根本仏教講義

7.業と因縁 4

業。あなたの心が問題

アルボムッレ・スマナサーラ長老

不幸になるには必ず因縁(原因)があるということ、不幸だというなら、その原因をとことん究明すべきであることを、先月お話ししました。さらにお釈迦さまは、「必ず不幸になる人間の行動」を体系的に教えてくださっているという話をしていました。

不幸になる人間の生き方

たとえば、嫉妬、怒り、欲張り、などが原因となって人間は不幸になるという話を先月しましたが、不幸になる人間の生き方のもうひとつに、「うわさ」があるとお釈迦さまはおっしゃいます。

人はよくうわさ話をします。うわさ話というのは、実は寂しくて、話し相手が欲しくて、共通の話題が欲しいがためにしているものなんですね。でも、もし人と仲良くしたいならば、舌を切ってでもうわさ話だけはしてはいけないのです。なぜならば、うわさ話をすることこそ、人が自分から離れていく原因なのです。うわさ話をすると、そのときだけは聞くのですが、聞かされた相手は、この人は他のところでも同じようにうわさ話をするだろう、気をつけようと考え、自分の心に鍵をかけてしまいます。結局は仲良くはなれないのです。本当は親しくしたくて、そのために人のうわさ話をするのですが全くの逆効果。逆に顔だけのおつき合いになってしまうのです。どうも先日は…と笑顔で頭だけ下げる。頭ばかり下げてからだが痛いでしょう。頭ばかり下げるのではなくて、相手に対して心を下げるべきなのです。

このようにうわさは言うな、悪口は言うな、怒るな、嫉妬するな、欲張るな…お釈迦さまのおっしゃる不幸の原因となる人間のありかたを変え、心をきれいにすると、我々の思考がどんどんきれいになっていきます。たとえば、話をするときは、みんなが仲良くなれることを考えて話す。喧嘩している二人のそばにいるなら、それはやっぱりあなたが悪い、などと言うのではなくて、まあいいじゃないですか、誰でもそんなちょっとした失敗はするんですからとフォローする。あるいは関西ならば、なんでも冗談にしてしまう土地柄ですから、なんとかは犬も食わないっていいますよなどと、つまらない喧嘩を続けさせないように笑い話でもしてやる。

仕事しろ、仕事しろと叱ってばかりいるのではなくて仕事する人の側にたって、慰めの言葉のひとつもかけてあげる。

それがむずかしいというなら、慈悲喜捨の瞑想をするといいと思います。
「生きとし生けるものは幸せでありますように」と朝から晩まで唱えていれば、強引にでも我々の頭のなかが変わってしまうのです。素直に相手のことを考えられるようになれば、我々の心は明るい方向に向っていきます。ナムミョーホー…、ギャーテーギャーテー…などのお経を、もし意味もわからず言っているなら、呪文と同じです。それほど結果はありません。「生きとし生けるものは幸せでありますように」と言うなら、言っていてもちゃんと意味がわかるわけですから、言うことがはっきりと力を持つのです。そういう意味でも、お釈迦さまの仏教と、他の仏教は違いがあります。

世の中の支配者は誰か

このようにお釈迦さまは、心が腐れば全部腐る(不幸になる)、心がきれいで光り輝いているとすべてが輝いてくる(幸せになる)とおっしゃるのです。神様は誰かというと、あなたの心そのものなのです。

ある日、ある人がお釈迦さまに聞いたそうです。「この世の一切衆生、生命のすべてを支配し、管理し、コントロールしているものは誰ですか」…するとお釈迦さまの答えは一言だったそうです。「心です」…。心が人々をリードしている、ああしなさい、こうしなさいとリードしている。我々は心によって、左右され、不幸も幸福も導くものは「心」である、すべての生命が支配されているのは「心」だとおっしゃったそうです。心は我々の神であり、我々は心の奴隷なのです。

たとえばダイエットしたい人がいますが、したいならすればいいのにできない。したいと言う「本人」が、自分で食べているわけです。あれは何なのでしょうか。心の奴隷そのものですね。心が「食べろ」というわけです。それをコントロールしきれない。だから今度は、たくさん食べて痩せる方法を捜すんですね。それでいろいろなダイエット食品が出てきます。僕が理解できないのは、コンビニなどで、小さいサイズの食品パックをよく売っていますね。これを買うのはほとんど女性です。結構高いんです。

心は「食べろ」という。でも他のところで、自分はスマートになりたい。それでいくら食べても痩せる方法とか、食べても脂肪を吸収しないお茶とか、捜して捜して努力をする。そんなものなにひとつなくても「適当な量しか食べません」と心が決めてしまえばそれで問題は解決するのです。だから我々は心の奴隷だというのです。

人が嫌いになったら、どうしようもなく嫌いだと感じる。いくらがんばっても嫌いなものは嫌い。仲良くした方がいいとわかっていてもいやなものはいや。それも同様に心の奴隷になってしまっているのです。

