根本仏教講義

14.因縁の話 1

仏教の中心的な教え~因果説

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月から「因縁」のこと、因果説、縁起説とも申しますが、このことを少々お話しさせていただきます。因果説全体の話となると、それは大変時間のかかる仕事になりますから、今回は修行、瞑想、実践をやっているときに必要な一側面についてだけ、ほんの少し、お話ししたいと思います。ですが因果説というのは、仏教で一番むずかしい教えだそうです。そして同時に大変重要で重大な教えであります。

因果説は悟りの智慧

お釈迦さまの弟子でアーナンダ(阿難)尊者というお坊さまがおりますが、お釈迦さまの説法を全部憶えて後世の人に伝えた、非常に頭のいい人で、阿羅漢なんですね。そのアーナンダ尊者が、ある日お釈迦さまにこんなことを言ったんですね。因果説が、本当にむずかしいということは確かですが、自分にとってはむずかしくないんだと。そうするとお釈迦さまは、そういうことは絶対に言ってはいけないとさとされたそうです。因果説は、本当にむずかしい、理解しがたい教えなのですと言われました。因果説は、阿羅漢の、つまり悟った人の教えなのですが、アーナンダ尊者はそのときまだ悟っていなかったのです。それでも普通の理論を使って考え、簡単ではないかと思ったわけですが、お釈迦さまは、それは悟りの智慧ですから、簡単だなんて言ってはいけないとおっしゃったのです。この因果説をわからないからこそ、人間は輪廻の中で生まれたり死んだり、無限にいろいろな苦しみを味わったりしているのだと、お釈迦さまはおっしゃいました。なぜ、輪廻の中で無限に苦しんでいるかというと、因果説をはっきりと体験として、つまり悟りの体験として理解していないからだと。

お釈迦さまのお話から、仏教の悟り、解脱のために必要な理解は、因縁の理解なのではないかと考えることもできます。また、お経の中にも、もし因縁の教えをよく理解する者があるならば、彼は、仏教の教えをよく理解しているのだという一節があります。さらに、お釈迦さまの一番目の弟子であるサーリプッタ(舎利弗)尊者が悟りの第一段階に入ったのは、因果説を聞いたあとなんです。

とにかく、この因縁の理解というのは、すべての煩悩を捨て去って長い時間修行なさっているとき、瞑想などをしているときに現れる智慧なんです。その智慧を、私たちはいま、「因縁」の教えとして使っているんです。

一般の人々は、言葉になった「因縁」の教えを学んでいるわけです。そういう悟りの智慧ですから、言葉にすれば大変な哲学になっているのです。ものすごい理論の体系なのです。ですが、理論と悟りの体験は、海と山ほどの差があります。縁起説の本を読まれても、哲学の本を読んでいるようなものですから、おもしろい人にとってはおもしろいですが、つまらない人にとってはつまらない。お釈迦さまの「智慧」というのは、そのような論理をはるかに超えた、「悟りの智慧」ですから、その「悟り」の智慧から因縁の教えを教えているのです。

因縁は仏教の中心的な教え

もうひとつ別のことを申し上げると、悟りには4段階あって、第一段階はsotāpatti(ソーターパッティ)と申します。それは日本語では預流果ですね。預流果というのは涅槃にはいるという意味です。その、第一段階に入るのを妨げている一番大きな理由のひとつは、私たちが自分の心の中に、何か永久的で確実なものがあるとかたく信じ込んでいることなんです。つまり、私がいるという考え。自分の心の中に、生命の中に何か非常に大切な実体があると思っていること。自分が死んでも、どんな目にあってもなくならない、何か魂のようなものがあると、心のどこかで信じている。他人より重要なものとして、自分をとらえているのです。

しかしそれは現実ではなく、智慧がなくて、無知から現れてくる単なる「概念」なのです。無明からものごとは理解できません。輪廻の中で、生活の中で、ありとあらゆる苦しみを体験しているとき、何とか逃げる道を考えたくて、自分は苦しんでも魂は苦しまないだろうとか、自分がまもなく死に至る大病にかかって、死を目前にしたとき、今回は死んでも魂は死なないのだとか、真実を見ないで何とか逃げる道を探そうとするのです。皆さんの心の中に、何か永久的な魂のようなものがあるという思いがあるのです。それは智慧の原因ではなく、無知の原因なのです。

