根本仏教講義

5.仏教とは何か 2

「生きる道具」を「生きること」と間違えないように

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月、悩み・苦しみということについて、皆さんは本当に悩んでいるのですか、と質問させていただきました。
つまり、自分の人生を客観的に見たことがあるのか、ということです。ないのではないでしょうか。

今まで生きてきましたけれど、一度も、自分の命そのものを見たことがないのです。生れたときから一体何をやってきたのですかとお聞きして、明確に答えられる方はいらっしゃいますか。生れたときから色んなことをやってきて、自分でやってきたわけですから、その過程をきちんと見てきた人ならさっと答えられるはずです。私たちが見てきたのは、小さいときよく遊んだとか、親がやさしくしてくれたとか、どこどこの学校に行ったとか、なんとか大学を卒業したとか、何の仕事についていつ結婚して、いつ子供が生まれて、家をいつ買って…そのくらいのことなんです。でも自分の人生を覚えていないんです。
そこが人間のおかしなところなんです。そのようなことは、生きるために必要だからやっただけのことなのです。たとえば、冬、外へ出るときは寒いのでマフラーをちょっと持って出て首に巻く、そんなようなものなんです。マフラーは自分ではないし、自分の人生でもない、なんでもないんです。ただ、ちょっとした道具なんです。

人生も同じです。いくら、こんな道具を使いました、こんな道具を使いました、と教えてくれても、だからその道具を使って何をやっていたんですか、ということを聞きたいのです。仕事という道具を使って何をやったのか、結婚という道具を使って何をやったのか、主婦という道具を使って何をやったのか、親という道具を使って何をやったのか。お釈迦さまは、仏教は智慧の宗教だからそういったことを明確にすべきだと、しっかり認識しなさいとおっしゃってるんですね。我々は生きるために必要だった道具を一応並べておくことはできます。しかし、それ以上人生を知らないのです。我々は道具ばかり作って道具の中で混乱しているだけで、生きるということはやったことがないんです。ですからお釈迦さまは、普通の人々に対してすごく失礼なことをおっしゃいます。

「あなた方はみんな、死んでいるのも同然です」

つまり、みんな、生きていることに気付いていないのですから死んだ人と同じだというのです。ただ道具ばかり並べても、道具はなにかのためにあるものですから、道具自体には何の意味もないのです。

ボールペンは何のためにありますか? 書くためにあるんですね。ボールペンは道具であって、書くならばボールペンには意味があるのです。絶対これでは書けませんというなら、それはボールペンではなくなってしまうんです。書けないならボールペンでなくてもいいわけです。服にしても同じです。どれほど高価な服であろうと、着なくては何の意味もないんです。道具の意味はそういうところにあるわけです。ところが我々人間は、人生という道具を集めることにはやっきになるけれど、使うことは気にしない。そこで人生がわからなくなっているんですね。

ボールペンの話に戻りますけど、ボールペンで書くことでボールペンの仕事は終ったとします。
でも書いたものは何でしょう。あれも道具なんですね。書いたものはやっばり読むためにあるんです。読めなきゃいくら書いたって何の意味もないのです。書いたものを読んだところではじめて意味が出てくるのです。では、読むということはどういうことでしょう。それもひとつの道具なのです。ただ読んだ、それが一体なんなのでしょう。
皆様も、結構色んなものを読みますよね。私はあまり賛成できません。すごい知識欲で読むわけですが、どうでしょう、大変な自然破壊ではありませんか? ぶあつい本や雑誌を、読んでは捨て、買ってまた捨て、また買って読み、捨てる。我々が生きている地球や自然を破壊しながら読む読む読む…読んで何かになったのでしょうか。読むんだけれど、どうもおかしいんですね。それほど読んでいるのに自分で判断できない、自分でしっかり行動できない、人生ガタガタなんですね。読んだだけでは何の意味もないんです。読んですぐ忘れちゃった、でもその本は読んだことがありますといっても意味がありません。読んでどうしたんですか、と聞きたいのです。

不思議なのは膨大な本を読んでいる人々とほとんど本を読まない私が肩を並べて対話することが出来るということです。その人がどんなに知識を持っていても、僕は、その知識の欠点や論理の組み立ての悪さが何かあるならばそれを見せてあげることができます。言い替えればそれは相手の武器を使って相手を倒すことに似ています。それで聞きたいのは、あなた方がそれほどお金や時間をかけてしてきた勉強とは一体なのかということなのです。

読むということも道具であって、読んだならばどうにかならなくては意味がない、ですがそうなっていないんです。そうすると、道具は道具で止まってしまうんですね。

この人生の中で手にした道具たちに、道具の仕事をちゃんとやってもらうべきなのです。そうするとどうにかなるはずなんです。

別の例を出してみましょう。ウィンブルドンのテニスがありますね。日本も参加していますが、あれをやることは何の意味があるのでしょう。ものすごいお金をかけすべての国々へ衛星放送までしているんですね。そしてみんな、それをじーっと見ているんですね。よく見ると、ただ球をあっちからこっちへ打ったりこっちからあっちへ打ったり、ただそれだけなんです。ただそれだけのことにどれだけのお金がかかっていて、どれほどの自然破壊をしているかというと、とてつもない。
そのお金を、もう少し人間の人生を幸福にするために使えばと思いますが、そういうことはないんですね。テニスボールを、向こうのテニスコートの決められた枠の中に落ちるようにすればよい、それだけのことなんです。

