根本仏教講義

6.心の働き 1

幸せになる心と不幸になる心の違い

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月からしばらく、我々人間が、幸せになる心の働きと不幸になる心の働きについてお話させていただきたいと思います。

さて、このテーラワーダ仏教協会でも毎月実践会を開いている「ヴィパッサナー瞑想」という瞑想は初めて体験したとき、だいたい皆さん、「これが瞑想か?」と不思議な顔をします。
みんな、まず疑ってしまうのです。「瞑想といえば、修行といえば、とにかく真剣にきちんとやるものではないか」と思っているのに、ヴィパッサナー瞑想の指導を受けてみたら、あまりに簡単で楽で、「自分なりにやればよい」と言われ、何のしきたりもなく、どんな方法でもいいと言われている感じがするのです。自分が想像していたものと、あまりに違って、なかなか納得できなくて、それで瞑想自体もうまくいかない、というような結果になることもあるのです。

ヴィパッサナー瞑想で我々はこんな風に言うんですね。
あるときは「左足を上げる、運ぶ、下ろす。右足を上げる、運ぶ、下ろす。ただそれだけを確認して歩いてください」と。すると、「それは一体何のことか」と皆、疑ってしまうのです。

「体でも顔でも瞑想中に掻きたくなってしまったら『掻きたい掻きたい、手を上げます上げます、触れました触れました、終りました、手を元に戻します』と言いながら、ゆっくりと掻いて手を戻してください」と指導しますね。すると「そんなことが瞑想といえるのだろうか」と感じたりするのです。また「掃除や洗濯をするときは、ちゃんとそれなりのことばをかけて行ってください。それがヴィパッサナー瞑想です」と、私はさんざん、いやになるほど言っていますね。

なぜ、そんなふうに言うのでしょう。それにはひとつの理由があるのです。

我々の体のすべては心の命令で動いているのです。その命令を、気持を統一してきちんと聞いてほしいのです。
たとえ、自分の指をほんの少し動かそうとしても、「動かそう」という気持がなければ指は動かせません。どんなに小さな体の動きであろうが、それは私たちの「意志」でそうしたいと思うからそうしているのです。この「意志」を仏教用語でチェータナー(cetanā)と言います。何かをしたいという気持のことです。

そのような観点から体の動きを見ると、いろいろな動きがあります。それを分析して、少し分類してみましょう。

体の動きの中には、はっきりと自分の意志に基づいてやっている行動と、「これは自分の意志だろうか?」と感じる行動の2種類があると思います。
たとえば、歩く、何かを食べる、人と話をする、座る、寝る、仕事をする、書く、掃除をする…そういうことをする場合は「自分の意志でしている」ということがすぐにわかりますね。すごく簡単にわかります。歩くときなどは「歩きたいから歩く」ということがわかりやすいですね。ですから、ヴィパッサナー瞑想では、「意志」を理解しやすいこのわかりやすい行動のほうから確認してください、というのです。

それからもうひとつは、瞼を閉じたり呼吸したりするような、「意志」の確認がむずかしい行動です。体の中には様々な動きがありますし、寝ていると寝返りをうったりもします。

先ほど私は「どんなに小さな行動も意志でやっていますよ」と申し上げましたが、「それならどうやって寝返りをうつのか」という疑問が生れます。瞑想などをしない限りは「自分が呼吸をしている」ということにも、全然気づいていないのです。「どんな小さな行動も意志に基づいてやっているというなら、自分がやろうとしているわけでもないのに一体どうやって呼吸するのか、心臓はどうやって動いているのか」という疑問は出てくるのです。

ですから体の行動は二つに分けて考えた方がよいと思います。一つは明確に意志のもとに行っている行動、働き。二つめは自分の意図とは関係なくただ自然に行っている行動、働き。ですが、仏教の立場からいうと、どちらも意志によって、心の働きによって行っているのです。

心を理解することはそうむずかしいことではありません。心の「意識」の側面は自分でコントロールできるのです。たとえば歩くとき「ゆっくり歩こうか、速く歩こうか」ということは自分で判断してコントロールすることができます。「駅まで歩くと10分かかる。出かけるのが遅くなって7分しかない。早く行かなくては」と思い速く歩くんですね。その途中で知り合いの人に会う。しかしそこで「お久しぶりです」「お元気ですか」などと話しはじめると時間がなくなってしまいます。その場合は、どうすべきかと自分の意志で考えて、「ごめんなさい、ちょっと急いでますので失礼します」とか「遅くなってしまい走っています」とか、ひとこと言ってさっさと駅まで行きますね。その場合は、自分の行動、しゃべること、考えること、体の行動は全部自分の意志でコントロールしています。そういう心の部分は自分でコントロールできるものだということです。速く歩くか、ゆっくり歩くか。たくさん食べるか、食べものを控えるか。思いつくままに人としゃべるか、言葉をコントロールするか。そのあたりには、我々のコントロールできる部分があるのです。

ではもう一方の「無意識」の側面は、いかがでしょうか。
たとえば、心臓の弱い人は、大きく心臓を鼓動させたら、良くないんですね。それは命に関わることなのです。ではその人に、その心臓の鼓動の速度をコントロールすることができるでしょうか。つまり「私は心臓が弱いから、いつも安定した状態で、一定の回数で心臓が動くようコントロールします。ドキドキドキと、大きく心臓を動かしてしまったら心臓に負担がかかって危ないから、そうならないようにします」というようなコントロールができるかどうかということなのです。それはなかなかできないんですね。

