根本仏教講義

11.幸せの分析 2

思考を少し変えてみましょう

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、幸せとは何かを考えてみました。いろいろな例をあげながら、「私は生きていることに意味があるんだ」という充実感を持てること、それが「幸せ」なのではないかというお話をしました。
ではいったい、どうすればその幸せが見つけられるのでしょう。

いい会社に入るために勉強する?

たとえば子供たちが学校に行って勉強する。母親は何を教えれば良いのでしょうか。いい仕事につけるように学校に行ってちゃんと勉強しなさい、と教えればよいのでしょうか。じつはそれこそ、不幸な教えなのです。そのように教えられれば子供は、自分のために、自分が贅沢するために、楽をするために、自分のわがままのために、学校へ行くのだと考え、わがままは良いものであると勘違いしてしまうのです。そして、自分の楽のために何かをする、というわがままを通しはじめるのです。

そうではなくて母親が、あなたたちが学校に行って勉強しなかったら、みんなが困るのだと教えたらどうでしょう。この世の中が、現在のように素晴しい世の中となったのは、お父さんたちが一生懸命勉強をして、科学的な研究を重ねて、いろいろな人の役に立つものを作ってきたからですよ。あなたもせっかく生まれたのだから、勉強して、大勢の人々の役に立つ人間にならなくてはダメなんだ。ろくにものも考えず適当に、誰の役にも立たないような、あるいは社会に迷惑をかけるような会社に入って、サラリーマンとなって、ただ何となく生きて死ぬようなら、お母さんにとっては何も面白くないんだと、教えてみてはいかがでしょう。

自分の贅沢な暮らしやわがままを目指すのではなく、大勢の人を助けられる立派な人間にならなくてはいけないのだと、そんな道徳観を教えてあげれば、子供は、やっぱり勉強することはとても大事なことなんだという気持ちになるのです。それで勉強が面白くなってきます。

どこかの会社に入るためでも、食うためでもなくて、この社会を守るため、人々を守るために勉強するのだという気持ちで、机に向かうのです。すると、能力のある人はどこまでも成長する。能力のない人は適当なところで伸びとどまって、そのあたりで社会に貢献しようとする。どちらでもいいのです。
たとえば日本は、これほど世界でも一流の教育をしているのに、世界を驚かせるほど有名な科学者は輩出していないのです。

それはどこかで、間違っているのです。おかしいのです。いるはずなんです。天才はそこらにいるはずなのです。みんなが利己主義で、エゴイストで、両親と学校に、その能力を殺されてしまっているのです。ものすごく頭の良い子がいたとしても、教育システムがそれを壊してしまうのです。みんなといっしょでなければならない。そこで、幸福も消えてしまうのです。

みんなといっしょでなくてもいいんですよ。小学三年生だけど、高校生くらいに頭がいい。それで何が悪いのでしょう。どうしてその子を高校へ入れてあげないのでしょう。思う存分頑張ってください、そして立派な人になってください、そう言って充実感のある人生を作っていく。ちょっと考え方を入れ替えるだけでなおるものなのです。いい会社に入るために勉強するのではなくて、社会のために、立派な人間になるために勉強するのだというふうに考えを入れ替える。誰一人として助けることもできないような人間はつまらない、格好悪いんだと。
それを教えるにうってつけのテキストは、たくさんあるでしょう。アインシュタインがどのように生きたかとか、そのようなことを伝える本はいくらでもあるのではないでしょうか。そのような立派な人間になればいいと子供たちにわからせることが大切です。

ほめられるより大切なこと

私が大きくなったのは、ずいぶん昔の仏教の世界でしたから、仏教の概念でそのように教えられていたんですね。ですから、勉強することで、なにかものすごく良いことをしなくてはという気持ちはあったのです。いろいろな人がいろいろなものを発明して、人の助けになりましたと聞くと、できれば自分にも、そういうことができればいいなあと考えるようになったのです。お金を儲けたいという気持ちはわずかさえもなかったのです。どうすればお金がいっぱい儲かるかなあとか、ベンツに乗れるかなあとかいう考えはまったくなかったのです。そういうことではなく、逆に、何かものすごい発明のひとつでもできれば、みんなが助かる、というのが子供の頃の夢でした。ですから、勉強するときでもとても気持ちがいいのです。