たとえばあなたがウィンブルドンで優勝したとします。テニス世界一流のプロになったとして、それで、何かになったのでしょうか。ええ、私は有名になりましたと答えますか。だからどうなのでしょう。たとえば、有名になったら夫婦喧嘩をしなくなるでしょうか。喧嘩になりそうなとき、「あなたは私と喧嘩をする必要はありません。私はウィンブルドンで賞を取ったのですから」と言えば「わかりました、喧嘩はいたしません」と相手が言ってくれるでしょうか。たとえば、突然の病に倒れたとき、トロフィーが病気を治してくれるでしょうか。

私が言いたいのは、やりたければやってもいいのです。ただ、もしこのテニスの試合から学ぶべきものがあるならば、人生にそれを学ばなければいけません。それをやっていない人があまりに多い。何か賞を取ったことは取ったけれど、人間としてはでき上がっていない。世界のスポーツ界の一流の人々もほとんどそうでしょう。みんな一流にはなったけれど、人生はまったくなんですね。

つまり我々は、人生は見ないで道具だけを見ている。上手にテニスだけやれば、サッカーだけやれば人格はどうでもいい、人生がどうなっても関係ないという感じでとらえられているんですね。
それはものすごくおかしいと、お釈迦さまはおっしゃっているのです。道具を揃えるだけで道具を使ってはいない、どんなに道具が揃っても意味がないのだということです。たとえば、世界一流のとても高価な楽器を全部集めたとしても、だからといって、音楽家にはなれないのと同じことなのです。

何が言いたいかというと、私たちは色んなことをします。そのひとつひとつから、人生そのものを何か学ぶことができるはずだということなのです。生きているからこそ、他のものが必要になるのであって、生きていないなら何もいらない。生きているからこそ、結婚するのであり、生きているからこそ教育を受けるのであり、生きているからこそ経済活動をし、生きているから服を着るのです。大事なのは生きているということで、他のことは価値がひとつ下なのです。一番上の価値は「生きる」ということなのです。

それなのに人間というのは、生きるということは捨ててしまって、他のこと、勉強しなくちゃならない、スポーツをしなくちゃならない、エアロビクスをしなくちゃならない、掃除をしなくちゃならないとやることだらけで、私はこれに人生をかけます、なんてくだらないことを言っているのです。そんなことをずっとやり続けて、人生を終えてしまうんですね。そんな人生は猿以下です。生きるということを考えていないわけですから。

生きるということは一番大切なことで、そのために必要なことというのは、その下のこと、生きるための「土台」なんです。では、人生には、本当に悩み苦しみがありますか、という質問に戻りますが、その答えがわからないのはあたりまえでしょう。生きているというのがどういうことだか全然わかっていないわけですから、生きる悩みが何なのかもわかりません。考えたこともない。忙しくて考える暇もなかったわけですから。小さいときは遊ぶことや学校へ行くことや、勉強が終ったら仕事をすることや、主婦の方なら家事や育児や、いつも暇がなくて生きるということをまったく知らないんです。だから結局、我々は人生で苦しんでいるのか悩んでいるのかさえも知らないのです。つまり生きたことがない。そう言う意味でお釈迦さまは、普通の人の生き方というのは、あるいは自己観察しない生き方というのは、死人と同然であるとおっしゃっているのです。

仏教は、一番大切なこと、生きるということを探求してみようと言っているわけです。それを探求し、わかったところで我々は物事を選ぶことができるようになります。

皆さんはいろいろと悩んでいるでしょう。結婚するときは、あの人でいいかな、他の人の方がいいんじゃないか、この人に自分の一生をかけてしまって大丈夫かなあと、また、何か買いものに出掛けて何時間も選べなくて悩んだり、レストランに行ってもあれもおいしそう、こっちもおいしそう、となかなか決められなかったり、そんなことは我々にいつもあるんですね。どうして選べないのでしょう。

子供は中学を卒業するころから、みんな色々大きな問題を抱えますね。高校をどうしよう、何をしようと。最近あるおかあさんが、自分の息子が大変落ち込んでいると相談に来られたのですが、息子さんが言うには、スポーツはやりたいのだけれどスポーツをやるには高校へ入らなくてはならない、でも勉強はしたくない、もう一ヵ月しかなく、早くどうするか決めなければならないというのです。人生を決めるときにはどっちにしようかと悩みます。でもなぜそんなふうに悩むのでしょう。忘れているのは、教育であろうが、結婚であろうが、家族であろうが、子供であろうが、おしゃれであろうが、全部道具であるということなのではないでしょうか。人生があって、生きるということがあって、その生きるということを素晴らしくするためには、これが必要だ、とわかればすぐ悩むことなく選べるんですね。たとえば、大雨が降っているときに外出しなければならない、そのとき傘をさすかたたんだまま持っていくか悩む人がいるでしょうか。必要なことが明確ならば迷いはなく、悩みもないのです。(以下次号)