因縁というのは、そういうものではなくて、万物の働きによって自分がいる、だから自分は決して自立して存在するものではないということを感じ取ることなのです。自分がいるという「実感」そのものさえ、万物のなかでのお互いの働きによって現れてくるものだと知ることなのです。ですから執着するものは何もない。けれども、自分が言ったり、考えたり、したりするすべてのものごとには、自分が責任を持たなければならない、自分の苦しみは自分が作るものであって、自分の幸せも自分が作るものである…そういう智慧が、縁起説によって現れるのです。ですから、縁起説というものは、人間の心の中にある強い煩悩、強い無知を破ってしまいます。そして、悟りという光、智慧という光が現れてくるのです。

そんなわけで、因縁の考え方は、仏教の教えの中で中心的な教えであることを、みなさまにはわかっておいていただきたいと思うのです。また、仏教でいう「因縁」とはある意味で仏教そのものなのです。ですから、縁起説を勉強しようと思うことは、仏教そのものを勉強しようということなのです。

古いお経にでてくる話ですが、ある日お釈迦さまがおっしゃるのです。仏教の教えというものは、世の中にある「法則」のようなものである。それはお釈迦さまがいてもいなくても、世の中にある真実であるのだと。世の中にはすべて因果関係があるとおっしゃられたのです。たとえとしてされたお話があるのですが、森の中に、皆に忘れられた町、古い、しかし素晴らしい町がある。ある智慧ある人が森の中を歩いているとき、この素晴らしい町を見つけて、みなさんにも、このように行けばこのような素晴らしい町に行けるんですよ、ですから行って住みなさいと言って教える。そのような形でお釈迦さまも無明によって現れてこなかった因果の法則をご自身が悟って理解して、それを一般の方々にもわかりやすくかみくだいて、そこへいたる道を教えているのだとおっしゃるのでした。

さまざまなエピソードがありますが、ともかく因果説というのは、仏教そのものであり、宇宙の真理であることをわかっていただきたいのです。仏教の因縁の教えを持って、この世の中のこと、万物のあり方、宇宙のあり方も説明することができるのです。でもお釈迦さまには科学のようなものを教える暇はありませんでしたから、悟りに必要な、解脱に必要な部分だけを教えて残されたのです。

因果説と、苦、無常

次に因果説とはどういうものなのかということについて、もう少々お話ししたいと思います。

智慧がない人にとっては、生きるということは無限の苦しみなんです。しかもその苦しみには終わりがありません。ある理由があって苦しんでいるので、その理由がなくならない限り、たとえ死んでもその苦しみは続くのです。人間の四諦のなかで、第一の真理は苦です。その人間の苦しみを説明するために、なぜ人間は苦しんでいるのか、なぜ人間は不満がいっぱいで、悩みが多いのか、それを明らかにするために、因果説は使われています。

それから、第二の真理は、世の中には永久的に不変なもの、変わらないものはないということです。何かそのような永久的な存在があるという間違った考えを破って、本当の智慧を得るためにも因果説を使っています。すべてのものは、変化に変化を重ねていくエネルギーです。宇宙の存在そのものも永久的なものではなくて、ひとつの波動のようなものであり、変化を続けていくのです。無常なのです。無常そのものが存在そのものなのです。一時的な無常、たとえば子供がどんどん歳をとっていく様子を見て、あるいは生きている人が死んでいくこと、そのような現象的な無常を見て、人はこの無常に驚き、何か心の中に、あるいは宇宙の中に、絶対的な存在、魂や神様のようなものがあるという誤った考え方に陥ってしまうのです。その大きな誤解をうち破るために、仏教の経典の中では因果説を用いているのです。すべてが無常であり、永久的なものは何もない、存在そのもの、生命そのものも無常であるというのです。

しかし、そのように、すべては変わっていくのだと教えていると、頭だけ、あるいは言葉だけでで理解しようとする人々は、それなら我々は楽に生きていきましょう、存分に楽しんで、身体に快楽を与え、喜ばせて、楽に生きましょうという極端な考え方に陥るのです。しかし人間はそれほど楽には生きていられない、自分が行うすべての行為は、長い時間がかかっても必ず自分の方へかえってくる、悪い行いの結果は、必ず自分に向かってくるのだということを因果説は教えています。自分が行う行為の結果は決して無視することはできない、自分が行うすべての行為には、自分が責任を持たねばならないのだと、お釈迦さまはおっしゃっているのです。(次号に続く)