私はそれから仏教学に入りましたが、その気持ちは変わらなかったのです。ああなるほど、科学を勉強するよりも、こちらを勉強する方が人の助けになると、私は思ったのです。科学を勉強しても、生活で使うものや道具、食べるものなどを作るだけで終りますが、仏教を勉強すれば、死んでも、それからでも人の助けになるようなことができるんだ。そう思うと、充実感いっぱいにバリバリ勉強できたのです。勉強がつまらないと思ったことは一度もないんですよ。面白くない本を読むと眠くなりましたが、だからといって勉強をやりたくないと思うことはなく、居眠りしながらも、これを読まなくちゃいけないんだ、という気持ちがあったのです。ですからとても元気でがんばれたのです。

それは小さいときに母親にたたき込まれたことなのです。生きる目的は何か。自分のために生きるのではなくて堂々と、立派な人間として生きることだと。自分が大きな木のようになって、いろいろな小さな植物を助けてあげられるような、そういう生命にならなければなりませんと、教えられました。そういう子供たちは決して問題を作りません。頼まれなくても、家の手伝いをするのです。私も学校に行く前に、家で一日必要な水を汲んでいたのです。小さいとき、十才にもならない子供が、ものすごく重い水瓶を抱えて運ぶ。母親は別に、やってくれとは言わないのです。ですが見ていると、お母さんが一人で水を汲むのは重いのがわかる。それなら、私がやってあげましょうとやることにした。でも、手は痛いわ、体中痛いわ、ものすごくきつかったんだけど、気にしなかったのです。それでお母さんを助けているんだという気持ちで、うれしかったのです。だからといって、別にほめてもくれなかったのです。

なぜなら、ほめられなくてもいいということも教えられているのです。ですから、人にほめられても、舞い上がるということは私にはありません。だから、ほめて、私をのせて、何かをやらせようと思っても無理なんですよ。そうではなくて、その仕事が大切か大切でないか、僕に必要なのはそれだけなのです。相手に対して私の話が必要か必要でないか。必要だなとわかったら、ほめてくれなくても水一杯もくれなくてもやるのです。それで私は充実感を味わう。自分が役に立ったなあ、良かった、と。何も見返りは考えません。今は坊主ですから当たり前なんですけど、在家のときでも考えていなかったのです。

どうすれば充実した生き方ができるのか

たとえば会社に入ったとして、ただ会社の儲けを考えるのではなくて、会社というのは、仕事をして社会に貢献しなくてはならない、社会の人々を助けてあげなくてはならない、その分自分が生きていくための収入をいくらかもらうんだと考える。なぜなら会社が生きていないとそのお世話もできませんから、儲ける権利はあるのです。社会を助けているのですから。そうすると社員の方々も、この仕事はまじめにやらなくちゃいけない、この仕事から多くの人が幸せを感じているんだ、人々が助けられているんだと感じるはずです。

そういう風に我々の生き方を、ほんのわずか変えなくてはいけません。変えてみると、充実感というものが生まれてきます。そうすると元気が出てくるのです。 また、会社の社員であるなら、上司にちょっとした失敗を叱られたとき、ものすごく落ち込んでしまう人もいます。そういう人は、うちの会社は人間関係が悪い、上司はわがままで叱っているのだと言いますが、その考え方さえ変えれば落ち込むことはありません。上司に叱られるような仕事なら仕事にならない、しっかりやらなければ意味がないんだと、それをバネにしていい仕事をする。会社をやめるときに、いい仕事をした、ああよかったという気持ちになれる、そういう風に、いつも充実感というものを探して生きていれば、そこに幸福はあるのです。

たとえば、歳をとってやることがなくて、つまらなくてつまらなくて…というのでは可哀想なのです。人間には死ぬ瞬間までやることはあるのです。会社をやめたから、やることがないというなら、その人は決して幸せな人生を歩んできたとはいえません。会社でもただ、言われることを、ベルトコンベアーのようにこなしてきただけではないでしょうか。会社でも立派に充実感を持って仕事してきた人なら定年になって、おじいちゃんになっても、やることはいっぱいあるのではないでしょうか。経験のある人だから、立派な先輩だから、いっぱい仕事はあるのです。孫の面倒を見ることも、地域の活動をすることも。そういう仕事をすると人生は素晴しいのです。死にかけているときでさえ面倒を見てくれる人やまわりにいる人にかけるやさしい言葉もあるはずです。 このように幸福というのは「私は生きることに意味があります」と思える充実感なのです。(次号に続く)