家族を守らなくてはいけないとわかっていて男性は浮気する。良くないと頭でわかっていて遊びに走る。私に、そっと打ち明ける人がたまにいますが、奥さんのことはとても大事に思っているというのです。それはどう考えても合理的な話ではありません。

それは何かというと、心の奴隷、心に支配されているだけなのです。心に言われるままに奴隷のように動き、自分では何もできない。

それで、どうするのでしょう。もうあきらめるしかないのでしょうか。

お釈迦さまは、あきらめるな、心をたたき直せとおっしゃるのです。心という神様、こいつをぶんなぐれと、悪いのはすべてこいつですから、これを直せばすべてが直るのだとおっしゃるわけです。

こういったことが因縁の話なのです。原因があって答えがある。だから不幸という結果を求めないなら、原因である心の部分を変えろということです。

あなたの心が問題である

では、業とは何でしょうか。「業」とは、過去に行為した、成したことの結果という意味です。ですから因縁の話でもあって、業の話と因縁の話はつながっているのです。

悪いことをすれば悪い結果になる、良いことをすれば良い結果になる、というのが業の話です。幸福だなあと思ったとすると、それは業であり、不幸だなあと思ったら、それも業。

たとえば食べものに欲があって、好き嫌いがあって、食べるものが片寄るとします。そうすると、ある時間がたてばからだが病気になる。
それが業の話です。それで、おいしいもの、好きなものはあるけれども、気をつけて考えて食事を摂るようにすると健康なからだになる。それも業の話です。

因縁の話とかなりだぶりますから、因縁のとき話した同じ話を「業」の観点から話してみましょう。欲張るのは、貧困のもとだと言いました。「業」の観点からいうと、欲張った人は自分のことしか考えません。とにかく金を取ろうということだけを考えます。金を手に入れることだけです。そうすると人から取ろうとしますね。取ろうとすると、相手側は取られないようにと厳戒な態勢を取ってきて、取れなくなるのです。

例を挙げましょう。私の国の首都コロンボではスリがたくさんいます。バスに乗ってもぎゅうぎゅう詰めでスリにとっては天国のように思えるかも知れません。しかし国の人は、スリがいることを知っているわけです。ですから私もコロンボではカバンのジッパーをしめて、注意深くカバンを持っていますから、まず取られることはありません。

ですが逆に日本では、自分の荷物には全く無関心でジッパーもしめることもありません。なぜなら誰も持っていかないからです。

相手のものを取ろうと欲張ると、相手は逃げる。しかし、相手の必要なものを自分が持っているからと、それをあげますと、向こうもこちらに必要なものを持っていますから差し上げますと、そんな風になるものなのです。それが商売でもあります。ですから商売をやる人は、もらうことばかり優先して考えると、あまり繁栄もしないものです。

逆に、たとえば八百屋さんが、みんなに新鮮ないいものを食べて元気になってもらいたい、いいものを届けるのが自分の使命だと考えて働いていれば、少しづつかも知れませんが、時間はかかってもお客も増えてくるのです。おまけも値引きも必要ない。信用で、あの人から買いたいと思う人が増えるわけです。

皆さま、毎日それを経験されているのではないでしょうか。欲張る人にはお金をあげたくならない、欲張らない人のことは面倒見てあげたくなる。

ケチで、自分の持つもの、能力も財力も分けようとしない人、そういう人は、その瞬間にはわからないかも知れませんが、いずれは貧しくなって不幸になる、それが業の話です。そして生まれ変わっても、同じように貧しいところに生まれ変わります。心は似ているところに磁石のように引き寄せられるのです。

仏教には餓鬼道という話があります。餓鬼道というのは、あれが欲しい、これが欲しい、食べものが欲しい、飲み物が欲しい、着るものが欲しい、そういう無いものを欲しがるエネルギーで生きる世界なのです。無い、無い、と泣かなければ生きていられないのがこの餓鬼道の世界です。欲しい、欲しいというエネルギーで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーが思う存分発揮できる餓鬼道に生まれ変わるといわれています。

怒りも同じで、怒りだらけで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーがそのまま発揮できるような、戦う相手だけがいるような世界に生まれ変わるのです。業の話が因縁の話とわずかに違うところは、心は似たところに引き寄せられるということでしょう。周波数を探すかのように心は、似た心に引かれます。

ですから、我々は、清らかな心を作ったほうがいいということです。簡単だからとすぐ怒りを持ったりすることがどれほど恐ろしい結果を生むかを知るべきです。

人間というのは知慧がなく、因果法則を知りません。ですから、自分がどのくらい恐ろしいことをしているかということに気づいていません。もし知っていれば、今すぐ心をきれいにしようと頑張るはずだとお釈迦さまはおっしゃいます。例えて言えば、からだに火をつけられたとしても、火を消すより先に心清らかにすることに励むだろうというのです。頭の上で原子爆弾が爆発しても一度死ぬだけで、たいして怖いことはない。でもわずかに一度怒ったら、一回死んでも終らない。延々と業がついてくるのだと、業の恐ろしさをお釈迦さま話しておられます。(この項目終わり)