根本仏教講義

6.心の働き 4

怒りを捨て安らぎを

アルボムッレ・スマナサーラ長老

前回は、不幸になるエネルギーのことをお話していましたね。「怠け」= ālasiyam (アーラシアン)という、大きなネガティブエネルギーだけでなく、我々の生き方を不幸にするエネルギーというのはいろいろあるのだということをお話しました。これからアビダルマ論の中から、4つを紹介していきますが、先月はその一つ目の dosa (怒り)について少し触れました。

怒りのエネルギーのもたらすもの

先月お話しましたように、ドーサというエネルギーが生まれてしまったら、その人は自分の出会う対象について、拒否する反応を起こします。そこには幸福や成功はありえません。

しかし時々、怒りの性格、激しい性格を持っている人がいます。このような人々はものごとを批判したり、厳しく善悪を判断したりして、結局何も得ることができません。

たとえば会社で、何もかも厳密に「こうすベきだ、ああすべきだ」と決めつけるような人がいます。自分では「こんなにキビキビと原則通りに仕事をしているのだから、必ず幸福になるだろう」と思うかも知れませんが、とんでもありません。逆にまわりの人から「いやな人だ」と思われ、ものごとがうまく運びません。そこにあるのは「怒り」だということを理解していないのです。出社時間が8時であるということだけを徹底的に守り、ある人が8時5分に入ったら、「あなたは遅刻した」と厳しい指摘をする。時間を守ることはもちろん大切なことではありますが、会社で何をするかということよりも、決まりや原則を何より大事にしようとする態度は、必ずしも会社にとって望ましいものではありません。

スリランカでも、このようなことがありました。ある学校では、先生が学校に行く時間が決まっていて、自分が来た時間を記録するようになっています。その時間が来ると校長先生は赤い線を引くのです。そして、その後で10分遅れてきた人は、その赤線より下に名前を書かなければなりません。遅刻したということが、明確に、記録として残ってしまうわけです。そんなことで学校がうまくいくでしょうか。そうは思いません。そこには怒りしかないのですから。

皆でわいわいとうまくやっている、他の学校の校長先生と話してみたら、自分は30分くらい待ってから自分のサインをする、または遅く来る人のために2~3行あけてサインするのだと話しておられました。「みんな本当に怠けもので、誰も時間通りに学校に来ないんですよ。でも、怒っても仕方ありません。」と、にこにことおっしゃっていました。

ではこのような場合、遅刻してもよいのかというとそうではありません。そこには人々のことを大目に見てあげる優しい心があるのです。
そのような寛容な指導をする校長のもとで、先生たちはのびのびと、自由に話し合いながら教育に取り組んでいるのです。10分、15分遅れるかどうかよりも、もっと大切なことに焦点を合せた取り組みができているのです。単に怠けたくてしょうがなくて、校長のやさしさにつけこんで一時間も二時間も遅れてくるというのとは違うのです。

厳密主義の人々は、本当は厳密主義でも完壁主義でもなく、ただ、怒りの性格を持っていて「反対したい、拒否したい」という気持でいっぱいになっているだけなのです。

「世直ししよう」と思っている人々の間にもよくある現象です。「社会を良くしよう」と言いながら、結局「あれが悪い、これが悪い」と批判ばかりしていて、結局は何も変わらない。
そのような人々の行動から社会がまったく良くならないとすれば、それはもともと「怒り」の気持に端を発しているせいなのです。

不幸になるエネルギーはもっとある

少し整理して考えてみましょう。
私たちが見るもの、聴くもの、味わうもの、喚ぐもの、考えるもの、触れるもの、何でもかんでも、そこに、ちょっとでも、いやという気持、拒否したい気持が生まれるならば、幸福にはなれないのです。

たとえば椅子に座ったとき、「これはちょっと小さすぎるのではないか」と思ってしまったら、そこには怒りが働いている可能性があるのです。大きい椅子を持ってきたら「今度は大きすぎでしょう」と言う。あるいはクッションのついた椅子を持ってくれば「こんな椅子で話しはできない、くつろごうとしているのではないのだから」と言い、クッションのついていない椅子を持ってきたら「こんな固い椅子で長い時間座って話すことはできませんよ」と言う。ご飯を炊けば「今日はご飯がかたい」、料理をすれば「塩を入れすぎではないか」…どんな場面でもなんだかんだとミスばかり見つけてしまうのです。

テレビドラマでしか日本の家庭を知りませんが、嫁をいじめる姑の話がよくありますね。ドラマですからどうでもいいのですが、似たようなことがそこここにあるのではないでしょうか。タオルなどを洗ってたたむと「何センチでたたむものです」と決められ、定規を持ってきて計ってたたませる。嫁がテーブルを拭いたあとを、指でこすってみたりするとすれば、それは単に欠陥を探そうとしているだけなんですね。そこにあるのは怒りの性格だけです。