またたとえば、我々の胃は食べたものを消化するのだということを、皆さんご存知ですよね。胃の働きも心の働きによって変化し、心配事や悩みごとがたくさんあると、胃が荒れてしまうということも経験のある方もあると思いますが、皆知っているんですね。胃かいようになって、お医者様にそのように言われると、「なるほど、自分の心の状態から胃がおかしくなった、腸が病気になったんだ」とわかります。

また、ちょっと食べても太ってしまう人と、いくら食べてもスマートでいる人とがありますね。体が太る傾向にある人は、脂肪を燃やさないでどんどん蓄えておくんですね。ですから太らないでおこうと思うなら、食べた脂肪を吸収しないで体から出してしまうことです。しかし「今日は美味しいものがたくさんあるので2日分食べますが、吸収するのは今日の分だけで、残りは全部体から出してしまって、体はスマートな状態でいます」というようなことはできますか。それは無理な話なんですね。やっぱり全部吸収して、脂肪として蓄えてしまうんです。

ですから「心の働きは2つある」と覚えておいてください。「私たちの心には何とかコントロールできる働きと、どうにも手に負えない、手の施しようのない働きの2つがある」ということですね。この2つのうち、コントロールできる方は、自分の幸福の方向へコントロールして管理しておけば、その分は幸せになれます。それは、我々が言うまでもなく大部分の人がやっていることですよね。

たとえば、子供は遊ぶことがとても好きなんですが、「子供も大人も遊んでばかりいてはいけません。やりたくないと思っても勉強もしなければいけません」と言われ、子供はそれをちゃんと理解して勉強もします。我々はいろいろなことを勉強したり、習いごとに行ったり、仕事があれば夜眠いのに眠ることを控えて仕事もします。自分で自分の心をコントロールするんですね。それで人間は幸福になれます。勉強すべきときは勉強し、仕事すべきときは仕事をし、人と話すべきときはちゃんと話をして、黙っているべきときは黙っている。そのような行動をしていると、どんな人間でも結構幸福になってしまうのです。「勉強するか、寝るか」ということは自分の意志でコントロールできるのです。「寝たいなあ」という気持、「マンガを読みたいなあという気持もありますが、やっぱりそれを置いて「勉強しよう」と決めるんですね。そしてその通り、行動する。「すべきことはちゃんとやって終わる」というようにできるなら、問題はありません。この部分は、ごく普通の人ならわかっていることで、あらためて宗教がおせっかいなことをいう必要もありません。

スポーツマンになりたい人がいるなら、よく訓練する。よく食べ、よく寝て、を繰り返すだけで試合に出られるようになるということはありえません。苦労もあるしきついけれども、「ちゃんと訓練しなければならない」と思ってやっています。
そしていい選手になる。その場合は、我々がコントロールできる心の側面を「いい方向に」コントロールできているということです。そのようなわかりやすい幸福の世界は、自分の意志の部分でコントロールして得ることができます。

それでも人生を失敗する人がいるんですね。たとえば、お嫁にいって家庭に入った女性が、料理がうまくできない、朝が起きられない、皆が出て行ったらすぐ酒を飲んでしまって家事が全然できない、いわゆる伝統的な家庭内の仕事が全くできず失敗することがあります。

また会社に行って仕事をしようとしてもうまくいかない人もあります。任せられる仕事は失敗ばかりで、仲間とうまくいかなくなったり、とうとう会社を首になって、不幸になってしまうというようなことも少ない例ではないでしょう。

あるいは、結構お金があって事業をやったけれど、全部失敗して恥ずかしくて、家を出てホームレスになってしまう人もいるでしょう。これらはごく普通の生き方を間違って失敗する人々です。

問題は、「なぜしっかり考えて行動しないか」ということなんですね。コントロールできる部分であるのにしていない。仏教があろうとなかろうと、キリスト教があろうとなかろうと、自分の人生がどうすれば幸福になるかということくらいは自分で考えればわかるのですから。「収入がなければ生きていられないのですよ」と言われなければわからない、ということはないと思います。

子供はときどき、そんなことを言うんですね。
自分が遊んでいて宿題を忘れたりして、学校で恥ずかしい目に遭うと、家に帰ってから「お母さんどうして思い出してくれなかったの」とか、「どうしてちゃんと宿題のノートをカバンに入れてくれなかったの」などとね。そのような話は大人がすればちょっとおかしいし、私は子供にもそういうことは言わせません。厳しく言うんです。「自分のことは自分で責任を持ってやれ」とね。

私の国の子供たちは、朝、起こしてもらえません。「自分でちゃんと起きなさい」と言われています。しかし子供たちも、ときどき甘い顔をして「明日、早く起こしてね」と頼んだりします。もしお互いに約束した場合は一度や二度は仕方ないですが、それも本人が自分の弱さに気がついて、「今日は自分には自分がコントロールできそうにないからちょっと助けて」と頼むことですから、自己コントロールといえるでしょう。自分の責任を自分で持っているということですからね。

子供はもちろん、大人は当然、生きている間は自分の責任は自分で持って、自分の幸福を作っていかなければなりません。(以下次号)