界には何かあるにちがいないと。

お釈迦さまのパーリ聖典の中に中部経典という経典がありまして、その中にあるひとつのお経の話をしましょう。そのお経の中に、ものすごい唯物論者が出てきます。目に見えるもの、物質しか決して信じようとせず、魂や心やアートマンや、そんなものは何も存在しない、大変くだらない話だと言うんですね。ただ、確かなことは「体があることだけ」だと言うんです。その人があるとき、托鉢に出るお坊さんを見かけて、ちょっとからかってやろう、と思ったわけですね。この人は金持ちで政治家で王家の王子だったので、そのお坊さんを自分の城に招いたんですね。食事をさしあげ色々話をしました。その中で王子が「この世にはくだらない坊主や宗教家たちがいて、人が死んだらどこかに生まれ変わるなどとつまらないことばかり言っている。本当は人が死んだらどこへも行けない、おしまいです。このからだは、地、水、火、風の四つからできていてそれは死ねば自然に戻るんです」と言ったんですね。するとお坊さまは間髪を入れず「人が死んだらただ単に、地、水、火、風、の四つに戻る、それ以上は何もないなどというそんな馬鹿げた話は聞いたこともないですね」と答えたそうです。

そこで王子はそれを確かめたくて、様々な実験をしたんだそうです。とんでもない実験なんですが、王子は悪い人を処刑する権利を持っていて、様々な死刑を実行したんです。

たとえば打ち首です。打ち首の現場に行って王子は見ているわけです。王子の「執行しなさい」という合図で、死刑執行人が首を切り落としました。その瞬間、王子は目を離さず切った傷口を見ていたというのです。何を見ていたかといえば、もし霊魂や魂がどこかで再生するならば、人が死ぬ瞬間、このからだから出ていくのが見えるだろうと。でも見えない。これは失敗だと思って、次の実験にかかります。血を一滴も流さないようにして、処刑し、体重を量ってみたんです。窒息させたのかもしれません。生きているときの体重と死んでからの体重を量って比べてみたんですね。
もしからだから何か出て行ってどこかで再生するならば、1mgでも死んでから遺体は軽くなるはずなんですね。ところが実際量ってみると死んでからの方が重いんです。「ああ、くだらない」と王子は思ったといいます。この後にも実験はずっと並んでいます。

もうひとつ、魂は心の中にあって、五つの鎧のようなものを着ているという話があります。ヨーガの世界を知っている皆様方は聞いたことがあるかと思いますが、アートマンには五重の穀があるのだという話です。外にあるものはそれほど徹底したアートマンではなくて、一番中に本物の真我があるのだといいますね。

そこでこの王子はある人の処刑を執行する際に殺さないでまず皮膚を全部剥がしてみたんです。

剥がしてじっと見ていたんですね。魂が抜けていくのは今か今かと。でもまだ生きている。それから、徐々に筋肉も切って剥いで、その人が死んでしまうまで剥がし続けたんですね。しかし霊魂、アートマンは見つからなかった。それで、あの坊さんや宗教のいう「死後には我々は何とかなるんだ」というのはもうはっきりした嘘、くだらない話だと決めつけてしまったのですね。

しかし、この話の最後には、お坊さんが輪廻があるのだということを説得してしまいます。色々な宗教で死後の話、再生論を言っていますから、このお経では間接的にそれらの再生論を馬鹿にしているんですね。

さて、話が長くなってしまいましたが、お釈迦さまは本当に死後の世界があると言ったのかどうかという本題に入りたいと思います。

ある寺の宗派では、「極楽道」という概念があり、キリスト教では「天国」「天界」があると言い、宗派によって様々な概念があります。しかし死後の世界がどんなものかという論議はさておきあるということだけは各宗教、各宗派ともテーラワーダ仏教も含めて共通に認めていることではあります。しかしお釈迦さまは実際は、そんな大胆な問題はあまり考えていなかったようです。お経では何となく引用するくらいのことはあっても、「これからあなたたちに死後の話をしましょう」とか、そんな話はほとんどしていないんです。それより「我々はどう生きるべきか」という話ばかりなんですね。99.9%、そればっかりなんです。

それが時代を経るにしたがって、どんどん、出てくる出てくる、死後の話が出てくるんです。お釈迦さまの時代には、死後のことはそれほど取り上げられていない、そのこともひとつ覚えておいてもらいたいのです。輪廻転生のシステムはとても複雑でむずかしい法則ですので、常識で理解するのは大変困難なのです。

それよりも大切なのは我々の生き方であり、死ぬまでどう生きたらいいのかということが一番大事なことなんだということです。

お経の中に「apaṇṇaka」ということばが出てきます。英語で言えば、「ノークエスチョン」つまり「問題にならない」「選択の余地がない」という意味です。どういうことかというと、ある人々は「死んだら何もない、終わりだ」と言い、ある人々は「人は亡くなっても輪廻転生します」と言い、お互いに喧嘩している。そこでお釈迦さまは「知識ある人々にとってはそんなことはどっちでもいいこと、もともと解るものではないのだからどうでもいいことなのだ」とおっしゃるのです。

それよりこう聞くんですね。人が殺生する、盗みをする、わがまま放題に振舞う、嘘をつく、悪口を言う、人を叱ったり罵ったりする、強烈な欲や怒りを持っている、そういう場合、言葉で言えば「邪見」ですが、そういう人々に来世がないとどうなるでしょう。来世がないにしても、そういう人たちは生きている間に並々ならぬ苦しみを受けるに違いありません。世間からさんざん批判されて、「あの人は人間じやない、悪魔だ、恐ろしい、近寄るな」と言われ、例えばそういうグループの人はどこかでアパートを借りようとしても周りの人が来て追い出したり、それ位社会から批判され排除されることになります。殺人したり泥棒したりすると、この社会で生きる権利さえ失い、やがて自分の命もなくなってしまうのです。

では来世があったとしたらどうかと、お釈迦様は聞かれます。苦しみを受けて死んだとしても、やはりまた苦しみのところに落ちてしまうことになる、2倍損するのだとおっしゃるのです。

結論は、来世があろうがなかろうが、あなたの今世における生き方を問いますよということなんですね。(以下次号)