そんな家は当然のごとく、不幸になるでしょう。別に霊やなんかがついていなくても不幸になるのです。でも姑さんはそれを知りません。
「私は若い嫁に、仕事を教えているんです。本人が誤解しているだけです」と言うことでしょう。しかし、我々は、この世の中で何を見ても欠陥を探せばいくらでもあるのです。仮にものすごく厳密に隅から隅まで雑巾で拭いたつもりでいても、すべてを拭き取ることなんてできるわけがないのです。

ですから、もし怒りの性格があったら大変なことで、世の中の幸福な世界は見えず、悪いところばかりが見えるのです。そういう人々はどう頑張っても幸福にはなれません。なぜならば、自分が会う人ひとりひとりを敵にまわしているのですから。

自分が聴く「音」さえも敵に回している。音楽を聴きに行って、「音が強すぎる」「みんがわいわい踊っていて、よく聞こえない」「レコードで聴いたのと比べると、生演奏はあまりよくなかった」「今日は歌手が疲れているみたいで、きれいな声が出ていない」などなどいくらでも言うことができます。だから、せっかく楽しもうと思っているのに楽しめない。結婚して良い家庭を作ることができない。会社に行って良い仕事をすることができない。

だからもし、自分の性格の中で、何か自分が偉くなったように感じたり、人の欠陥ばかり見るような部分があると気がついたら、これはもう今すぐに直さなければなりません。すべての不幸の始まりです。

怒りの心がからだと人生に及ぼすもの

では、その反対の性格は何かというと、良いところを見るという性格なのです。「怒り」の反対の言葉は俗語で言えば「愛」なのです。優しい心、慈しみの心です。生命というのは、いずれにせよ不完全なもので、完壁ではありえません。誰ひとり完全なものは作れないのです。
それにいちいち怒ろうと思ってしまえば、もう生きていられません。怒りが生まれてくると、からだも変化し、壊れてしまいます。

心がからだを動かしからだを作るということは以前もお話しました。たとえばある人に横になってもらって、その人の足を持って40回、上げたり、下げたりしてみましょう。足というのはかなり重いですから、これは大変疲れますよ。
しかし、その本人に、足を上げたり下げたりしてみましょう、というと、何のこともなくできてしまいます。軽いのです。歩くときも、「足を上げます」という気持が入った途端に足は軽くなって簡単に運べるのです。

「意志が生まれると、からだの物質は全部変化する」というのが仏教の教えです。冗談ではなく、我々の気持ち次第で、我々のからだも大きく変化するのです。

つまり、怒ったら、怒りにふさわしいからだが生まれる。慈しみの心を作ったら、慈しみにふさわしいからだができ上がる。お医者さまもよくおっしゃるように、「脳や細胞が、からだに悪い毒素を作ってからだを壊してしまう」ということになるのです。怒った瞬間に、電気鰻の電気みたいにものすごい早さで体中に毒素がまわってしまいます。それを続けると、からだはめちゃくちゃに壊れてしまいます。腎臓も心蔵も胃も肺も腸も、片っ端から壊れます。健康が壊れますから、このような怒りの人は幸福にはなれません。

また、このような人は知らず知らずのうちに全てのものを敵として見、全世界を敵に回していますから、その人自身も敵として見られることになります。「あの人とは仕事したくない、ものすごくうるさくて、あの人と一緒にいるとストレスが溜まってこちらもだめになってしまう」そういう人に心当たりはありませんか。皆さんもきっと経験があることと思います。ですから才能があってもいい仕事が見つからない。
才能があるからと、やさしい心で仕事を与える上司がいても、あまりに激しい性格ですと良い仕事はできません。

怒りの心の直しかた

ですから怒りの性格があればもう待つ余地はない、直すしかないのです。直す方法は簡単、肩の力を抜けばよいのです。「全ての人は不完全なものであって、自分も不完全である。完全なんてありえない」と、おおらかな優しい心で認めてあげるのです。

私は人の性格を見る癖がありますが、性格を読むためには別にその人と話さなくても、その人のわずかなからだの動きなど、ちょっとしたことを見ればわかります。心でしかからだは動かせませんから、皆さんは隠しているつもりかも知れませんが、性格は隠せないのです。着ている服を見てもわかります。色や形ではなく、たとえば古い服を着ているのに新しいものに見える人もあれば、新品を着ているのに古く見える人もあります。

ヴィパッサナー瞑想で、ひとつひとつの動作に「サティ」(気づき)を入れてくださいと言いますが、サティを入れている人は、見るとわかります。とても上品な、立派な人のように見えてしまいます。そしてそれが続くと、我々がもともとどんな性格であろうと関係なく、性格はきちんといい方向に直ってしまうのです。

私たちは瞑想を指導するときに「あなたはどういう人なのか、何を悩んでいるのか」といった個人的なことは一切聞きません。ですから皆さんは「不親切だな」と思うかもしれませんがとにかく続ければ変わっていきますから、何も自分の弱さや悪い性格を人にぶちまける必要はないのです。人の前にさらす前に直せばいい、僕らの指導はそういう方法をとっています。

来月、もう少し、怒りについての話を続けたいと思います。(以下次号)